
2026.05.29社員のビジネス書紹介㉜
徳野のおすすめビジネス書
ピョートル・フェリクス・グジバチ 『年収が上がるマネジメントの法則 世界の一流は「部下」に何を教えているのか』 クロスメディア・パブリッシング
そもそも「マネジメント」とは何をすることを指すのか。私の場合、そこからのスタートである。芸能人のマネージャーの役割を断片的に見聞きして、業務の内容決定やスケジュール管理をしているイメージを持っていた程度だ。
筆者曰く、実は上記のような理解の曖昧さこそが我が国のビジネス界の課題であるという。「マネジメント」という概念は欧米由来のものだが、究極的には「同じ組織の仲間を外部でも通用するレベルにまで成長させること」だと定義付けられる。そのためには、特に部下に対しては相手の主体性や判断力を引き出すのが重要となってくるのだが、日本では上司が「細々とした具体的なスキルの伝達」か「感情的な鼓舞」をすることに留まっている場合が多い。年功序列と終身雇用の制度が常識だった頃であればまかり通っていただろうが、昨今においては若手社員の離職の遠因として問題視されるようになっている。時代の変化に対していわゆる中間管理職の人々も危機感を持ってはいてもどう手を打てば良いのかが分からない、というのが現状なのだ。
では、人材を育てるには何をすれば良いのか。最初にやるべきは「取り組みの目的」を明示することである。その際、各メンバーの働きが組織にもたらす利益だけでなく、プロジェクトを通して一人ひとりが伸ばせる知識・技能についてもやり取りすることが重要になってくる。なぜなら、個人にフォーカスすることで相手に「自分に注目してくれている」という安心感をもたらし、部下が相談事をしたり、自身の抱負を語ったりしやすい土壌が作られるからだ。要は、メンバーに「この人なら信頼できる」と思ってもらえるような振る舞いを心がけなくてはならない。そのためには、上司自身が仕事で成果を出すのは勿論のこと、職場での言動が周囲に与える影響を自覚する必要がある。例えば、会社の制度や上層部への愚痴を後輩や同僚にこぼす人がたまにいる。本人はコミュニケーションの一環のつもりでやっているのだろうが、聞いている側は「陰口を言う人物」という印象を受けて不信感の元になる恐れがある。
改めて思ったことだが、講師とマネージャーの役割は似ている。両方とも身近な他者の自立(および自律)を手助けするのが使命だ。ただ、研修の最中や終了直後の講師だと自分の指導への自信の無さから、生徒に対して手取足取りのやり取りを展開してしまおうとすることは珍しくない。(かく言う私自身、学生講師だった頃に経験済みだ。)場面に当たった際には、「先生として不安が沢山あるだろうけど、子どもたちの力を信じて考える余地を残してあげてください」と声掛けするようにしている。大人が適切な距離感を保った方が生徒は達成感を覚えやすくなるし、その姿を目の当たりにすれは、講師の中にはやりがいが生まれるからだ。
三浦のおすすめビジネス書
萩原雅裕 『「今日も仕事が終わらなかった」はなぜ起きるのか?』 ダイヤモンド社
行き当たりばったりで生きている。プライベートでも何でも、計画通りに物事を進めるのが得意ではなく、夏休みの宿題もぎりぎりまで溜め込んで、火事場の馬鹿力(というのもおこがましい)でどうにかしてしまうようなタイプだった。しかし、次第にそれでは済まなくなっていった。時間をかけても思うように進まず、予定通りにはいかないことがほとんどだ。
本書では、計画を立てる段階と実行する段階を明確に切り分ける、という方法について述べている。「作業に逃げない」という言葉が登場していたが、とにかく手を動かすのではなく、その前にゴールが何かを具体的にし、脳内で一度、仕事が終わるところまでシミュレートしておくことが重要だという。これが「計画」の段階だ。脳内ですら終わらない仕事に手をつけてしまっても、進んでは戻りで、結果的に進みは悪くなる。人はマルチタスクをできるようにはなっていないので、「考える」時間と「手を動かす」時間を行き来すればするほど、効率は下がっていく、というのだ。
だから初めのうちに徹底的に考えて、「あとは手を動かすだけ」という、作業に集中できる状況を高い精度で作り上げることが、結果的には効率的に仕事を進めるための近道になる。そして作業から離れざるを得ないときには、後の自分への引継ぎをメモでも何でもきちんと行っておけば、そのままの状態で再開することができる。この引継ぎの鍵として、アクション動詞、要するに「実際に手を動かす動詞」を用いることが重要だと述べていた。「〇〇について考える」ではなく、「〇〇に関連する△△について調べて箇条書きでまとめる」といったように、実際になにをすればいいのかが明確になると、考えなければならない時間が減るからだ。このアクション動詞の考え方は、初めの「計画を立てる」段階でも有用だ。ゴールや工程のぼんやりとしたイメージに具体的な形を与える。まさしく手を動かすより先に必要な作業だ。
