
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.08.29Vol.68 嫌いなアイツと夏にちょっとだけ仲良くなるには(徳野)
夏期講習が終わった。毎年、親御様向けの案内を配布する時は「1か月もあるんだなぁ」と、果てしない道のりが広がっているような感覚を覚えるのに、いざ始まってみると「光陰矢の如し」である。精神面でもそうだが、特に公立校の夏休みは実際に短くなっている。丸々1か月は羽を伸ばせていた世代の私にとって8月31日といえば、自由研究や図工などのラスボス級の宿題を徹夜で完成させる地獄の一日だった。ところが、最近の小中学生はほとんどが学校で机に向かっているのだから未だに違和感が消えていない。
それでも容赦なく課されるのが作文系の課題である。とりわけ読書感想文にきちんと向き合うには10時間は必要だし、そこにかかる多大な心理的負担を大人なら誰しも身を持って知っているだろう。つい先日の高槻校でも、お子さんがいる社会人講師との会話で「お家でも塾でも面倒を見切れない子の場合はどうしているのでしょうか」という疑問が投げかけられた。私は(あくまで一般論として)「今どきはChatGPTにでも丸投げしていると思いますよ」と答えたのだが、ここ1か月で自分が生成AIに触る機会が減っていたのを思い出したのもあり、志高塾の課題図書でもある滝井幸代の『レンタルロボット』の感想文を書かせてみることにした。ChatGPTには小学3年生になりきるよう指示を与えた。そして、数十秒ほどで表示されたのが以下の文章である。
わたしは『レンタルロボット』を読んで、ロボットは便利だけれど少しこわいと思いました。ロボットに友だちのかわりをさせたり、いやなことを全部まかせたりすると、人は自分で努力したり気持ちを伝えたりすることを忘れてしまうと感じたからです。
たとえば、友だちとけんかして仲直りするとき、自分の言葉で話すから本当の気持ちが通じます。でもロボットがやってしまったら、その大切な練習ができません。
また、ロボットは命令されたことしかできないので、本当の思いやりはもっていません。だから、人と人との心のつながりはロボットでは作れないと思いました。
この本を読んで、めんどうでも自分でがんばったり、気持ちを伝えたりすることが人間らしさにつながるのだと気づきました。わたしもこれから友だちや家族との時間をたいせつにしていきたいです。
さすがは最新版のGPT-5だ。あざとい。自己評価もさせたところ「小学生らしく『気づき』や『自分の体験と結びつけた考え』も盛り込んでいて、提出しても十分に評価される内容です」とのことで、改善点としては「小学3年生としては少し大人びた表現が多い」と「本文の具体的な場面の引用やエピソードがもう少しあると、読んでいない人にもより伝わりやすくなる」を挙げていた。実に的確である。『レンタルロボット』に関するインターネット上の情報が少ないのもあり、作品の内容を探る手掛かりは題名くらいしか無かったのだから。つまり、AIはこの世に存在しない(であろう)物語を創作した上で、世の大人たちが納得しそうな教訓やら何やらを並べるというハルシネーションを起こしていたのだ。余談だが、先ほど登場した社会人講師から面白いエピソードを教えてもらった。作家の平野啓一郎氏は学生時代、本を読まずに自身の想像力だけを頼りに原稿用紙を埋めていたらしいのだ。ある意味で時代を先取りしている。しかも、高校の教員には一度も悟られなかったというのだから、小説家になる人物の「挑発力」は一味違うということだろうか。
話を戻すと、今回は「だから自分の力で書き上げることに意味がある」ということを伝えたいわけではない。保護者や生成AIによる代筆がまかり通る背景にある、教師、ひいては大人への「侮り」に近い感情が個人的には気になっている。いや、見くびられても仕方がないような状況が、私が知る限り二十年は続いている現実が気になる、とした方が正確だ。例えば、毎日新聞社が主催の全国読書感想文コンクールの課題図書に小中学校の先生方は目を通せているのだろうか。目の前の業務に必死な教育現場の様相をほんの少し窺うだけでも要らぬ心配を抱いてしまう。さらに、自由図書となると判断基準が「文章に破綻が無ければ大丈夫」程度になってしまうだろう。そして、フィードバックなど夢のまた夢だ。生徒に言葉を紡ぐことを求めているのに、喩えるならば、半ば強制的に投げさせたボールをただ受け止めてから黙ってどこかにしまい込むような真似をしていることになる。生徒にとっても、行方不明が決まっている作文に思い入れなど生まれない。だから「どうせ気づかれないし」と、抜け道を選ぶのだ。
