
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.11.14Vol.76 人を信じる自分を信じてみる(三浦)
「いいと思ったことはどんな小さいことでもするがいい。早起がいいと思えば早起、勉強するがいいと思ったら勉強、仕事を忠実にしようと思ったら忠実に、怒るのをやめようと思ったら怒らないように、怠け心と戦う方がいいと思ったら戦え。」
「どんな小さいことでも少しずついいことをすることはその人の心を新鮮にし、元気にさせる。」
上記の引用は、武者小路実篤、『人生論・愛について』の「人生論」からだ。ちょうど読み進めている最中で、どこかに残しておきたくなったので、ここに残しておく。
かなり前の作文で、文学館を訪れるのが好きなことを書いたと思う。そしてその時に、それまで全く知らなかった武者小路実篤の色紙を見て感銘を受けたことも、おそらく書いていたはずだ。その色紙は素朴な野菜の絵の横に、「君は君、我は我也、されど仲良き」とつづられている。言葉はごくごくシンプルで、けれども他者の在り方と自分の在り方の違いをそれぞれ尊重し、その上で仲良くいられることを信じていることが伝わってきて、なんて素直な人なのだろうと感動したのだった。
はじめに引用した文章も、ごくごく当たり前のことを書いているに過ぎない。いいと思ったことはしたほうがいい、当然だ。誰だってそう思うし、誰だってそう言うだろう。私が引用したものを読んだだけでは「そりゃそうだね」「それができれば苦労しないよね」と流して終わりになっても仕方がない。
けれど、本を通して読んでいると、それがどれだけ本気なのかがわかる。美辞麗句はない。どこまでも実直に、「人が人らしく生きていくには、それぞれが本当にいいと思うことをして、人間全体を成長させていかなくてはいけない」と考え、そして「人間にはそれが出来るはずだ」、「出来る社会にしていけるはずだ」と信じ切っていることが伝わってくる。本当に信じていなければ書けない言葉だ、と感じさせる何かがあった。
人を信じることが難しい時代になってきている、と思う。時代と限定する必要もない。どこかの読解問題で「信用するというのは、それだけで諸々のコストを削減できる」と書いていたが、本当にその通りだ。荷物が盗まれる心配がなければすべての荷物は置き配でいいし、万引きの心配がなければ無人販売所もセルフレジももっと有効活用できるだろう。だが、それが難しいことを私たちは知っている。知ってしまっている。人の善性に頼るシステムは脆弱だ。数年前、近所の夏祭りに行ったときのことだ。大きなゴミ箱の横にいくらかゴミ袋が用意されており、「いっぱいになったら変えてください」と使用者に委ねる形になっていたが、明らかに溢れ返りそうになっていても無理やりゴミを突っ込んでいく人ばかりで、取り換えようとする人はいなかった。仕方なく私と友人で交換したのだが、しばらくした後にもう一度前を通りかかったら、その時には既にスタッフの人が待機するようになっていた。そんなものだろう。
私が初めて実篤の文章を読んだのは、『真理先生』という本だった。ちょうど志高塾に講師のおすすめ本としても紹介していたので、その紹介文を一部引用する。
「努力をすれば報われる。夢物語のようかもしれませんが、真剣という美徳を、そして人生を信じてみたくなるような、そんな一冊です。素朴に、ただただ素直に生きることって、どんな世の中でもきっと難しいものだと思います。けれどそうやって生きることこそが、自分の人生を、そして他人の人生を肯定できる最も善い方法ではないでしょうか。実践できるかどうかはさておいても、読み終わった後には少しでも晴れやかに、自分の道を見つめなおすことができれば幸いです。」
遡ってみれば、四年前の紹介文だったらしい。そこからゆっくり四年かけて、代表作である『お目出度き人』『友情』、そして『人生論・愛について』を読み進めてきたことになる。前者二作は、簡単に言えば特にアタックすらかけていない主人公が当然のごとく片思いの女性(少女)に失恋する物語だ。失恋といっても、「まあ、何もしてないし仕方ないよな」と思わされるので特別悲しくもないのが面白いところだ。
だが、やはり、どこまでも人間の可能性を信じ、人間ことを深く愛しているまなざしが表れているのは、他二作だろう。特別文章がうまいわけではない。書くだけであれば誰でもできる。だが、心から人を信じて、ずっと同じことを論じつづけられるのは、それは人柄の才能に他ならない。行動の面でも、実篤は互いを尊重して生きる共同体である「新しき村」を有志と作り、そして今もそれは受け継がれている。いつか訪れてみたい場所のひとつだ。