本書を読みながら、自分の普段の作業について振り返っていた。文章を書いている時には、書きながらいろいろと考えて、ふと浮かんだ疑問を調べて、そういった「手を動かす」ことと「考える」ことが一体になっているような気もする。これを明確な切り替わりに感じたことはない。書くことと考えることは切っても切り離せないのだろう。
竹内のおすすめビジネス書
吉岡秀人 『最後の講義完全版 吉岡秀人 人のために生きることは自分のために生きること』 主婦の友社
※苗字の「吉」は、上部が「土」になる「つちよし」です
本書は、海外での医療支援活動を行うNGO「ジャパンハート」の設立者である岡秀人氏が出演したNHK番組を書籍化したものである。1995年にミャンマーで小児医療に関わり、日本でも小児科に勤務した後、先の組織を立ち上げ一人でも多くの子どもに医療を届ける取り組みを続けている。
軍事政権であるミャンマーでは国家予算の約1%しか医療費に充てられていないと言われている(日本は2023年時点で23%)。日雇いで得たお金をどうにか集めて遠い病院までやってきて、やっと1回注射を打ってもらえるというケアが珍しくない。それすら叶わないことも当然のようにある。衛生環境の悪さゆえに発育不良で生まれることとなる子どもも多い。救うことのできた命があるのはもちろんだが、力及ばなかった事例はそれ以上にあり、そういう経験をしてきた中で磨かれてきた岡氏の命に対する観念は、未熟な私にはまだすっと入ってこないところもある。
しかし、小児科医として子どもと向き合うことは、その周りにいる家族を支えることでもあるということについてはその通りだと思った。長くは生きられないことが明らかな時、残された時間をどうやって過ごすことで、たとえ短くてもその日々を「思い出したいもの」にできるのか。死が身近で、当たり前であるかのような環境の中で、「大事な存在だと伝える」ために最後まで力を尽くす。大事なのだと伝えられることは患者のエネルギーになり得るし、すべての人間にとって、大きな安心感になるはずだ。時には忘れてしまいがちなこのことを、きちんと伝えることは、子どもと関わる人間としての責務である。
2026.05.22Vol.94 流れゆく潮風(三浦)
海というものに漠然とした憧れがある。憧れがある割に、海を渡ることは滅多にない。
生まれも育ちも大阪。最寄り駅までは徒歩十分から十五分、阪急沿線なので梅田へも手軽に一本で出ることができる。高校までは公立だったので、小学校・中学校は徒歩通学だったし、高校はバスで一本だった。大学になり多少行動範囲は広がったものの、それでもずっと、生活は阪急沿線止まりだった。
何がいいたいかというと、私の中での交通手段とは、基本的に「電車」である、ということだ。大抵のことはそれで済んでしまうので、(そして運転への多大な苦手意識があるので、)車の免許は持っていない。自転車は近所の狭い道を走るには不安で、昨今の交通法の変化もあり、家に一輪置きっぱなしになっているだけだ。
前置きはここまでにして、時は四月の頭に遡る。前回書いたように、私はその時、家島を訪れていた。姫路港から船で三十分ほどの小さな島だ。姫路港では、小豆島に向かうフェリーの窓口を横目に自動発券機で券を購入した。実は昨年にも家島を訪ね、そこでの穏やかな時間の流れに感動して再訪することにしたのだが、一年の間に色々と事情が変わっていた。
まず、家島に向かうためのフェリーは二社が運航していたのだが、合併なのか新設なのか、一社のみの運行になっていた。そのため「去年と同じでいいだろう」と呑気に港に向かったところ、朝夕の混雑時以外はほぼ半分になっていた本数の影響で、三十分ほど待つことになった。そして到着後も、昨年にお世話になったカフェは閉店しておりショックを受けることになる。たった一年ではあるが、されど一年。三年前の時点でおよそ2,300人という人口は、やはり減少していくものなのだろう。それに伴って多くのものが縮小していくのは仕方のないことだ。仕方のないことではあるが、やはり、寂しい。
