2023.12.12Vol.619 研修課題「現在の教育について」by 大学生講師
豊中校の責任者である竹内より、「是非掲載して欲しい」と懇願されたため、私の1回分を泣く泣く譲ることにしました。新しく豊中校に加わった大学生の講師によるものです。次回、この文章への講評をする予定にしています。ではお楽しみにください。
与えられた題材は「現在の教育」だが、私の少ない人生経験を踏まえ、ここでは少し狭めて「現在の日本の教育」としたい。現在の日本の教育について、状況を踏まえた上でその問題点を指摘する。
まず、日本の教育の現状について説明する。日本の教育システムでは、義務教育、高等教育、大学校そして大学院という階層性がとられている。それぞれの階層には、文部科学省により明確な教育目標が定められている。次の階層へ進学する場合には試験を受けることになり、その目標が達成されているかどうかが審査される。私は、このシステム自体はとても合理的であると考えている。子供の発達に応じて教育目標を更新することで段階的な教育活動を可能にし、試験という形で適宜教育目標が達成されているか確認することで、教育水準を測ることができるからである。
問題は、その試験にある。いわゆる「受験」である。受験で必要とされていることが、確認されるべき教育目標と乖離してしまっているのである。まずは、その教育目標について説明する。『教育の目的とは,「人間力」を備えた市民となる基礎を提供すること。つまり,社会に生きる市民として,職業生活,市民生活,文化生活などを充実して過ごせるような力を育むことと言える。これは,「生きる力」として文部科学省が教育改革の中で提唱してきたことと軌を一にする』と、文部科学省は定めている。この教育目標は、とても曖昧に見える。しかし、目標が曖昧なのは、全国の高等学校ごとにこの目標の範囲で校風に即した試験を実施できるように配慮した結果である。曖昧だからと言って決められた範囲を逸脱してよいわけではない。
目標にある「生きる力」とは、一体何なのだろうか。私は、これは「自分で考える力」すなわち「思考力」であると捉えている。人間は生きている限り、常に考え続ける。問題に直面した時、自分の持てる知識や道具、技量を総動員して最適な答えを出す。これが、考えるということである。むやみに自分の持ち物を増やし続けたり、藪から棒に自分の考えを伝えたりしていても問題は解決しない。思考とは、収集と発信の二つが組み合わさったものである。
思考がかくなるものならば、高等学校は思考力を審査するためにどうして「暗記問題」などを出題するのであろうか。知識のみを問うような問題は、義務教育の教育目標から逸脱していると言っても過言ではないのではないか。先に述べたように、思考力とは知識を自分なりに運用する力である。だから、思考力を問うような問題を出題することは、知識を問うことを包括しているといえる。だというのに、試験では暗記問題が多く出題されるのだ。この傾向は特に理科や社会のテストによくみられる。例えば、世界史では「エジプトの神聖文字(ヒエラティック)は西暦何年に解読されたか?」(平成23年、上智大)という問題がある。正解は1822年なのだが、正直こんなことはどうでもよい。いったい何のためにこんな問題を出題したのか。思考力を判断するためなら、知識に頼らず生徒自身で考えなければ答えることができない問題を出題するべきである。同じエジプトの神聖文字であっても、「エジプトの神聖文字はどこの国の人物によって解読されたか、またその歴史的背景を述べよ」などとすれば、生徒は自力で考えざるを得なくなる。教科書にもはっきりとは示されておらず、知識を覚えるだけでは対処不能だからである。「神聖文字を解読したのはフランス人のシャンポリオン」「18世紀末にナポレオンはエジプトへ出兵した」「ナポレオンは出兵の際にロゼッタ=ストーンを発見した」「ナポレオンはフランス革命を終結させ帝政を敷いた」などの知識を掘り起こすことから始め、うまく題意に沿って文章にする。このような営みが歴史的思考である。ある事件の元号など、思考力の断片にも過ぎない。
加えて、このような暗記問題によって、生徒たちの思考力の成長が阻害されているという事実もある。これは大変な事態である。例に出したような細かい暗記事項まで出題するから、生徒たちも本当に些細なことまで覚えておかねばならなくなる。そうすると、暗記ばかりに時間を奪われ、肝心な思考の部分にまで達しない。これでは、「生きる力」が教育されない。そして人間は、時間がたてば記憶を失う。せっかく、というかいたずらに、頭に詰め込んだ知識は、試験が終わればすべて忘れてしまう。そして次のステージに進んだ生徒の中には、何も残らない。思考力ではなく知識の豊富さを問われたばかりに、何も身に着けることなく終わってしまうのである。
出題者たちよ、もう一度「生きる力」とは何か、考え直してほしい。やみくもに知識問題の難易度を上げて、うちは難関校だ!と威張っているのはとても空虚である。虚勢である。思考力を問われないままに入学してしまった生徒たちの実情を見よ。彼らは知識を失い、思考力もなくただ学校の中に浮浪しているだけではないか。「生きる力」を持った生徒を見抜くには、そのような暗記問題を出題する必要は全くないのではないか。
私はこのように暗記問題を徹底的に批判してきたが、私だけではなく、やはり日本の教育界も暗記問題の無意味さに気づき始めているようである。改めて、生徒の思考力を問う潮流が生まれ始めている。最たるものが、いわゆるセンター試験から共通テストへの変化である。従来のセンター試験では、国語や数学はまだしも、社会系・理科系の科目は暗記問題ばかりであった。しかもそれはマーク式であるから、問題を解くことは単調な作業でしかなかった。しかし、共通テストでは、文章だけでなく図版や生徒同士の会話文など、問題の読み取りから思考力を問われ、さらに解答内容も知識だけによらず必ず生徒自身で考えなければいけないものになっている。また、共通テストだけではなく各学校にもそのような傾向がみられる。当の上智大だって、方針を大幅に変えて百文字単位の論述問題を出題するようになった。生徒の「生きる力」を審査する、という試験の本旨を考えれば、至極当たり前な変化である。新しい思考系問題に対処するために努力した生徒たちは、必ずや素晴らしい思考力を身に着け、次の学習段階でも大きな飛躍を見せることになるだろう。教育者たちは、これからも決して「生きる力」の正体を見失ってはならない。