私自身も結構なひねくれものだが、人間を信じる心に覚えた感動を忘れず、同じように実直に生きることを目指してみたい。そのためにはやはり、「いいと思ったことはどんな小さいことでもする」と、そんな身近なところから始めるしかない。夏祭りのゴミ袋を取り換えるのだって、そのひとつだったのかもしれない。
2025.11.07Vol.75 熱の行く末(豊中校・小川)
先日日本シリーズが終幕した。阪神タイガースは初戦こそ勝利したものの、その後4連敗してしまい屈辱の敗退となった。私は特に第1戦、大敗した2戦目は福岡に観戦しに行っていただけに悔しさが大きい。その観戦もチケットのために2時間スマホとパソコンにへばりつき、また語学の授業を休んで強行したものである。それも相まって余計に後味が悪い。2回9失点の時点で帰りたいほどの喪失感を味わった。その不満をぶつけるところが今のところないのでここに書き記しておく。
ここまでの内容からわかる通り私はそれなりに熱狂的な阪神ファンである。とはいえ本格的にファンになったのは今年からである。しかし、見ているうちに選手一人一人にドラマがあること、緊迫感がある試合とそれに勝敗が伴うこと、そして各選手がチームプレイに徹し協力し合うその在り方に惚れ込み気がつけばもう沼から抜け出せなくなっていた。これほど物事に熱中しているのは、一時大阪で公演していた劇団四季の『オペラ座の怪人』以来であろうか。久々に何かに熱中できていることを我ながら喜ばしく思うと共に、いつこの熱狂が覚めてしまうのか、今これほどに好きだと思えているものから心が離れてしまうかもれしれないと考えてしまい少々憂鬱な気分にもなる。
私がこのような心配をしてしまうのは、昔から性格が熱しやすく冷めやすいからだ。私は何かに熱中してみることは多い一方、気がつけば何も感じなくなってしまう癖がある。先述の『オペラ座の怪人』に関しては高校の芸術鑑賞会で心を奪われ、終幕までに7回も足を運んだ。もとより演劇部に所属していただけに、単なる一つのストーリーとして以上に役者ごとの表現の違いや感情の機微、演出などの細かい部分まで余すことまで味わい尽くしたくなったからだ。料金は一席12,000円と高校生にとっては決して安くはない。それでも私は貯めていた小遣いを切り崩し、その目減りを気に留めることなく楽しめていた。しかし、その熱量もあまり長くは続かなかった。当時の意欲のままならば現在行われている福岡の公演の予約可能期間初日に席を予約していたであろうが、今はそんなことをする気にはならない。年明けにそれを観に福岡へ行く予定はあるが、その予約も母が何度も行かないのかと尋ねてきた末にようやくといった塩梅だ。両親曰く、過去にいくつか私が趣味としていたものはあるそうだが私にその感覚はない。ストレスなく満喫できていた当時の記憶が薄れてしまうこと、かつてと同じ気持ちになれないことは寂しい。部屋の隅に押し込められたその趣味に関する道具を見た時などなおさらである。また、そういったものに対する熱狂を心地良く感じることが分かっているだけに、己の性格をもったいなくも思う。
ただこの性格がもったいない、では済まずに直接的に災いしてしまったこともある。大学受験だ。私は浪人までしたものの志望校には行けなかった。受験生当時は己の中で努力をしていたつもりではあったし、今振り返っても何かを怠っていたわけではないと思う。しかし、自分が行きたい大学の合格に足るだけの努力を、集中をすることができなかった。その原因を全て性格のせいにはできないが、それでも大学に行きたいという熱が続きにくく眼前の辛さに打ち負けて挫けてしまったことは否定できない。理性ではあまりの集中力のなさと自身の不甲斐なさに危機感を感じているのだが、なかなか改善につながらない、というより改善に向けて動き出せない。
振り返ると、私が好むものは総じて始まりと終わりがはっきりしている。落語の出囃子、ミュージカルの劇場の暗転、そして野球の応援歌。その全てが「はじまったな」と感じさせ、胸の内側から沸々と湧き上がる高揚感のスイッチになっている。現在の趣味である野球ならば、1番打者の応援歌が耳に入った瞬間私は全身に血が駆け巡るような感覚になる。歌詞にも「切り拓け」という語が含まれておりまさに物事を始めて突き進んでいくかのような雰囲気がある。声に揺れるスタンド、期待に満ちた観客の目、体に響く鳴り物の音。それらの全てが私の心を揺らす。人は何かに感動した時、衝撃を受けた時に「鳥肌が立つ」と表現するが、まさに言い得て妙であろう。私はこのゾワッとする感覚が堪らなく好きなのだ。