姫路から家島まで、当然のことながら、交通手段は上記の「船」一択である。あまり遠出をしない身なので、船には乗ったとしても観光遊覧船がほとんどだ。交通手段ではない。手段としての「船」というものを、私は今年、ようやく実感した。宿で美味しい食事をいただいた(島には漁師の方が多く、魚が絶品である)後、宿のお母さんが「明日の午後は船が出ないから、朝のうちに姫路に行かないとね」と、運行会社からのLINEを見せながら話してくれた。確かに予報では雨だったが、まさかそれほどとは到底思っていなかった。同行者と顔を見合わせてから、「なるべく早い方が安心ですよね」「中型船しか動かないから本数は少ないね」と話し合い、結局翌朝、もとの予定よりも数時間早く、姫路へ向かうことになってしまった。そして姫路に用があるらしいそのお母さんは、当日中は戻れないかもしれないからと、宿泊用の荷物を持って船に乗り込んでいた。
もう少し観光したい気持ちはあれど、自然のことなら仕方がない。そう、「自然だから仕方がない」という感覚を、私は滅多に味わったことがなかった。電車は多少の雨風であれば、仮に台風であっても問題なく動く。駅まで無事に着けさえすれば後は目的地まで、(人為的な問題が無ければ)間違いなく辿り着く。バスは渋滞が問題になることがほとんどで、それが自然由来なことは、そもそも少ない体験上でもめったにない。交通手段として浮かぶのは、ほかには飛行機だろうか。飛行機も自然に左右されるものだが、こちらも船のように十数年に一度乗るか乗らないかの非日常であること、そしていずれのフライトも問題なかったことから、やはり、実感は薄かった。ふと、釣りなどによく出ていれば、船の出る出ないは日常茶飯事なのだろう、とも思った。自然というものとほど遠い自分の生活を少し振り返るきっかけのひとつだ。
さて、行きの時間と帰りの時間、いずれもずれてしまったことにより、島の土産品である海苔と塩を買いそびれたまま姫路港に戻った。去年は姫路港の売店で追加のお土産を買ったのだが、なんと、その売店も去年のうちに閉店していたことをその時に知った。またほんの少しショックを受けつつ、港に併設されている「姫路みなとミュージアム」ではしゃぎつつ、雨でも定刻通りにやってきたバスに乗り込み、姫路駅へと戻ることにした。その後は、予定より早く向かったために、姫路城周辺を比較的スムーズに観光し、雨の降りしきる姫路市立動物園で眠たげにしているライオンを眺めることになる。
家島での観光客の移動手段は、主に自転車だった。宿にご厚意で貸してもらった自転車を乗り回しては海沿いを走り抜け、坂の下に停め、ほぼ山道のような坂を歩いて上っていく。頂上と思しき場所には桜が咲き誇る公園があり、眼前に広がる菜の花があり、見下ろせば海と合わさって美しい。道行く人は通りざまに声をかけてくれる。古き良き路地裏を行けば、それぞれの家の玄関に餌皿が置かれており、そこかしこで野良猫が自由に生活している。島内には学校がひとつあるばかりで少子化も進んでいるようだが、休みなことも相まって、子どもが外で家族と遊んでいる姿も見かけた。宿のお母さんも、近所の夫婦が働きに出ているときは、その子供をよく預かっているらしい。思い返せば昨年、チェックアウトの直前に、幼い子供が人見知りをしながら居間から顔を覗かせていた。
穏やかで、優しくて、良い場所だと思う。その印象は昨年から変わらない。
去年、宿のお母さんに「数万円で家を借りれるよ」と囁かれたことを思い出す。あの時から相場は変わっているのだろうか。夢の離島生活。いつの日か、と思って、はや一年。のんびりとした時間の中で、何かが確かに変わっていっている。悠長にしている暇はないのかもしれない。それは自然の流れ、なのだろうか。
2026.05.15Vol.93 下手上等(竹内)
教室休みの最終日、この春卒業した元学生講師が所属する楽団が参加するという東大阪市民祭りを訪れた。地元の様々なサークルがステージ発表を行うのだが、いくつかのダンス教室では出番の前後に「初心者の方も大歓迎です!」と未来の生徒に呼びかけていた。小学校低学年くらいの子たちはやはりまだ動きにぎこちなさがあるものの、高学年の子や中学生らしき子などは滑らかで緩急が付けられていて様になっている。歴は違うだろうし元々のリズム感なども当然影響するのだろうが、レッスンを重ねることでどういうことができるようになるのか、というのが結構分かりやすく感じられた。大勢の人前で披露することに緊張もある中、笑顔を絶やさない子が多かったのも印象に残っている。言葉しか使えない自分からすると、体で表現できることは羨ましい。こういう場をきっかけに新たな世界へのドアを開く子がいるのであればそれはとても良いことだ。