でも、読んだり書いたりすることが元々好きな子には、大人がどうかだなんて関係ないのではないか、という声が飛んでくるかもしれない。しかし、どうやらそうではないらしい。今年の夏は人気の文筆家による読書感想文講座を謳ったネット記事にいくつか当たってみたのだが、むしろ、「書かせること」に対して最も冷ややかな目を向けているのは執筆業のプロだという事実を痛感した。皆、学校から課される感想文の存在意義を疑うところから始めていたからだ。少年少女の頃から様々なジャンルの作品に触れ、生身の人間が善悪を併せ持つ不甲斐ない生き物だと感性で学んできた人にとって、「内面の成長」という結論付けが暗黙の了解となっている宿題には反発心しか無い。中でも、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』や『「好き」を言語化する技術』が話題となった三宅香帆氏による記事(https://toyokeizai.net/articles/-/690496?display=b)は印象的だった。作文コンクールの方針に透けて見える「読書を通して道徳的な価値観を身に着け、豊かな人間性を育んでほしい」という思惑に疑問を呈しつつも、先生に褒められやすい文章に仕上げるテクニックを紹介しており、編集部からの要望にきちんと応えながら「どうせこう書けば満足なんでしょ」と、教育関係者への皮肉を効かせることも忘れない手腕には思わず舌を巻いてしまった。そのシニカルさは、「提出して十分に評価される内容」を実現させる型を無邪気に適用するChatGPTには出来ない芸当だ。
確かに、そもそも本を読む習慣が無い子どもに原稿用紙何枚分もの分量をやらせるのは逆効果だ。しかも「善いことを書かなくてはならない」という圧力がかかっているのだから尚更である。夏休みの宿題で作文をやらないといけないのであれば、漫画感想文や俳句(逆に難しいだろうが)に取り組むのでも良い。だが、ここまでの展開からして意外だろうが、私自身は読書感想文というものを無意味だとは捉えていない。それは教育関係者の端くれとして恵まれた環境にいるおかげだろう。生徒の反応を間近に見える教室で腰を据えてコミュニケーションを重ねられている。特に今年は、辻村深月の『かがみの孤城』を題材に選んだ生徒とやり取りする機会が多かったのだが、不登校を扱った本作に対する、一筋縄ではいかないリアルな声に触れることができたのは大きな収穫だった。作者が示した結末に納得できずとも、そこを出発点にして自分なりに道を模索していけば良いのだ。
読書感想文は、学生時代の「失望と軽蔑」、あえてパンク風にすると「クソったれなもの」の象徴になっているかもしれない。その風潮を知りつつ私が嫌いにならずに今まで来れたのは、自然体の自分を表出できる手段になりえると実感してきたからだ。本の作者を含めた大人の権威に同調したり感銘を受けたりしたのであればそれで良い。ただ、批判と分析だって立派な感想に昇華できる場が志高塾なのだと思う。むしろ、そういう心を失わずにいた方が、読み書きを素直に楽しめる大人になれる。
2025.08.22社員のビジネス書紹介㉓
三浦のおすすめビジネス書
斉藤徹 『だから僕たちは、組織を変えていける やる気に満ちた「やさしいチーム」のつくりかた』 クロスメディア・パブリッシング
社会は農業社会や工業社会を経て、今やインターネットの発達により情報社会と化した。それによりビジネスモデルも変化して然るべきなのだが、多くの会社では未だ旧態依然とした、大量生産を基盤にした工業的な労働システムが蔓延っている。そうではなくて、現状の知識社会システムに適応した働き方をしなければならない、という本だ。そういったことを書くビジネス書は多いが、この本では社会自体や理想とされてきたビジネスモデルの変遷まで丁寧に追った上で、どうするべきかを述べている。
ここで一貫して述べられているのは、「人と人とのつながりを思い出す」ということだ。これが題の「やさしいチーム」に繋がるのだろうが、その「人とのつながり」こそが、現在求められる「一人ひとりが学び、考え、行動する組織」のために必要なものだ。血の通った組織にするためにはどうするか。信頼関係を築き、まずは関係の質を高める。そして思考・行動の質へと繋げていき、そうすれば自ずと結果が生まれてくる。この結果を焦って追い求めようと工程をスキップすることなく、ひとつずつクリアしていけば、また結果によっていずれの質も向上する好循環を生む。ビジネスもプライベートと変わらず、人と人とのコミュニケーションによって成り立っているのだという当たり前のことを意識し、人を尊重することがなにより大切だ。