つまりは刹那的な快感に身を焼かれていると言えるわけであるが、あまり長続きしないのも我ながら考えものである。実はこの文章を推敲するにあたって、初めに提出したものでは「要はドーパミン中毒だからしかたないよね!」といった問題を問題のままにした形で書いていた。しかし、高校生の身分、つまり自力で得た金銭でないにも関わらずそれを浪費し、そのことを何とも思わなかった内容、現状の自分を手放しに肯定し思考放棄に至っている点に厳しい指摘を受けた。特段それらの点に問題は感じていなかった。しかし、その指摘以降考え直したところ、生徒に己の内面と向き合い成長することを求める立場であるにもかかわらず当の本人がその歩みを止めてしまうのは大問題であると思い至った。何よりも問題なのはその責任感の不足である。現状維持に満足をした講師から「成長しろ」と言われたとしてその言葉は響くだろうか。響くわけがない。その意識、自覚が私には不足していた。これもまた熱の持続性のなさにつながるものであろう。現状の趣味や熱を貫き通そうという意志の弱さと、趣味は趣味に過ぎないと軽んじて体験の浪費癖がついていることが今の私の問題である。そのスタンスはこの志高塾で仕事をするにあたっては致命的な在り方である。ゆえに今の私に必要なのはあらゆる体験を自己への投資と捉え使い捨てにしないことと、それを実行することではないか。つまり、講師という立場ではあるものの“講”の意識で現場に入るのではない。むしろ生徒の反応や彼らの気づきに耳を傾け、さらには私がどう伝えるべきか考え工夫することなど、それらから地道に自身の精神的成熟の礎にしていく。“学”師ともいえる立場で過ごすことである。さすれば必然的に結果を見るまでは持続していくことになる。そして、得た成長や知見を生徒に還元していく。生徒の成長を促し、その成長した姿から私も学ぶ。このサイクルを作り出すことが第一の目標である。
今回己を見つめ直す機会を貰え、自己認識の深化と成長の方向性が得られた。あまりにも不透明で抽象的な解決策にとどまってしまっており、その不安と不確実性を拭うには至っていない。ただ良い見通しもあり、まず『オペラ座の怪人』とは異なり大学受験の失敗を通して自己の内面が過去から変化していること。浪人期間及び現在の大学生活を経ての内面の見直しは、己の能力の正確な把握と現状を把握し、解決に導く癖をつけるきっかけになった。また野球は年を重ねていくごとにチームが大きく変化し新たな要素が加わっていく、つまり新たな刺激が加えられ続けることである。これらの要因、そして新たに芽生えた自覚と問題点をもとに自分も生まれ変わることで今ある熱が冷めずこれから持続していくのかどうか自分ごとながら期待してしまう。未熟な身ではあるが、また私がここに何かを書く日が来るはずだ。その時はまた私の何が変化したのか、何に気づいたのかを示したいと考えているし、そのためにもあらゆる物事を糧に成長をしていくつもりである。
2025.10.31Vol.74 世の中、綺麗ごとが要るときだってある(徳野)
先週末にふと思い立って、高槻校にあった灰谷健次郎の『兎の眼』を手に取ってみた。本当は沖縄戦のPTSDを題材にした『太陽の子』を探していたものの、見つからなかったので代わりに読んでみた次第である。灰谷健次郎。恥ずかしながら、存在を知ったのは成人してからのことだ。それこそ教室の本棚に収められている著作を通して彼の名前を認識したくらいで、しかも「初対面」からおそらく5年が過ぎても、本の背表紙をたまに一瞥する程度の興味しか向けてこなかった。生徒が借りている姿を目にした記憶も無い。それくらい私の人生に関わってこない作家だった。
さて、肝心の『兎の眼』については、完全に油断していた。まさか、ブログに取り上げるほど心打たれるとは予想だにしていなかったのだ。331ページある本作を閉じる頃には、いつの間にか2時間が経過していた。完全に個人的な動機から選んだ作品の中で、そこまでの勢いで一気読みしたのは、2年前に夢中になった桐野夏生の『グロテスク』以来である。 というわけで、今回のブログは『兎の眼』の書評のような内容になる。まずは、あらすじから。
舞台は高度経済成長期の関西のとある街。主人公の小谷先生は、公立小学校に勤める女性教師である。22歳の新任の身で1年学級を担任しているものの、いわゆる箱入り娘で、想定外のトラブルに対して大変打たれ弱い。特に受け持ちのクラスにいる鉄三という少年への接し方に苦悩している。
鉄三は、ごみ処理場の非正規労働者である祖父と二人で細々と暮らしている。生育環境はやや特殊なのかもしれないが、穏やかな祖父からは深い愛情を注がれている。しかし、学校でも家庭でも言葉をほぼ発しない。授業中もぼんやりしているかと思えば、周囲の人間にいきなり襲いかかり、流血沙汰に発展することも少なくない。
そんな掴みどころの無い鉄三に振り回される小谷先生は、社会人になって3か月で早くも仕事への希望を失いかけていた。だが、型破りでありながら優秀な先輩教員の足立先生から「あのような子にこそタカラモノがたくさん詰まっている」という言葉を投げかけられたのを機に、鉄三にとことん向き合い始めるのだった。