ただ、こういう時の「初心者」とはどのくらいのものが想定されているのであろう。募集の対象に自分が入っていないことは一旦横に置いておいて、未経験者でも構わないという触れ込みであったとしても、「それ本当ですか?」と疑ってしまうくらいには私は運動音痴である。厄介なのは、下手くそなのにそういうのをやってみたいという良く言えば好奇心があるところ、悪く言えば身の程知らずなところだ。公立の中学でソフトボール部に所属していたことはこれまでも生徒に対して話題にしたことがあるが、特に1つ上の代は地区予選を突破し県大会まで、下の代は他校との合同チームでありながらも市内予選から阪神大会まで進んだ実績を持ち、西宮ではそれなりに強かった。どうしてそんなところに入部したのかと問われれば、「廃部にしたくなかったから」ということになる。入学当初、バスケ部やテニス部に人気が集中し、ソフトボール部を希望した生徒はゼロだった。私はというと、小学生の時に高校野球にはまった勢いで野球部の顧問に直談判してマネージャーとして入部していた。今思い出すとよく認めてもらえたなという感じである。しかし1年の冬にふと、自分のすべきことがそれではないような気がした。このように書くとものすごくかっこいい選択のようだが、親にも、体育の成績を知っている担任や顧問にもやめておいた方が良いのではないかと引き留められたし、初めての練習でダッシュをした私に向けられた先輩方の「これが全力疾走?」という驚きの目を忘れることはない。それでも、野球部と同じグラウンドで毎日練習に励んでいる姿を見ていると、なぜかやりたくなってしまったのだ。チームにかけた迷惑は計り知れないが、強くて厳しいチームで必然的にキャプテンを務めることになったのは得難い経験である。高校では大会を通じて仲良くなった別の中学出身の友人と誘い合わせてまたソフトボール部に入り、部員集めに奔走した。ここでこそ野球部のマネージャーをすれば良かったのかもしれないが、自分という枠を超えたことで身につけられたもの、出会えた人や感じた気持ちはたくさんある。得意じゃないけどやってみたいという純粋な思いは絶対に掬い上げるべきだ。
ここで辞書を引いて「初心」の項を見てみる。
①何かしようと最初に思いたったときの、ひたむきな気持ち。初志。
②学問・技芸などを、習い始めたばかりであること。
③世なれていないこと。
すっかり視点が抜け落ちていたが、「初心者」=「下手」が必ず成立するわけではないということだ。初めて習う場合は当然未経験ということになるものの、めきめき上達することも往々にしてある。だから、「初心者大歓迎」なのである。私は上手くなるまでにものすごく時間がかかるから、後から始めた人の方が断然良い動きをしていることをたくさん見てきたから、せっかく優しい言葉をかけて誘ってもらったとしても相手をがっかりさせてしまいそうで怖いという気持ちが先行するのかもしれない。でもこれは、分野は違えど今自分が子どもたちや講師たちに働きかけるということを毎日している中で、相手に対して抱いている気持ちは良い意味で「期待」ではなく、「楽しみを見出してほしい」というものであるのだと理解している。
先述のお祭りから遡ること4日前。豊中校から歩いて10分ほどの大門公園で中2、中3の女子生徒たちとキャッチボールをした。中2の生徒がこの一年を本当にだらだらと過ごしていたので、体を動かす部活をしたらと春休みに声をかけていたのだ。その後の状況を尋ねるとなんとソフトボールを始めたとのことだったのだが、本人曰く「下手くそすぎてユニホームがもらえない」らしい。何かやるべきと勧めていたのは自分だし、せっかく挑戦したものが面白くないまま終わってしまうのは残念なので、実家からグローブとボールをどうにか引っ張り出して名ばかりの練習会を決行することにした。中3の子は「やってみたい」ということで駆けつけてくれた。投げる時の肘の高さやグローブを相手に向けること、受ける時のポケットの感覚など、初歩的なことを説明するくらいしかできなかったが、約1時間でパシッと良い音が響くことも、良いボールが行くことも何度かあって2人とも満足げだった。私がばりばりのスポーツマンではないことが、2人が気楽に参加することに繋がったのなら下手くそ冥利に尽きる。「できないから嫌い」よりも、「できなくてもなぜか好き」が多い方が、日常はきっと豊かになる。
その生徒の学校では部活動がターム制なので、夏には活動が終わってしまうのだが、あと2回は練習しようと約束した。6月の予定を確認中である。
2026.05.01Vol.92「一期一会」の先へ~其の一~(徳野)
月曜日15時10分、京都市は快晴だった。志同くVol.86で取り上げて以来ずっと先延ばしにしていた「cafe出町びぎん」を訪問するべく河原町に降り立った。お店の最寄りのバス停は「河原町今出川」もしくは「葵橋西詰」で、どちらも京都河原町駅から約10分とのことだったが、私はさっそく行き詰まっていた。どの乗り場に向かえばいいのか分からなくなったのだ。皆様お察しの通り、私は極度の方向音痴である。よって、ターミナル駅前のバス停となると路線が入り組んでくるので、あっという間にお手上げ状態に陥る。右往左往している間に時間は無情にも過ぎていく。お店は17時に閉まるというのに。そもそも家を出る時刻も遅すぎた。花粉症なのか知らないが昨晩から続いていたくしゃみと喉の痛みを理由にだらだらと過ごしてしまった。体調不良を押して外出するならさっさと出発すれば良かったのだ。もうこうなったら「あの手」を使うしかない。己の迂闊さを呪いつつ、カラオケ屋の前で待機していたタクシーに乗り込んだ。