徳野のおすすめビジネス書
荒木俊哉 『瞬時に「言語化できる人」が、うまくいく。』 SBクリエイティブ
時には自社のクライアントも同席する会議。上司から俎上のテーマについて「どう思う?」といきなり話を振られると、咄嗟に言葉を出せない。つい先程まで思い浮かんでいたものがあったはずなのに。だから焦って頭がさらに回らなくなる。そして、沈黙に耐えられず何とか絞り出せたのは取り止めのない感想だけ。それを聞く参加者たちのつまらなそうな表情にいたたまれなくなるけど、次のミーティングでも再び不甲斐ない姿を晒してしまう。
上のような場面に苦い思い出がある人は多いだろう。それを裏打ちするかのように、書店に足を運べば「上手な説明の仕方」を伝授する本がいくつも平積みされている。だが、毎月のように同類の新刊が発売されているあたり、既存の書籍では悩めるビジネスパーソンたちをまだ救えていないようである。その理由はいたってシンプルで、問題の本質が「伝え方」ではなく「伝える内容」にあることを把握できていないからだ。要するに、人は自分が思っているほど意見そのものを練れていない。
本作の著者は電通のコピーライターを生業としている。言葉を扱うプロフェッショナルとも言える荒木氏によると「言語化」とは、脳内にすでにある事柄のアプトプットだけを指すのではなく、発言するべき内容を掘り下げていく過程である。そして、「掘り下げる」とは物事に対する解像度を上げて新しい視点を発見することだ。その能力は一朝一夕で身に付くものではないので、実際のコミュニケーションの場で成果を残せるようになるには日頃から地道な訓練が欠かせない。そこで荒木氏が紹介しているのが、1枚のA4用紙を使った「言語化力トレーニング」だ。設定した「問い」について「思ったこと・感じたこと」とその「理由」をそれぞれ2分の制限時間内に挙げられるだけ箇条書きしていく練習法なのだが、適度な緊張感の中でひたすら手を動かすことで頭が活性化され、いつの間にか考察を深められている、というのがメリットである。ただ、意識するべきなのは、まずは自分の「経験」を出発点にすることだ。過去の「出来事」はもちろんのこと、その時々の「感情」も合わせて洗い出すからこそ、課題分析に具体性がもたらされ、自分ならではの着眼点が見えてくる可能性が高くなる。また、トレーニングが習慣化すれば、日常生活における身の回りの物事に疑問や興味を持てるようになり、それがまたアイデアの種になる、という好循環も生まれる。
意見作文に取り組んでいる生徒には「普段から色々なことにアンテナを張っておかないといけない」という声掛けをよくしている。大人になって働き出してからも、大切なことは基本的に変わらないのだと実感させてくれた1冊だった。
竹内のおすすめビジネス書
龍崎翔子 『クリエイティブジャンプ 世界を3ミリ面白くする仕事術』 文芸春秋
ホテルに対して、「宿泊施設」以外にどのような意味付けができるか。例えば、「夜通し空いている箱」。家とは違った雰囲気で、夜更かしできる空間。そのような特性を生かして大阪弁天町で開かれたのは、平成ソングを夜通し建物内で流し続けて平成最後の1日を終えるオールナイトイベントである。また、「体験型ショールーム」と考えれば各部屋や共有ラウンジに置かれた製品の広告を務めることにもなる。本来の機能は「旅の途中の休息所」だが、視点を変えれば新しい役割を見出すことができる。
著者である龍崎翔子氏は、東大在学中の2015年に起業し、富良野のペンションを購入しホテルとして開業した。その後、多くの観光客が訪れる京都でもホテルを始めたが、ライバルとなる施設は多数。「同じ値段なら駅に近い他のところにするかな」と選ばれないことも度々あった。価格競争に参加するのではなく、来ること自体が目的になるホテルを作りたいという課題に直面した時、彼女は非連続の思考(クリエイティブジャンプ)によって糸口を見つけていった。これは「価値の再定義」「空気感の言語化」「顧客心理の観察」「異質なものとの組み合わせ」「誘い文句のデザイン」の5つの要素からなり、順を追って決めていくのではなく相互に行き来しながらコンセプトや商品の内容が確立されていくという点で「非連続」だと言える。冒頭のホテルの持つ別の意味はまさに「価値の再定義」であり、そこに異質なものが掛け合わされることで他にはないサービスの提供に繋がっている。
1つだけではなく多面的に意味を付与することは何だかなぞかけのようで面白そうである。そういう視点で教室をより充実させるアイデアを出したい。