ここまでの情報を元にChatGPTに結末を予想させたところ、「小谷先生との交流を通して鉄三が自分の殻を破り、言葉を使って他者と関係性を築くまでに成長する」という方向性を提示してきた。ほぼ正解である。正直、よくあるタイプの物語構成ではある。そして、具体的に「ネタばらし」をすると、小谷先生は家庭訪問を重ねるうちに鉄三がありとあらゆるハエを飼育し、種ごとの生態の大まかな違いを自然と把握していることを知る。それがまさに「タカラモノ」だったのだが、良くも悪くも常識人の小谷先生は初め、「ハエなんて不潔だからやめさせないと」と画策して痛い目に遭ってしまう。だが、鉄三が彼なりに衛生面に配慮している事実を近所の子どもたちから教えられた小谷先生は、まずは自身の無知を自覚し、放課後、鉄三をハエの系統立てた研究に誘う。その過程で図鑑で調べた虫の種名を分類ラベルに記入したり、形態観察のためのデッサンをしたりすることを通して、文字の読み書きや図画工作の技術を地道に習得させていった。そして、最終的には、学校の授業でハエに関連しないテーマの作文を自ら書き上げるまでになった。その締めに記されていた「こたにせんせもすき(小谷先生も好き)」という一文を読み上げた小谷先生は、生徒たちの前で感激の涙をこらえられなくなった。ちなみに、ここで取り上げたのは小谷先生の奮闘のほんの一部に過ぎない。作中では、子どもたちが能動的に学び、誰かのために行動することに喜びを見出せるような教育実践の数々が生き生きと描かれている。国から求められて「探究学習」やら「アクティブラーニング」やらを構想するのとは一味違う。読んでいるだけで生徒の一員に加わりたくなるほど知的好奇心をくすぐられるようなアイデア群は、職業作家になる前は教壇に17年間立ち続けた灰谷だからこそ出せたものだろう。
掛け値なしに素敵な物語である。一方で、その魅力をまっすぐに受け止められない、いや、受け止めるだけではいけない、と思う自分もいる。例えば、小谷先生や足立先生は度々、学校での勤務後に夜遅くまで生徒の家に滞在している。それが原因で小谷先生と夫の関係は悪化の一途を辿ったものの、彼女の中にある「家庭より、子どもたちとの絆」という軸は最後までぶれなかった。そういった、自発的とはいえ「滅私奉公」を地で行くような言動は現代の価値観にはそぐわない。だから1974年に発表された本作および作者である灰谷の名前は、昨今の教育関係者の間で取り上げられにくいのではないか。中学受験向けの読解教材でも見かけた記憶が無い。また、個人的に違和感を覚えたのは、登場する教員たちが事務のために机に向かっている姿が描かれていない点だ。アナログが基本の時代が舞台なので煩雑な作業は沢山あったはずで、当の灰谷だって愚痴をこぼしつつ処理していたかもしれないのだ。「教師の労働環境」が主題ではないので、職員室での地味な業務に字数を割く必要性など無いとは理解できる。だが、生徒との触れ合いや、教材研究および授業計画、つまり志のある教員であれば誰もが打ち込みたいと思っているような仕事に心血を注ぐ場面を「切り取って」いるような印象は否めない。そこに現状との乖離を感じて、「小谷先生みたいにやるのは到底無理だよね」という風に、作品に対してだけでなく学校教育そのものにやや冷めた気持ちを抱く人も少なくないはずだ。
今回の文章を執筆するにあたり、「読書メーター」に寄せられたレビューに一通り目を通してみた。50年以上の歴史がある児童文学なので「名作」「心が温まる」という評価がずらりと並んでいたのだが、時折目に付いたのは「だけど、出てくる子どもたちが良い子すぎる。現実味が薄い。」という指摘である。確かに、小谷先生と鉄三との関わりが深い小学生たちは、揃いも揃ってお行儀が良いとは言えないものの、逞しく善良な性格で、信頼を寄せる大人の前では素直に振舞う。極端に無口なせいでクラスで孤立している鉄三に対しても、下手に気を使いすぎることなく自分たちの輪の中に自然と溶け込ませている。鉄三が人間嫌いにならずに済んだのは、小谷先生は勿論のこと、気の置けない同年代の仲間の存在も大きいのだろう。だが、それは、小谷先生や灰谷健次郎という大人、しかも(元)教師の目を通して表現された優しさではある。作者の「子どもにはこうあってほしい」という願望、もしくは「こうあるべきだ」という信念が背後にあるはずだと考えれば、その強さに「圧」、言い換えれば、正論への息苦しさのようなものを感じ取る読者層が一定数いるのだ。私の主観になるが「圧」に関して実際の子どもたちは敏感である。だから、読んではみたもののさほど響かなかった、という本音が彼らから出てきても不思議ではない。そして、本を紹介する側の大人としては、ややネガティブな感想も「そうか、こういうタイプの作品はしっくり来ないか」と、その子に対する解像度を高める材料くらいに位置付けておけばいいと捉えている。