あくまで個人の感覚になるが、京都のタクシードライバーさん達の運転はワイルドだ。今回お世話になった人も、他の地域の運転手さんと比べて体感1.3倍ほどのスピードで街を駆け抜けてくれた。そういえば座席に掛けてあったブランケットもチーター柄だった。そのおかげか乗車中ずっとはらはらしっぱなしだった。しかしながら、サービス精神旺盛で、(はるかに年下の私が言うのも変だが)とても愛嬌のあるご老人ではあった。例えば、鼻をすすっている私を一瞥するや否やのど飴を2つ差し出し、「ゴミはそこの吸い殻入れに捨てたらええわ」と声を掛けてくれた。親族以外の、いわゆる「大阪のおばちゃん」的な存在から飴ちゃんを貰った経験すら無い身としては、京都のおじいちゃんによる心遣いへの感激よりも先に軽い驚きを覚えてしまった。その後、信号待ちの度に挟まれる観光案内に相槌を打ちながら車に揺られること7分。寺町通で降ろしてもらった時のお会計は2,200円だった。財布からまず2,000円を出したところ、運転手さんから「残りの200円は無くてええわ。あとは自分で頑張って(目的地に)辿り着くんやで。」との言葉を受け取った。ちなみに、こういう風に「負けて」もらったのも初めてだった。さすがに今度はきちんと感動しながら何度もお礼を伝えることができた。
歩きながらふと記憶に蘇ってきたのが、中学2年生の頃にクラスメイトだったMちゃんのことだ。Mちゃんは学年内での評判がとにかく悪かったし、彼女の唯一と言っても良い友人も陰ではMちゃんをこき下ろしていた。なぜなら、自分は教員の目を盗んで校則をしょっちゅう破っておきながら、他の生徒のルール違反やミスを見つけると、即座に担任教師や部活の顧問に報告していたからだ。また、そういった棚上げ行為をしていない時でも、人に接する態度が苛烈だったため、私自身、意識的に彼女を避けるようにしていた。だが、そんなMちゃんに異変があったのは2年次の秋からだ。まずは、教員に頻繁に言いつけに行くのを止め、所属している吹奏楽部でも落ち着いて練習するようになった。そのおかげで周囲との衝突も各段に減った。ここまでは良かった。同時に始まったのが、「あげる」行為である。先述の通りお菓子の校内持参は禁止だったのだが、Mちゃんはチョコやらグミやらを生理用品を入れるポーチに忍ばせ、昼休みに体育館裏や便所で会った顔見知りの女子に上目遣いを送りながら「これ、食べていいよ」とおもむろに取り出すのだ。正直に言って意味もなく睨みつけられるよりも迷惑だったし、以前の姿を知っているだけに「何か企んでいるのではないだろうか」と勘ぐってしまっていた。ただ、私には毅然と断る勇気が無かったため、「ありがとう、また今度にしとくね」とお茶を濁して逃げていた。大半の生徒も似たような対応をしていたので、Mちゃんの周囲に集まる人は相変わらず少なかった。そして、本人も効果の薄さを実感したのか、冬になる頃には目立った行動を取らない本当に大人しい子になっていた。年齢を重ねた今となっては、Mちゃんの孤独感が痛いほど分かる。けれども、残酷ではあるが、彼女が心を許せる友達を得られなかったのは仕方ない、とも思う。あんなになりふり構わずいきなり下手に出て、人の心を物で釣ろうとしていてはかえって距離を置かれるからだ。また、Mちゃんは相手にまで校則違反というリスクを負わせることで連帯感を生もうとしていたはずである。彼女がその点にどこまで自覚的だったのかは不明だが、最終的には「これでは上手く行かない」と悟ってくれたことには救いがある。
Mちゃんのことを思い出したのは、タクシードライバーさんの気遣いが細やかでありながら、とてもさっぱりとしていたからだろう。二人のあり方は対照的だ。短くて1年間は付き合わなくてはならないクラスメイトとは違い、観光地の運転手と乗客というのはまさに「一期一会」の関係にあるとみなせる。そして、たった一度きりだからこそ、無償のサービスを通して相手を喜ばせて、お互い気持ち良く別れたい。あの運転手さんは「純粋」を感じさせてくれた。土地勘の無さ以上の問題を抱えた私を「本当に行ける?」としきりに心配してくれたおじいちゃん。おそらく後期高齢者に差し掛かっていて耳も遠くなってきている様子ではあったが、とにかくご本人が望む形で幸せに生きてほしいと願う。