2025.08.15Vol.67 記録の終わり(三浦)
以前、あまりの情報収集の面倒くささに、パソコンの買い替えをめちゃくちゃ渋っていることをここに書いた覚えがある。その後、買い替えたことは書いたかどうか記憶にないのだが、どうにかこうにか思い立って実行し、実は新しいものを迎えてもう数カ月が経っている。今までの一体型と違ってデスクトップなのでかなりの存在感があり、まだそれが堂々と鎮座している部屋の風景に慣れない。つい最近も店舗に出向いてキーボードを新調した際、今のパソコンのブラックではなく、以前のカラーであるホワイトに無意識に合わせてしまい、ちょっとちぐはぐな光景がデスクに広がっている。
さて、パソコンを移行するにあたって、データに関してはUSBを使って移動させることにしていた。大容量のものを持っていなかったこともあり、家に散らばっていたUSBをかき集め、数個に渡ってデータを移し変えた。その作業もきちんと終わらせたと思って一安心していた矢先、つい数週間前に、ふと10年分くらいのデータが失われていることに気が付いた。
それだけ気付かなかったのは、すぐに使うようなものではなかったからだ。それは例えば大学時代に提出した論文や、数日分残していた日記、友人とのやり取りなどで、必要になることはめったになく、なんとなく「見返したいな」と思い立たなければ開くことはない。だから気づくのが遅れてしまい、そして、困るような目には遭ってもいない。けれども、私はこういうのはなるべく残しておきたいたちだ。時折抜けているところはあれど、高校時代のスマホの写真のデータもきっと残っているし、遡れば、小学生時代のパソコンのデータだって、メールの履歴だってある(はず)。だから今回のデータ紛失は結構なショックだった。旧パソコンからUSBにデータを移したことは覚えているので、そのUSBを見つけさえすればいいのだが、見当のつくところは一通り探し終えてしまい、あとはふとしたときに現れてくれるのを祈るばかりである。
クラウドに保存しておけばよかったのではとも思ったが、私はクラウドをいまいち信用しきれていない。そのクラウドサービスが終了すれば跡形もなく消え失せるし、そうでなくとも誤作動で消えてしまうかもしれない。勝手に同期して勝手に消えたりなんかしたらきっと許せないので、すべてのデータはオフラインで管理することにしている。やはりUSBのような、物理的なデバイスが安心できる。
USBの話で、ふと濱口秀司氏のことを思い出した。とても簡潔にいうと、濱口氏はUSBが開発された際のコンセプトデザインにおいて、とにかく「すべてがネット上で完結する方向に向かうだろう」という当時の感覚とあえて逆行し、物質的な感覚こそが必要になるのではと、今のような記録媒体を生み出した。その結果、こうして世界的に受け入れられる保存メディアが生まれたというわけだ。ここで濱口氏のアイデアの出し方について舵を切ってもいいのだが、ここはまだ記録媒体の話をしようと思う。
物理的なメディアはやはり安心感がある。しかし、私のように紛失しなければずっと残り続けるのかというと、そうでもない。以前インターネットで見かけて気になっていたのだが、DVDが普及して数十年、経年劣化が進んで見られなくなっているDVDもそれなりにあるらしい。中のデータは無事だったとしても、外側のディスクが「物」である以上、どうしても熱などによる劣化は避けられない。そのため、知らず知らずのうちに動作の限界を迎えているということもあるようだ。「物」である以上、といった手前USBも調べてみたところ、これもやはり数年~十年ほどの使用期間で見ておいたほうがいいらしい。デジタルからは離れるものの、物理的な保存媒体といえばやはり「本」で、そう考えると上記のものよりも長持ちはするものの、やはり永遠に残り続けるものでもない。
インターネット上でも、ホームページの期限が切れたりリンクが切れたりして、見れなくなったページは多くある。デジタルでも物理媒体でも、どんな手段にせよ、何かをずっと保存し続けることは難しいのかもしれない。そんなふうに考えて自分を慰めつつ、やはり、寂しいものは寂しい。
2025.08.08Vol.66 やめられないのは誰のせい(西北校・伊藤)
スマホが気になり、ついつい手が伸びてしまう。通知が来れば反射的に画面を開き、SNSを覗く。面白い投稿があるわけでもなく、何かを探しているわけでもなく、ただ無意識に指を上下に動かしている。ただ、「あなたへのおすすめ」を使えば、自分の好みに合致したコンテンツが次々と流れてくる。