ミリオンセラーの傑作だってやろうと思えばいくらだって「叩ける」。だけど、『兎の眼』が(令和の私たちの視点では)現実離れしていて、登場する子どもたちの人物設定にやや偏りがあると頭で分かっても、私は作品を読み終えた時のあの瑞々しい感動を忘れたくない。小学生と接する者の端くれとしては、子どもの等身大の姿を受け止めつつ彼らが内に秘めている可能性を「信じ抜いて」みせた小谷先生や足立先生の覚悟から胸に迫ってくるものを感じた。そして、元教員の灰谷も、子どもたちの知性と善性に信頼を寄せてきたからこそ「良い子」の姿をまっすぐに表現できたはずだ。私は、都合の良い「期待」とは違う意味で、生徒のことを本当に「信じて」あげられているだろうか。思わず我が身を振り返ってしまう。
最後に、作中で「問題行動」を起こした「きみ」という女子生徒について足立先生が語った言葉を引用しておく。
「きみは悪いことをしたと思ってあやまっているわけやあらへん。すきな先生がきて、なんやら、やめなさいというているらしい。地球の上でたったひとりかふたり残ったすきな人がやめとけいうとる。しゃーないワ。きみの気持ちはそんなところやろ」。
2025.10.24社員のビジネス書紹介㉕
徳野のおすすめビジネス書
斉藤裕亮 『英語挫折を繰り返した! 陰キャなのにリクルート営業マンになってしまった人の英会話術』 東洋経済新報社
AIによる翻訳や同時通訳の性能は、近年、目覚ましい進化を遂げている。例えば、9月に発売されたAirPods Pro 3にはライブ翻訳機能が搭載された。少しお金を出せば誰でも使える時代に、「人間が地道に語学を学ぶのは非効率ではないか」という声が上がるのも無理はない。ちなみに、本書の著者は、専門的な内容の読み書きについては文明の利器に頼ればよいという立場を取っている。しかし、会話となると話は別だ。むしろ翻訳ツールが発達した今だからこそ、母国語以外の言語を使って海外の人と直接コミュニケーションを取ることが、「信頼関係」を築く上でいっそう重要になるのだ。
著者はリクルートを退社後、国内で複数の企業を経営するだけでなく、ベトナムでもビジネスを展開している。一見すると圧倒される経歴だが、本のタイトルにある通り、学生時代は英語が大の苦手で、英検を受けたこともなかったという。ただ、海外旅行は好きで、「いつか国外で仕事をしてみたい」という漠然とした憧れは持っていた。そして、いざ「ベトナムに会社を作る」と決めて学習を始めたものの、しばらくはうまくいかなかった。状況が変わったのは、「単語や熟語を暗記できない自分」を受け入れてからだ。そこからは、会話力に的を絞り、中学英語の基本単語だけでシンプルな文を作れるようになることから仕切り直した。
自分のレベルに合わせて学ぶことは、学習を継続するための大前提である。ただし、単に簡単なことを繰り返すのとは違う。著者の場合、文法では関係代名詞と不定詞を使いこなすことを目標に練習を積んだ。その方針を決めたのも、英語には「後になるほど情報量が増える」「目的や理由を重視する」という法則があると気づいたからだ。つまり、「本質」を捉える思考の働かせ方次第で、学習の効率は大きく変わる。これは、どんな分野の学びにも通じる考え方だろう。
最後に私自身のことに触れておきたい。学生時代の英語の成績は悪くなかった。高校時代の恩師から「あなたなら英作文だけで大学に受かる」と太鼓判をもらい、実際、国立大の文学部に現役合格した。しかし、ほとんど話せない。特にネイティブスピーカーを前にすると、自分の発音や語彙の拙さが気になり、勝手に萎縮してしまう。そもそも相手の言葉を聞き取れないのだ。だが、本書を通じて、完璧を目指して小さなプライドに囚われていた自分に気づかされた。語学にコンプレックスを抱く人の心を、そっとほぐしてくれる一冊である。
三浦のおすすめビジネス書
青木聡 『天才のパターン思考』 ダイヤモンド社
「天才」、というキャッチーな言葉はインパクトが強い。章ごとにも「凡人ならこうする、天才ならこうする、そのメリットは…」とひとつひとつ挙げられており、その「凡人」という表現も少し強すぎるような、と思わなくもない。
本文の中で「天才」の特徴として用いられているのは「パターン思考」である。即断即決の思考法と帯にあったが、それは要するに自分の中での基準やパターンを明確に持っておくことだ。例えば急な頼み事に対してどのように返事をするか、どの仕事から手を付けるか、それもその場その場でいちいち考えるのではなくて、何をもって優先度を判断するかなどの「基準」を設けておくことでスムーズになる、ということだ。それによって即断即決が出来るようになる。もちろん、だからこそ「基準」を決めるには、今までの経験を生かしてよく考える必要があり、そこで生きるのがパターン思考ということだ。