さて、Googleマップいわく、寺町通りから路地に入り、まっすぐ進めば「cafe出町びぎん」はある。とのことだったが、多彩な喫茶店や豆餅で有名な「出町ふたば」が店舗を構える通り沿いとは違ってごく普通の住宅が並んでいたので、「本当にあるのか?」と若干不安になってきた。
すると突然、宙に浮くつぶらな青い瞳と目が合った。出町桝形商店街の目印(と私が勝手に認識している)の巨大なサバのオブジェではないか!脂の乗っていそうな立派な体躯に似合わず、ロマンチックに星を散らした瞳の持ち主である。アーケード内を散策したい気持ちはやまやまだったが、17時閉店の「cafe出町びぎん」に急がねばならなかったので、そのまま横切った。
やっとのことで到着した「cafe出町びぎん」に足を踏み入れた第一印象は、「物凄く普通の、綺麗なお家だな」というものだった。名物店主であり、地元の方々に「ママ」と慕われているKさんがお宅の1階を活用しているので当たり前ではあるものの、テーブル、アップライト・ピアノに応接セット、パソコン用のデスクが同じ空間に置かれている店内の空気には、とても新鮮味を覚えた。ランチタイムのピークはとっくに過ぎており、その時点でお客は私だけでKさんの姿も無い、という状況も不思議な感覚をもたらしていた。30秒ほどキョロキョロとした後に厨房の方をおそるおそる覗き込んでみると、タイミング良くKさんが2階から降りてきた。他方のKさんにとっては「運悪く」だっただろう。「すみません・・・」という弱気な声を漏らしながらこちらを窺ってくる幽霊のような私に気づくなり、思わず「うわぁ!!」と悲鳴を上げていた。さらには、直後に「大声を出してごめんなさい!」と謝らせてしまったことは申し訳なかった。(Kさん、あの時は本当に失礼いたしました。)ただ、Kさんが驚いた際に彼女の体から放たれた声の瑞々しい張り具合を耳で感じ取った時、「本に出てきた、あの素敵なママだ!」と嬉しくなったのも事実である。我ながら気色の悪いことを書くが、それだけKさんは、私が頭の中で思い描いていた以上に快活で、初対面の相手との間にさえ壁を作らない人なのだ。そして、ひとしきり挨拶が済みしだい、看板商品のホットコーヒーを淹れていただいた。それから50分程の滞在時間の内にも色々な事があったのだが、このままだととんでもない文章量になってしまうため、続きは次回に。
2026.04.24社員のビジネス書紹介㉛
三浦のおすすめビジネス書
永松茂久 『人は話し方が9割 2』 すばる舎
『人は話し方が9割』、普段あまりビジネス書棚をじっくり見ない自分でもかなりよく見かけていた。手に取ったことはなかったが、2といっても小説の続編のようなものではないので、今回は2から読み始めることにした。
話し方というとまずスキルを磨くイメージがあるが、本書ではとにかく「心構え」の話から入り、一冊を通じてそれがテーマとして通底していた。「会話とは相手を思いやることで、だから苦手な人とうまく話そうとするのではなく、心から大切な人に対してうまく話すにはどうするか、を考える」というものだ。大切な相手だからこそ、相手を不快にさせずに話したい。そうやってスタートラインを引くことで、却って小手先のスキルではない会話術になるのだろう。「相槌を打つ、自分を主語にせず相手が何に興味を持っているかを軸に置く、自分の話に持っていく前に質問をして話題を広げる」…本文で取り上げられている手法らしいものは、相手を思い、関心があれば自ずと出来そうなものだ。無理にうまく話そうとするよりは、自分が相手を尊重していることが正しく伝わるようにしたほうがいい。
マイナスな言葉を使わない、相手を否定しない。本書に取り上げられていたことは相手を不快にさせないために大切だが、大切だからこそ、あえて言うべき場面もあるよな、ということを考えながら読んでいた。添削することは決して否定ではない。ただ、頭からすべて肯定してしまうのももちろん違う。ちょうど志高くのVol.731で松蔭が「2つの選択肢があり、そのどちらにするかで迷えば、より自分の気持ちが伝わる方を選ぶ。」と述べていたが、その伝える内容が相手を思ってのことかどうか、そこが肝心なポイントなのだろう。それさえ頭にあれば、落ち着いて、伝えるべきことを伝えられるはずだ。
徳野のおすすめビジネス書
グレッグ・マキューン 『エフォートレス思考 努力を最小化して成果を最大化する』 かんき出版