最初にこの機能を発見した時、その素晴らしさに感心したと同時に、自分の脳内が見知らぬ第三者に見透かされ、監視されているような気がして少し恐怖感を覚えた。その感覚はあながち間違いではなく、便利さの裏で実際に莫大な情報が集められ、それらは推薦システムに使われている。私はこの仕組みに興味を持ち、現在、大学院で推薦システムについて研究している。
最近は「スマホ依存症」に加えて「スマホ認知症」といった言葉も耳にするようになった。脳が情報過多になることで、記憶を取り出す作業ができなくなり、名前が出てこなかったり、約束を忘れてしまうという、認知症と同様の症状があるそうだ。
「Tiktok見てたら1時間経ってた」のような時間の浪費は自覚し、後悔することができるが、私たちの思考や行動がどのように変化させられていたかまでは気づいていない。無意識にネットで買った好みの服も、実際は自分の意思ではなく、デザインされた、仕組まれたものだったのかもしれない。ただ、そうなるのも当然で、それを促すことがGoogleなどの世界的テック企業のビジネスモデルであり、私たちの注意資源(どれくらいの時間、どのコンテンツを見たか)こそが彼らの利益の源となっている。
私が以前視聴した『監視資本主義』というNetflixドキュメンタリーの中で登場したエンジニアは、皮肉なことに、「昼間は人々の注意を搾取する仕組みを設計し、夜は自分が作ったアプリに時間を奪われている」と語っていた。動画サイトやSNSは、私が好きそうなものを延々と表示する。まるでスロットマシーンのように設計されているため、新しい投稿を求めてスクロールする指が止まらない。脳はドーパミン中毒になり、常に何か刺激を求め続けてしまう。
カフェで友人とスマホを操作しながら会話していたとき、隣のマダムが「最近の子って、ずっとスマホ見てるよね」と話していた。しかし、電車の中では、若者だけでなく、幼い子供もサラリーマンも皆ずっと同じ姿勢で覗き込んでいる。(むしろ一番見ていないのは大声で喋っているサークル終わりの大学生集団である。)彼女らが揶揄できるのは、使わなくても生活に支障が無い環境にいるからであり、一度手に取ってしまえば同じようになるぞ、と私は依然として画面を凝視しながら心の中で呟いた。
若者のスマホ依存とよく一緒に触れられる話題に、倍速視聴がある。高校時代に通っていた予備校では、映像授業は基本的に1.5倍速で見るよう指示されていた。既習事項や得意分野は1.5倍速に設定し、苦手な分野は所々止めながら学習するなど、習熟度に応じてスピードを変えられるという点では、合理的で効果的だった。
ただ、映画でさえもNetflixで早送りする人がいるというのは衝撃的だった。臨場感や没入感を味わえるのが醍醐味の一つだが、それさえも、「ただの情報源」の一つになってしまうのだろうか。
関連して、デジタルが普及しているからこそ、私の中では「ライブ」の特別感が上がっている。決して安くはないお金を払い、会場まで足を運び、アーティストの生演奏・生パフォーマンスを全身に浴びるのは、「効率化」や「タイパ主義」から逃れた贅沢なひとときである。Official髭男dismの『ペンディング・マシーン』には「Wi-Fi環境がないどこかへ行きたい 熱くなったこの額 冷ますタイムを下さい」と言うフレーズがある。娯楽さえも効率化され、常に大量の処理を求められる現代社会において、私たちは自然に休む場所を求めているのかもしれない。このような状況を踏まえると、若者でさえ認知症になるのは無理もない。
ネットコンテンツの質にも触れたい。映画やゲームには年齢制限があるが、ネットは無法地帯である。過激な動画、フェイクニュース、誹謗中傷…。最近ではAI生成物も普及している。愉快で新奇なものの裏に、少なからず被害者がいるということを忘れてはならないが、これを子どもたちは意識できているだろうか。全てが記録されるネット上では「失敗してから学ぶ」ことは危険なため、幼い頃からネットリテラシーを高めることは必須である。
例えば、AIの言うことを鵜呑みにしないことが挙げられる。塾の教材の1つに、社会問題に対してグラフや表を活用しながら意見を述べる『資料読解』があるが、タブレットを使って何か調べ物をする際、AIの要約をそのまま作文にコピー&ペーストしてしまう生徒は多い。その度に口酸っぱく、出典や根拠を調べるよう言っている。
私は「ゆとり」と「Z世代」の過渡期で育った。幼少期は時折パソコンに触れ、スマホは思春期と共にあった。ネットの便利さに夢中になりながらも、次第に生活が支配されていく違和感を覚えたが、それが今の進路を決定するきっかけとなったことも事実である。だからこそわかる視点や肌感覚で、生徒に寄り添いながら、今後とも情報社会との向き合い方について共に対話していきたい。
