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2025.02.11Vol.674 まずやろうとしてみる

 「先生、フッかるやな」。フットワークが軽いということである。
「Vol.672 勉強を通して身に付けたこと」の中で、年末に予備校時代の同窓会があったことに触れた。その際、私の隣に座ったOが、「年明けに、Nと一緒に東京で2人で飲むことになってるけど来るか?」と聞いて来たので、二つ返事で「おう、行く行く。で、いつ?」と日程の確認をした。中学受験の統一入試日である1月18日(土)より前であればさすがに難しかったが、20日(月)の19時からとのことだったので、「それならどうにかなる」と参加確定。その日はまだ対策が必要な生徒がいる可能性はあったものの、その場合でも生徒は学校を休むため夕方までに授業は終えられるので17時前後のフライトを予約した。この話を高校生にしたところ、冒頭の「フッかる」認定を受けた。Oは、夏休み明けの後期が始まるタイミングで、医学部クラスから私のいた京大クラスに移って来た変わり種であったので、浪人生の頃の付き合いは半年だけであった。同窓会の際に、「医学部クラスの連中は真面目で面白くなかったから」とその理由について語っていた。そもそも国公立の場合、医学部とその他学部で勉強の内容は変わらない。また、私立の場合は小論文試験が課されたり志願理由書の提出が求められたりするものの、それも特別な対策が必要な訳ではない。実際、志高塾から私立の医学部に合格した生徒はこれまで何人かいるが、他の学部を目指す生徒同様に志望校の過去問を踏まえて小論文対策をしたり、一緒にその学校について調べて志願理由書を練ったりしただけの話である。医学部専門を謳う予備校は、作文関連の特別な対策ができるわけでもないので、授業料が格段に高い以外の特徴がどこにあるのかは分からない。このまま違った方向に突っ走って行きそうなので、この話はここらへんで止めにする。
 さて、そのO、本人の第一志望は現役のときと同様に京大の総合人間学部で、それとは別に親の意向もあり慶応の医学部を受験した。どちらも合格し、悩んだ挙句に後者を選び、今では国立がん研究センターのある診療科の科長を務めている。彼は単に勉強ができただけではなく、当時から人間的にも落ち着いていて話をしていても面白かった。もう一方のNもドクターである。研修医時代の同期と結婚しているのだが、奥さんは5つ下である。なぜか。関西の私立の医大に3浪で合格し、大学で1年留年し、国家試験でも1年浪人したからだ。そのことに何ら後ろめたさを覚えるわけでもなく、「どんなけ遠回りすんねん」と突っ込むと、「だって、やる気なかったからしょうがないよな」と漏らしていた。そのNは、去年銀座に奥さんと一緒に形成外科のクリニックを開業した。ポンコツなので事務仕事ができずに奥さんから怒られるらしいのだが、その代わり、手術のテクニックに関しては自信があるということを淡々と語っていた。あほなまんまであることも、医者としての腕が良いこともどちらも紛れもない事実なんだろうな、と感じさせてくれる奴である。当たり前の話だが、いくら私がフッかるであったとしても誘われたからといってどこにでも顔を出す訳ではない。当時2人とは仲が良かったし、現在対極的な医者となっていることにも興味をそそられたからこそ出向いたのだ。結果的に、もう一人加わって男4人で飲むことに。そいつは大企業の部長になっていると聞き、自分が40代後半になったことをいつもと違った形で実感した。俺らぐらいの世代って、ちょうど社会でそういう責任ある立場を任される歳なんだな、と。そして、次回は、夏ぐらいに神宮球場で阪神の試合をみんなで見に行くこと。
 東京に一泊するだけの場合、羽田空港の近くに宿を取ることが多いのだが、居酒屋が新橋であり、翌日、久しぶりに国立西洋美術館に行く予定にしていたため、初めて両国のホテルを予約した。東京に行く前日に、両国国技館で初場所が開催されていることを知った。まだ千代の富士や小錦が現役であった小学生の頃から社会人になるぐらいまでは毎日スポーツニュースで結果を確認するぐらい相撲には興味があり、幕内力士であれば全員知っていたのだが、今や、横綱や大関ですら名前ぐらいは聞いたことがあるかな、というような状態である。「生で観戦するので、できるだけ楽しみたいな」となり、相撲好きの女友達に連絡することに。彼女は、私がこのブログでも時々話題にする就職活動中に知り合い、今でも年1回東京で会う、10人弱のグループのメンバーの1人である。日曜の晩に、「明後日、初めて相撲見に行きたいから横で解説してや」とメッセージを送ると、すぐに返信があった。「仕事してんのに、そんなん急に言われても行けるわけないやろ」ではなく、「チケット完売しているよ」だった。転売サイトで売っていることは事前に確認していたので、結果的に15時に現地で待ち合わせをして一緒に観戦することに。席に着く前に一通り館内を案内してくれ、その後はマニアックな情報を交えつつ取り組みの解説をしてくれた。私のわがままに18時過ぎまで付き合ってくれ、彼女は2人の小学生が待つ家に母として帰って行った。
 後々、「俺よりあいつの方がよっぽどかフッかるやん」となったのだが、でもよくよく考えたら、出会った当初から、そのグループのメンバーは誰かが企画を立ち上げると、どうやって楽しもうか、という方向で話が進み続けて実行するところまで常に行くから20年以上経った今でもその関係は続いているのだ。学生の頃に比べれば制約は増えているが、基本的な姿勢は変わっていない。ここまで遊びのことについて述べて来たが、その相撲の前日にそのグループのもう1人のメンバーと自由が丘で会っていた。彼と話している最中に、1年後の2026年4月に自由が丘校を出すことに決めた。

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