本作は『エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする』の続編である。初めに「エッセンシャル思考」に軽く触れておくと、ビジネスだけでなく学業や家事育児も含めたタスク数を必要最小限にして、本質的な物事に注力するための考え方である。そして、今度の「エフォートレス思考」は、業務や用事を絞り込んでもなお仕事で疲弊してしまう人ための技術だと言える。英単語の”effort”を聞くと即座に「努力」と日本語訳してしまうが、本来の意味はポジティブなものばかりではなく、「骨折り損」というなるべく避けたい状態を指す場合もある。そして、心身ともに摩耗して生産性が落ちてしまう要因は主に、行き過ぎた完璧主義にある。苦労の割に結果が伴っていないのであれば、自身が装飾や形式といった表層的で些末な部分にばかり目を向けてはいないか疑ってみなくてはならない。
また、体力と気力を長期にわたって保つ上で「一気に頑張りすぎる」のは良くない。たまたま調子が良いタイミングにあれもこれもと業務を詰め込めたとしても、その分の疲労は蓄積して数日後のパフォーマンスに悪影響を与えるからだ。だが、仕事のペースを緩めるだけでは締め切りに間に合わなくなる恐れが出てくるので、とにかく早く着手して毎日の成果を少しずつ蓄積させていくやり方を定着させる必要がある。そして、取り掛かるまでの障壁を下げるためには、自分が取り組もうとしていることの目的を明確にしてそれ以外のことを「捨てる」のが重要になってくる。
具体的なエピソードを紹介すると、アップル社に勤めていたある社員がiDVD(デジタルコンテンツをDVDに読みませるアプリ)の設計案を、スティーブ・ジョブズに提出した。それを見たジョブズは、ホワイトボードにパソコンの液晶画面を模した四角を1個だけ書き、「動画をウィンドウにドラッグする。作成ボタンをクリックする。以上。そういうものをつくるんだよ。」と教えた。社員の方が初めに想定していたデザインのままでは、作業完了までの手順が煩雑で、詳細な取り扱い説明書が無いと利用できないような仕様になっていたからだ。当然ながら、そのようなサービスは消費者に愛されない。つまり、シンプルさの追求は、作り手側のエネルギーとコストの浪費を防ぐだけでなく、受け手側にとっての利便性や快適性にも繋がるのだ。
竹内のおすすめビジネス書
西林克彦 『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』 光文社新書
先月取り上げた『わかったつもり』と同じ著者によって、前作から16年を経て刊行されたのが本書である。文章を読む際、分かった気になってしまうことの背景に「疑問を持たない」ことがある点が前作では指摘されていたのだが、今作では「知ってるつもり」の状態に陥っていることをその要因として挙げている。少し立ち止まればそういうものはたくさんあるが、例えば私の場合ならPodcastは何なのかよく分からないままに利用していたサービスだ。インターネット上で配信されている音声番組ということになるが、どういう仕組みになっているのか、などと突っ込まれると調べないことには答えられない。しかし、それでも正直なところ生活する分には困らない。日々大小さまざまな「問題解決」をしなければいけない我々は、用意されたサービスやツールを通して、各分野で各人が発揮する専門性をお互いに享受することで悩む時間を最低限にしている。
しかし、そのように素通りが続いてしまうことは「問題発見」の力を弱めることになる。解決のための調べる作業に重点を置きすぎると、せっかく得た知識が孤立したものに留まってしまう。何か一つの言葉から「そういえば…」と他のことを連想していくためには、知識システムを構築していくことが必要となる。その鍵として提示されているのが「共通性」と「個別特性」である。場当たり的に知識を吸収していくと、それは個別性のものになってしまう。つい最近のことで言うと、漢字の勉強をしていた生徒が「積」と「績」を練習している際に右側を「青」にしてしまっていた。先の2つの音読みを尋ね、それが「責」の部分からきていることを確認した。そのような共通点を見出せることが、「この場合もそうだ」「これは違う」という個々を精査する姿勢や整理された状態での記憶へと発展していく。
また、筆者は教育学者として「外側にいる人間は学習主体の置かれている状況設定に関与することでその学習に影響を与えることができる」と述べている。分かりやすいのはテストを行うことで学習者に勉強する理由を与えるというものだ。無論、その準備をしないような子どももいる。それを生徒の側の意欲の問題にするのではなく、その方法では影響を及ぼせていないと受け止めて、勉強そのものを本人に委ねるというより、上記のような確認作業を一緒に行うなど打ち手を練っていかなくてはならない。上手くいかない時、「そういう子だから」で済まされてしまうということをよく耳にする。「よく」ということは決して特殊な事例ではなく、彼ら彼女らに通底しているものがあるのだろうし、それが見えることでその子特有の課題も明らかになるのだろう。さらに、子どもたちは成長するし物事は変化する。だから共通と個別の間を行き来することは終わらない。そういうものだと認識することで「知ってるつもり」から抜け出すことができるようになるのだ。