2025.08.01Vol.65 あえての駄作(徳野)
数年前に「ファスト映画」が話題になっていた。動画の違法性はさることながら、人気の背景にある、コンテンツ過多の環境に生きるZ世代の過剰な「タイパ(タイムパフォーマンス)」意識が物議を醸した。そして、以前と比べてメディアに直接取り上げられる機会は減ったと体感しているものの、YouTubeでファスト映画を投稿するチャンネルじたいはまだまだ健在である。しかも、取り上げられている題材の傾向から推測するに、映画鑑賞をそれなりに好む中高年層でないと再生しないであろうものも少なくないので、世代など関係ないのだ。作品に興味はあるけれど、もし内容が気に入らなかったら視聴に費やした時間が無駄になってしまう。だから、口コミよりも詳しい紹介動画でほど良く手軽に済ませて、2時間付き合うだけの価値があると感じればサブスクリプションで検索する。娯楽にまで効率性が持ち込まれる時代になった、とつくづく思う。
だが、出来や相性が悪いコンテンツと距離を取りやすい昨今においてもなお、私には「実際に観てみないと分からない」経験ができる場がある。兵庫県内に拠点を置く某歌劇団だ。現時点ですでに大半の人が組織名を察しているだろうが、念のため伏せておく。当塾のホームページを熱心に閲覧してくださっている方々の中にファンがいると知りながら名指しで批判する勇気が無いからだ。本題に戻る。観劇は「生もの」なのだから、観に行くことに意味があるのは当たり前ではないか、と思うかもしれない。だが、先述のような断りを入れておくほど、某歌劇団のオリジナル作品は独特である。率直に言ってしまえば、凡作と駄作の割合が他の著名な劇団や劇場での演目と比べて多い。ストーリー性が薄いショーの方はまだ素直に楽しめるものの、ミュージカルとなると時折、頭だけでなくなぜか眼球にまで疼痛を感じるくらいである。その感覚を初めて味わったときは、内容にどうしても入り込めない際の反応が「睡魔に襲われる」だけではない事実に驚愕した。以降、客席で開演を待つ間は期待と「今日は大丈夫だろうか」という不安が入り混じった気分を味わうようになった。団員たちの名誉のためにも述べておくと、登場人物たちのビジュアルと舞台装置はこの上なく美麗で、かつ演者たちはパフォーマンスにも真摯に向き合っている。それなのに、この3年間だけでも「目を閉じたいのに閉じられなく」なる演目が1つや2つで済んでいないのだから、構造的な問題があると言わざるをえない。
某歌劇団は往年の人気作の再演は何年かおきにするものの、英米のプロダクションが目指すような1年を越えるロングラン公演は滅多に行わない。それだけなら日本の演劇界全体に当てはまる傾向だが、某歌劇団の特徴はオリジナルの新作をほぼ毎月発表する体制を100年は続けてきた点にある。さらにその背景には、「スターシステム」に基づいたキャスティング方法がある。短いスパンで作品が世に放たれる度に、ファンは各組の人気スターの動向に敏感になる。特にトップスター候補とされる若手団員の配役はリピーターの固定化に繋がる重要な情報であり、熱心なファンにとっても有望な新人の成長を長い目で見守るのは「推し活」の醍醐味だ。人事が劇団最大のビジネスコンテンツと言える。一方で、「新作主義」によって演目の質が犠牲にならざるをえないのは容易に想像が付く。2,500席規模の大劇場向けの作品を製作できる座付きの演出家は常に不足しているし、企画立案から舞台本番までの時間も限られている。上演スケジュールと各演出家の登板頻度から察するに、90分のミュージカルを半年で完成させるよう求められる場合もあるのだろう。『オペラ座の怪人』や『キャッツ』の作曲で知られる巨匠のアンドリュー・ロイド・ウェバーだって、紆余曲折を経験しながら2、3年かけて納得のいく仕上がりにするらしいので、いくら豊かな才能があっても半年やそこらで脚本や音楽を十分に練るのは至難の業だ。
ちなみに、一つの演目に複数回足を運ぶような熱心なリピーター層であっても、質に期待しすぎないのを前提にファンを何十年と続けている人は少なくない。彼らは自身のブログで「こんなものに出演させられる団員が気の毒」とこき下ろしつつも、翌週には当の駄作をS席で再見する猛者である。特別応援しているスターの存在が度量を広げている面は間違いなくあるだろうが、それだけで全ての「組」の公演を網羅する気力は湧かないだろう。それに何より「推し」がいない私自身、リーピーターの境地には至らずともチケットが取れれば劇場に向かっている。一体何に心を捕らえられているのだろうか。