普段読んでいるビジネス書と違うという印象を受けたのは、チームやメンバーのことはもちろん念頭に置きつつも、主軸がどこまでも「自分」である点だ。特に仕事術に関する記述は、どう自分の仕事をうまく回すかが主な内容であり、「頼まれた仕事を断るべきか」などの判断も含まれてくる。しかし、それは個人主義というわけではない。自分の仕事を円滑に回すことが、結果的にチームの生産性に繋がる。
竹内のおすすめビジネス書
石井玄 『アフタートーク』 KADOKAWA
「好きなことが仕事だから頑張れる」、「好きなことを仕事にすると逃げ場がなくてしんどい」、どちらも耳にすることがある。今回紹介する『アフタートーク』の著者は、前者にあたる。上手くいかない学生生活の中で支えとなっていた深夜ラジオを制作する道へと進んでいった。初めは小さな制作会社から番組作りに携わっていたが、ADを経て、ラジオ番組の代名詞ともいえる(主観が強すぎるかもしれないが)「オールナイトニッポン」のチーフディレクターを2018年から務めていた。
上記番組をはじめとして、曜日によって異なるパーソナリティが進行するスタイルがラジオには比較的多い。曜日ごとにかなりカラーが異なるということだ。実際に聴いているとそれぞれに独自の企画があるし、番組が違えばお便りコーナーによく登場するラジオネームも全然違う。「オールナイトニッポン」のチーフディレクターの役割を一言で表すならば各曜日のディレクターをまとめること。聴取率1位を目指す中で実践したことは様々あるが、例えば毎週の番組の振り返り、裏番組の研究、そして各曜日の連携を図るためにディレクターたちにコミュニケーションを取らせることなどである。仕事には通底するものがあるのが当然なのだろうが、教室の運営は帯番組みたいなものだとふと思った。その日に集う生徒、講師たちによって雰囲気は変わる。その後、2020年に番組は念願の1位を獲得できた。数字は分かりやすい指標だが、「リスナーが楽しむ番組を」という思いのもとで得た結果であった。その実現のための取り組みは「生徒たちが考えることを楽しめる場」を目指すうえで学びになる。
また、筆者は「追い込まれるまで手を付けない」性分と自称するものの周囲からは「仕事が速い」と評される。その理由として挙がっていたのが「誰に任せるのが一番適切かを考えること」である。自分がすることにこだわらない。得意な人に任せるだけではなく、成長のために、その人とのかかわりを作るために、目的を持って割り振るから前に進んでいくということである。もちろんその判断を下すためには、共に働く仲間を、そして目の前にある業務の意味やゴールを理解していなければならない。
2025.10.17Vol.73 横に広がる世界(三浦)
関西万博が終幕となった。パビリオン自体も興味があったし、各国の風土が反映された食事にも興味があった。しかし、行こうかな、どうしようかな、でもめっちゃ暑いしな、駆け込みの時に行く勇気もないしな、行ったとしても何を見ようかな、とぐるぐる優柔不断を繰り返し続けた結果、終ぞ足を踏み入れることなく終わってしまった。勿体のないことをした。
足を運んだ生徒からの話や写真、インターネットで見かける話題でかなり「行ったつもり」にはなったが、それは「実際に見る」ことと大きく離れていることは確かである。またの機会があればと思うが、きっとそんな機会はない。せめて大阪市立美術館の天空のアトラスを見に行こうかと考えているが、それも優柔不断の末、どうなることやら。
そんな折、関西万博には行かなかった一方で、太陽の塔を擁する万博記念公園の方に足を向けた。関西圏、というと少し主語が大きくなってしまうかもしれないが、大抵の大阪府民は一度ならず二度は行ったことがあるのではなかろうか。私もこれまでの学校行事で二、三度は少なくとも足を運び、もちろんそれ以外に個人でも何度か訪れている。小学生の時分から大人になった今まで通えば、あれだけ大きい太陽の塔も随分と見慣れたものになった。それでも未だに圧倒されるのはすごい。
さて、それでもここ何年かは、これまでと比べてかなり短いスパンで訪れている気がする。その大きな要因は、万博記念公園内に国立民族学博物館、通称みんぱくだ。要因、というよりも、最近はほとんど博物館だけ見て帰るような形になっている。じっくり見るとかなり頭を使うのか、結構な疲労感があるからだろう。ちょうど、vol.71で触れていた博物館への感覚がわかる気がする。私はどちらかといえば、膨大な展示と情報にぐるぐるに囚われて海に投げ出されてしまうような感じかもしれない。