2026.04.17Vol.91 旅する予習(三浦)
前回取り上げた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』をしっかり観てきた。上映時間は156分、私が映画館で鑑賞した中では最も長い。もしかすると前にも書いたかもしれないが、そもそも私は映像作品に不慣れなので、長時間の作品はまず気後れしてしまう。上映中のお手洗いとかも考えると、どうしても。ただ、それでもどうしても観たかったので勢いのままチケットを取った。体感では2時間に満たなかったので、今回はかなり没入できたのだと思う。
映像のメリットは、やはりその没入、臨場感なのではないか。視覚、聴覚、4DXであれば触覚。どこかのニュースでは、映画ではなかったはずだが、嗅覚もあわせて刺激するシステムがあるとかないとか見かけた気もする。そういった複数の感覚器官を使うことによって、多くの情報を一気に与えることができる。個人的には、特に映像になると音の恩恵を強く感じる。今回の映画でも劇中歌が本当に良い仕事をしていて、今でもその曲を聴くたびに通勤路でも涙ぐんでしまう。感動しやすいたちなので、なんなら映画では開始10分程度、まだ何も始まっていない段階から、「ああ、この主人公はこれからあんな思いをするんだ……」と小説を読んだ時のことを思い出して泣いていた。隣に座っていた友人をいくらか驚かせてしまったかもしれない。
徳野が「志同く vol.89」で触れていた映像が先か文章が先か、という点では、ひとつ思い当たる節がある。
前述の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の上映前に広告が流れたことをきっかけに、Audibleを少し聞きかじるようになった。まだ無料体験期間なので続くかはこれからなのだが、何を聴くか選ぶ際、無意識に小説を避けていることに気付いた。
映像も音声も、再生は基本的に一方向である。こと物語においては、私はそれが苦手なのかもしれない。登場人物がピンチになると気が気でなくなり、そのまま数カ月くらい読み進められず置いてしまったり、あるいは先に助かるかどうかだけ確かめてから戻ってきたりすることもしばしばだ。同作者、『オデッセイ』の原作である『火星の人』も読み終えたのだが、さすがにラストだけは耐えたものの、何度か「大丈夫か……?!」と思わず先のページを確認してしまった。ただ知識不足もあいまって、「今どうなっているのか」が絵として想像しづらい場面もしばしばあったので、大変映像映えはするのだろう。しかし、映画で先に観ていたら、心配のあまり何度も目を逸らしていたに違いない。今は小説版で流れを知っているので、それほどハラハラせずに観られるはずだ。この「ハラハラ」を人は没入感や臨場感と呼ぶのかもしれないが、私にとっては、少し壁になるものでもある。だから、小説で自分のペースで受け入れた上で、映像に触れる方が、どちらの情報もしっかり拾えるようになる。とはいえ、人によってこの感覚は様々だろう。
ちなみにAudibleでは、気にはなっていたもののまだ読んでいなかった『暇と退屈の倫理学』を聴いている。目が疲れないのが良い。ただ、電車などで聴いていると、思わず「あ~」「確かになあ」と声に出して相槌を打ってしまいそうになるので、それが一つ目の難点だ。もう一つ目は、聴くタイミングに悩むこと。本では少し読み飛ばしてしまっても戻ることができるが、一言聞き逃してしまうと、スマホを操作して戻るしかない。だから手が離せないようなタイミングは避ける。環境音で搔き消えてしまわないように、賑やかなところでも避ける。CMでは掃除機をかけながらヘッドホンをしていた気がするが、やはり聞き逃してしまいそうなので避ける。他に気が散ってしまいそうな場面でも避ける。そんなことをしていると、結局本で読んだ方が早いのでは、とも思う。ただ、耳から情報を入れる練習として、少しずつ静かな夜にでも続けていくつもりではある。
先日の休みに訪れた小さな島の話もしたかったのだが、話がまとまらなくなってしまうので、ひとまずはこのあたりにしておく。目的地は家島。梅田から姫路までの電車、姫路から姫路港までのバス、姫路港から30分ほどの船旅……。二回目の訪問である。それほど距離としては遠くない。それでも、海と桜(と猫)に囲まれ、地域の方が通りがかりに声を掛けてくれる小さな島は、私にとってはすっかり身近な別世界だ。そこに辿り着くまで、多く見積もってもここから3時間程度。映画1本分の片道だ。