大学生の頃、劇作家の平田オリザ氏による講義を受けていた。平田氏は、演劇に限らず子どもには名作だけを与えるべきだと力説していた。大人が理屈で価値を判断する一方で、子どもは感覚でしか物事を捉えない。だから、精神的に成熟する前に優れた芸術に接しておけばセンスは自然と研ぎ澄まされ、成人後に付け焼き刃で身に着けた人のそれとは雲泥の差がある、とのことだ。「優れた」の基準は非常に曖昧ではあるものの、子育てにおいて感性を育むことを大事にしている人たちは、知識を増やしたり考察したりして初めて意義を感じ取れるような作品に積極的に触れさせているのは確かだ。子どもがその時その場できちんと理解できなくても別に構わない。そういう下地作りが「能動的な受け取り手」を生む。そして、個人的には、いわゆるB級モノの愛好家は娯楽鑑賞に対してかなり能動的な層だと考えている。漫然と視聴するだけでは心が折れてしまうような作品でも愛すべきポイントを拾いあげ、その一筋縄ではいかない魅力を発信するべく試行錯誤する、つまり「面白くない」を「面白い」に変える人の言葉にはやはり惹きつけられる。もしかしたら、それに近いことを私は某歌劇団の演目でやりたがっているのかもしれない。例えば、駄作の印象を受けたものに対しては、「どの要素が足を引っ張っているのか」、そして「どのような改善をする余地があるか」を探りながら観劇している。いくつか挙げてみると、トップコンビ以外のスターたちにも見せ場を作ろうとして散漫かつご都合主義な脚本になるのは仕方ないのだろうが、悪役の人物造形がワンパターンなのはいただけない。あと、たまに取り入れられる映像投影も無くした方が良い。どんなに美人でもあの濃厚な舞台メイクを施した顔がスクリーン上に大写しにされると違和感が勝るからだ。
また、良作になかなか巡り合えないからこそ、予想よりも内容を楽しめた際の喜びはひとしおである。「意外に良いじゃないか」という感情のために毎度賭けに臨んでいるようなものなので、傍目には不毛な遊びをしているように見えるだろう。だが、少し真面目な話をすると、某歌劇団は新作を生み出し続けることの大変さを教えてくれる貴重な場でもある。厳選された海外の人気ミュージカルを安定的に高いクオリティで提供する劇団四季や東宝の公演だけを享受していたら、作り手が置かれている環境に目を向けていなかっただろう。コンテンツに恵まれすぎているのも考えものである。
2025.07.25社員のビジネス書紹介㉒
竹内のおすすめビジネス書
東浩紀 『訂正する力』 朝日新書
SNSはもちろん、対面形式の議論でも「相手の意見に屈しない」ことが重要視されてしまっているような局面が多々ある。本来、議論には議題があり、その結果を踏まえて今後の方針が決まっていく。また、他者と意見を共有することで自分の考えを客観視することもアップデートすることも可能になる。その過程を経て態度が変わることは「負け」でもなんでもなく、「訂正する力」を発揮した前向きな選択に過ぎない。形あるものを創り出すに限らず、自己を見つめ直すなど、「その先」へと発展するもののない議論というのは本来空論でしかない。
訂正とは、単に意見をころころ変えることを指すのではなく、社会の動きや、自分以外の認識を受け入れて柔軟に対応することである。その姿勢で臨まない議論では、お互いが主張を改めることがないため、新しいものは生まれなくなってしまう。しかしこのような話し合いの硬直は決して珍しくない。その要因として筆者が指摘するのが「訂正できない土壌」が社会に存在している点である。対話によって信頼関係を築く訓練がなされておらず、これまでと異なる意見を提示するとそれまでは支持を示していた周囲から攻撃される可能性への不安がつきまとうのだ。
人間というものは必ず間違える。テストでもない限り正解は決まっていないから。社会は移ろっていくものだから。だから訂正できなければならない。そのために必要なのは、物事を部分的に見るのではなく、それまでに積み重なってきたものと結び付けて捉え「実はこうだったのだ」と理解することだ。「あの時の注意は、実は怒りではなく思いやりだったのだ」のようなことだろうか。こういう考え方を自分自身が持つのはもちろんのこと、同じような考えの人たちが集まる組織を作っていくことで、「訂正する力」は適切に用いられることになる。それまでの見方を変えるような声を上げることは批判を浴びやすい。だが、すでに一般的に浸透していることに異を唱えれば反対が多数あるのはごく自然なことなのだ。それが「間違ってないよ」と初めから認めてもらえるとは保証されていない。しかし、だからこそその声を上げることの価値は大きい。訂正は自分一人では行えないのだ。