初めて訪れたのは小学生の頃、学校行事の一環だったような覚えがある。あまりに膨大な展示にほとんど記憶はなかったが、ただぼんやりと、ずらりと並ぶ仮面や、日本の祭りで使う道具などがうっすらと印象に残っており、併せてなんとなく「恐ろしい」というイメージがまとわりついていた。それから自ら好んで行くことはなかったのだが、何かのきっかけで数年前に知人と連れ立って向かうことになり、そこで「人と意見交換をしながら展示を見る」という経験をした。ちょうどその人は世界史に相当詳しいこともあり、展示だけではなかなか呑み込めない歴史的背景の補足をしてくれ、それがとても楽しかった。特にキリスト教が各国の文化とどのように融合していったのかなど、キリストをモチーフにした展示を眺めながら、考察をやり取りするのは面白い経験だった。
そんな様々な展示の中で、特に「めっちゃ面白いやん!」となったのは、ラテンアメリカの民衆芸術の特別展示だった。本当に色鮮やかで緻密で、それでいて大きな工芸品。今になって調べてみたところ、メキシコの「生命の樹」という粘土工芸品の一種だそうだ。植民地時代初期に聖書の教えを原住民に伝えるために造られたのが始まりと言われているらしい(Wikipediaいわく)が、今ではそういったモチーフだけでなく、「生命や死」、あるいは日常に身近な祭りといったものを取り上げていることも少なくない。以下はその特別展に関する一文である。
「特別展では、なぜラテンアメリカの民衆芸術はこれほど多様なのかという問いを掘り下げます。先コロンブス時代以来の文化混淆の歴史、芸術として洗練されていった過程、そして現代の制作者の批判精神の3点に焦点をあて、その答えを探します。」
今の特別展示は、「舟と人類―アジア・オセアニアの海の暮らし」だ。はるか遠い過去、人類はどのようにして海に漕ぎ出していったのか。そういった過去という縦軸だけでなく、現在、海に暮らす人々はどのように生活しているのか、そんな横軸でも味わうことができた。船を家として暮らす人々の映像を見て、しみじみそう思った。(フィリピン、スールー諸島の船がインターネットでヒットしたが、これだっただろうか。正確に記憶していないのが悔やまれる。)
そう、この博物館で肝心なのは、縦軸だけではなく、きっと横軸だ。様々な国に様々な歴史がある、当然だ。そしてその上で、様々な国が、様々な様式で今この時も生活をしている。そこには、普通に暮らしていれば想像も及ばない生活もあるだろう。消えていった生活もあるだろう。日常では知らない、そんな日々に思いを馳せるきっかけになる。
関西万博でも同じような気持ちになれたのだろうか。やはり今更ながら、行っておきたかったかもしれない。
2025.10.10Vol.72 最高のハッピーエンド(豊中校・山本)
「人生の最後までやってみないと分からない」とは聞くが、タイムマシンでもない限り自分の終わりを確かめることはできない。だが、私にはそれを教えてくれた人がいる。それは、今年5月に96歳で大往生した私の祖母だ。
祖母は、怪我で車椅子生活となり自宅のある奈良の施設に入ったが、諸事情あり、92歳で故郷を離れて豊中の老人ホームで暮らすことになった。当時はコロナ禍真只中で、施設は面会謝絶。祖母に引っ越しが伝えられたのはなんとその当日朝。祖母は突然迎えにきた私に大阪に連れられ、その日の夕方には知らない施設に入居した。その滅茶苦茶な状況を92歳がすぐ理解できるわけはなく、新居に着いた祖母は涙を流して私の腕にしがみついた。しかし、1週間後にはすっかり慣れ、職員さんから「かわいい」と背中をさすられていた。見た目には無頓着で可愛らしいおばあちゃんとは思えないが、都会の人を掴むものがあったことにほっとした。その後は、職員さんに「おおきにぃ(ありがとう)」をニコニコと振りまき、「頼んどくわえぇ(お願いします)」を付け加える。頼まれた側の職員さんは、「分かりましたよ」とにっこり顔。そうした愛想の良さとは真逆に、自分の我を押し通して職員さんと激しくやり合う時もあったが、そのギャップが面白いとますます人気が高まりアイドルになっていた。場所で人の評価はこんなに変わるのか、驚きと同時に祖母の逞しさに恐れ入った。
1年が過ぎた頃、続く面会制限のため家族に自由に会えないことが辛いと祖母が嘆くようになり、「なんとかしてあげたい」が私の中で膨らんだ。しかし、私は家と家族のことで精一杯で、特に長男は中3の受験生。その状況で大きな責任を抱えることはできるのか?いや、やる前に決められない、ダメだったらその時考えたらいい。苦労続きだった祖母の残りわずかな人生を寂しい思いで過ごさせたくないと私は決心し、家族に同居を切り出した。最初はたじろいだ夫が賛成してくれ、一番気がかりな長男からは「自分にはたっぷり時間があるが、おばあちゃんにはあと少し。今この瞬間にどっちが大切かは決まってるやん」と何の迷いもない答えがあり、子供たちにとっても意味のある同居にしようと私はより前向きになった。こうして予想もしていなかった3世代同居が始まったのだ。
