2023.04.11Vol.586 ただ~なだけ
おまえ、高校の頃もそんなんやったな。何に対してそう言われたのかは忘れてしまったが、卒業以来30年弱ぶりに会った高校の同級生の言葉である。どうやら、昔から変わっていないらしい。フェイスブックの投稿で、近所に引っ越してくることが分かり、じゃあ、ということで、先週末に2人で飲んだ。来月ゴルフにも行くことに。
面白い奴だと思われたい、というのが物心ついたときから自分の中にずっとある。それ自体は不変なのだが、その裏側では変化が起こっていることに少し前に気づいた。小学生の頃は単純に目立ちたいだけであった。それに加えて、中学の途中ぐらいから、ただ勉強ができるだけのつまらない奴、と思われたくないというのが芽生えてきた。「勉強ができる」とか自分で言うなよ、という話なのだが、教育熱心でない地域の、地元の公立中学校では、私はそのポジションにいた。その時点で中学受験の失敗は経験していたし、そもそも進学塾に通っている頃から全然敵わない奴が身近に少なくない数いたので、「それなりにはできるけど、賢くはない」という自覚はちゃんと持っていた。時々、「先生は、できない人の気持ちは分からないでしょ?」などと言われることがあるのだが、痛いほど理解できる。京大医学部に合格した生徒ですら、高校生の頃「同級生に数学がばけもんみたいにできる奴がいて嫌になる」、大学入学後は「周りの暗記力が自分とは違い過ぎる」と漏らしていた。謙遜しているわけではなく、卑下しているわけでもない。事実を認識した上で、「じゃあ自分には何ができるか」をきちんと考えていた。そのような思考になるためには、できていることがそれなりになければならない。あれもこれもできないとなれば、「何やっても無理」と自分を見つめる気にはなれないからだ。そういう風に投げやりになっている生徒がいれば、まずは、糸口、突破口を見つけてあげなければない。0と1では全く違うのだ。私自身、うまく行かないことがあると、「ただやっていないだけ」、「ただやり方が良くないだけ」と自分に言い聞かせることにしている。自信のない生徒たちにもそういう言葉掛けをした上で、実際にできるように導く。そして、「ほれ見ろ、やったらできたやん。俺の言った通りやんけ」と畳みかける。もちろん、何でもできるようになるわけではない。その子ができること、できるようになってその子に将来に役立つことをきちんと見極めてあげなければいけない。
話を戻す。大人になってから、特に志高塾を始めてからは、「ふざけていても許される奴でいたい」というのが自分の中で強くなっている。やることもやらずにふざけているばかりであれば、信頼は得られない。やることをやってふざけなければ良いやん、という意見が聞こえてきそうだが、そんなことは私にはできない。もし、そんなモデルチェンジをしてしまったら、親御様や生徒の内の何人かは「前の方が良かった」となってくれるはずなのだ。ちなみに、生徒に対してふざけるとは大抵の場合、私が体験したことなどを面白おかしく話して笑いを取ることである。実際に話すまでに、どのように話を始めて、どのように落とすかということを頭の中で何度かシュミレーションする。実は、それは意見作文の添削の際に生かされるのだ。「その始まり方じゃ読み手の興味は引けへんで」、「途中の重要でないところがダラダラしてしまってるからもう少しすっきりさせな」、「折角ここまでうまく話を展開して来てんから最後もっと工夫して」といった感じである。
ここで少々宣伝を。わたくし、ツイッターを始めてみました。やろうやろうと思いながら、どのようなことをどれぐらいの頻度でつぶやくかを決めきれずに、そのままになっていた。ブログよりもカジュアルに、ライトに、の予定だったのに、1週間前の夜にかなりヘビーなものを投稿してしまった。その日のブログで、「発信者としては、『何を』を充実させる責務がある」と述べたことに自分自身が思い切り引っ張られてしまってのことである。これまでに2度、ネットの記事とそれに対する自分の意見をツイートしたが、当分の間はその形式でやって行く。お時間のある時にでも、覗いていただけると嬉しいです。
冒頭の私の同級生は刑事をやっている。「お前がえらくなったら、俺が何かやらかしたときにもみ消したりできたりすんの?」と尋ねたら、「そんなん無理や」と即答された。「ただふざけただけ」では済まされない羽目の外し方だけはしないように気をつけよう。