三浦のおすすめビジネス書
大石哲之 『コンサル一年目が学ぶこと』 ディスカヴァー・トゥエンティワン
いろいろと世間一般のビジネス書を読んでいると、なんだか世間とは違うな、あんまりうちとは関係ないな、と思うことも少なくない。もちろんしっかりとエッセンスを汲み取れば仕事の上での共通点というものはあるのだが、どうしても距離を感じることもある。特に、「コンサル」という響きともなれば、ほとんど知らない世界のようだった。
ただ冒頭で述べられているように、本書はコンサルタントとしてではなく、様々な業種にも通じる「普遍的な仕事力」について取り上げている(コンサルだからこそ、色々な業種を知っているともいえる)。だから内容としては、チームとしてどうあるべきかなど、他のビジネス書で既に見かけたものもしばしばあり、けれど、こうして繰り返されるほど実践が難しいのだとも思う。その中で、ここ最近の個人的な課題である「相手に伝わるための説明」については参考になる部分が多かった。結論から話す、何も知らない相手に伝えるつもりで「そもそも」から話す、相手がどこまで理解しているかを仕草から読み取る。当たり前といえば当たり前だが、この「そもそも」から話すというのはなかなか難しく、本書にあるように「簡単すぎて失礼なのではないか」という意識が働くことも少なくない。けれど事前知識を共有しなければ、相手がどのくらいのレベルなのかもわからない。それを肝に銘じる。
また、「コンサル流思考術」と銘打たれた章では、どのように物事を解決に導いていくかという思考法が紹介されていた。そこでは「考え方を考える」として、どのように作業を進めていくかを考える時間をまず設けるべきだ、としていた。焦るとどうしてもまずはと手を動かしてしまいがちだが、それでは時間を浪費することにもなるし、間違ったやり方をしたときにリカバーができない。それを読んで、生徒に教えるときにも手当たり次第に解いても意味がないと注意していることを思い出した。「考える」ことを人に念押しする前に、自分もよく立ち止まらなければいけないと、授業を思い返しながら腑に落ちた。
徳野のおすすめビジネス書
アンデシュ・ハンセン 『多動脳 ADHDの事実』 新潮社
本著が発表された2017年のアメリカでは、全人口の約15%が注意欠陥・多動性障害(ADHD)の診断が下されている。感染症や生活習慣病でもないのにたった15年間で5倍になったというのだから、なかなか異様な状況である。しかし、そもそも「ADHDか否か」という線引きじたいが無意味である。誰にだって集中を保てなくなる場面はあるし、集団内で「異常」とみなされる基準も時代と環境によって変化するものだからだ。現役の医師である著者によると、医療的ケアが本当に必要な人の割合は国内人口の5パーセント程度であり、たとえその層にいたとしても、副作用のリスクを踏まえると投薬治療には慎重になるべきである。大切なのは、ADHDだからこその「強み」と「弱み」の両方を把握した上で熱中できる物事を探していくことだ。
恒常的な注意欠陥が起こるのは、遺伝的要因から脳内に分泌される快楽物質が上手く機能していないからだ。その特質がある人ほどADHDの傾向が強くなり、刺激を求めて周囲の些細な動きにも過度に敏感になる。そして、本能が強い刺激を渇望しているがゆえに、アルコールや薬物、スマホに依存しやすくなる。こう書くとネガティヴ面にばかり目が向くかもしれないが、好奇心旺盛でエネルギーに溢れ、斬新なアイデアを次々と生み出すのに長けた人物が多い事実も忘れてはならない。そういった特長は、とりわけ先史時代では人類の生存に多大な貢献をしていたものの、現代における学校の集団授業や事務系の仕事と相性が悪いというだけの話だ。
作中にて次のような実験が紹介されている。子ども3人で構成された2つのグループに複雑な思考が求められる課題を与えたところ、ADHDの傾向が顕著な子どもが含まれるグループの方が議論が活発になり、課題解決まで辿り着けた。ADHDの子が発想力の面で大きな役割を果たしたことに違いはないが、思いつきを完成形まで持っていくのは苦手としていた。実際のところ、止めどなく出されるアイデアが他のメンバーに良い刺激を与え、各々が得意な領域を担う協力体制が出来上がっていたからこその成功だった。
自身の性質を客観視した上で目的を共有する仲間と「弱み」を補い合う柔軟性は、人生を充実させる「鍵」となる。だからこそ、学齢期の子どもには他者と積極的に交流させるべきなのだ。