祖母の人生を少し振り返る。祖母は名家に生まれ、穏やかに成長したが、祖父と結婚したことで苦難が始まる。祖母とは対照的に貧乏な家に生まれた祖父は金持ちになるという志に燃え、家族を残して出た大阪で苦労の末に事業を成功させた。男気に溢れ、世間的には自慢の夫だっただろうが、実は家庭内では最低男この上なかったのだ。家には帰ってこない、お金は全く入れない、お酒、女遊びは当たり前で、祖母は独り身のようなものだった。3人の子供のうち1人は障害で歩行できない。それに加え、同居の姑からの厳しい虐め。それだけ聞くと極度の悲壮さを想像するが、生活費を稼ぐために就いた旅館での仲居の仕事で、お客さんとの会話を楽しみ、一杯およばれし、時にはチップもいただく、仕事を日常の生き抜きにしたのだ。そうやってポジティブに必死に働き、休憩時間には家に飛んで帰り、姑と子供の世話という日々を送った。その後、2人の子供を病気、事故で亡くすという身を引き裂かれるような経験もし、若い時はこれ以上ない程の辛苦を味わった。
一緒に暮らしたことで祖母への理解が深まった。物事の流れに身を任せ、それが良くも悪くも淡々と処理し、自分のペースを崩さない。大きく感情を揺さぶられ過ぎずに心がフラットなので、側にいると安心できた。そして、「おおきにぃ」「頼んどくわぇ」は私にも何度となくあり、最初は自分の立場を守る術と捉えていたが、「人のために生きてきた」からこその「人に助けてもらうこと」に対しての強い感謝の表れなのだと感じるようになった。その言葉を向けられた後は温かい気持ちが残ったからだ。また、別の一面もあった。暇さえあればリビングを車椅子で走り回り、体操をする。その真剣な様子に家族で室内を工夫し、応援し、いつの間にか祖母が家族の中心にいた。もちろんいいことばかりではない。介護は本当に大変だ。一番困難だったのは生活スタイルの差を埋めること。私はストレスがたまり大喧嘩になったこともある。滅入ることもあったが、そんな時は家族に助けられた。主人は帰宅後に嫌な顔一つせずサポートしてくれ、長女は食事からトイレのことまで何でもやってくれた。思春期の長男は、祖母にだけはゆっくりとよく通る優しい声でいつも接してくれ、祖母はそれが何よりも嬉しそうだった。そういう日常の繰り返しが子供たちの心の奥行きを作ったと思う。また、私が悩んでいた時には、「負けたらあかん」と険しい道を乗り越えた人ならではの力強い言葉で背中を押してくれた。
それからまた1年が経ち、祖母の介護度合が上がり施設に入ることになった。そこは同居中に利用していた場所で、多くの職員さんが本当のおばあちゃんと愛し、祖母に頬を寄せて、一緒に笑顔で過ごしてくださった。その温かさの中、祖母は静かに息を引き取った。その表情は本当に眠っているようで、死化粧を施した顔を見た田舎の親戚たちは、都会の人になったとその変化に驚いていた。とても96歳には見えない美貌で輝いていたのだ。祖母の最期の4年間はそれまでで一番楽しかったのではないだろうか。他の誰もしていない辛い経験を重ね、懸命に生きた人生の終わりが最高の幕となったことが本当に嬉しい。
祖母は根性があったから、子供のためだったから苦労を乗り越えることができたのだろうか?困難に決して負けない気高い魂の持ち主だったのではないかと私は考えている。それは生まれ持って備わったもの。私や私の子供たちは、自分にも同じものが流れていると信じ、何にも屈さずに大切に次の世代に引き継いでいかないといけない。
最後に祖父母のことをもう少し話したい。祖父は80歳の時に肺がんで入院した。私がお見舞いに尋ねると、祖父母がいつもと違う様子で話していた。祖父が「二人の子供を育てきれなかったことは全て自分のせいだ。本当にすまなかった」と心から詫びていたのだ。その言葉に、いつもは静かな祖母は大声で泣き、様々な思いを込めて壁を打ち叩いていた。それは、初めて二人が心を寄り添わせた場面だったのではないだろうか。二人の約60年のほとんどはバラバラだった。だが、祖母がその関係を諦めることなく努力し続けたから二人はそこに辿り着くことができた。私が長男を出産した3か月後に祖父は旅立つのだが、その短い間、祖父母は仲良くひ孫の世話をした。「目に入れても痛くないってほんまのことやった」と隣で眠る小さな命がどれだけ可愛いい存在なのかを私に無邪気に語る祖父、その横で微笑む祖母、その絵は幸せそのものだった。
おじいちゃん、おばあちゃん、一生懸命生きてくれて本当にありがとう。








