2023.04.04Vol.585 「誰が」と「何を」
私に向かって、「先生は変わっている」と誰かが口にし、周りの生徒が深く賛同する。それに対して、「俺は全然変わってない。仮に変わっているとしたら、そんな人のやっている塾に子供を通わせているあなたたちの親も変わってるってことになるで」と返す。そういうやり取りが時々行われる。
「就活時代の友達に会うために東京に行く」という話をすると、不思議がられることは少ない。昨夏は私を含めて6人が集まった。今年は初めてゴルフに行くかもしれない。ちなみに、私以外は首都圏に住んでいる。就職して5年ぐらいは東京にいたので、しょっちゅう遊んでいたし、私が関西に移ってからは年に1回のペースで顔を合わせている。ふと「何者でも無かった頃からの友達って利害関係が無いから良いよな」となるのだが、冷静に考えてみると未だに何者でもない。「何者かになれた」と思える日がいつかやってくるのだろうか。
就活を始めるに当たり、「ジョブウェブのメーリングリストから情報が得られる」というのを聞いて、とりあえず登録した。メーリングリストというのは、グループラインのメール版である。業界ごと、メーカー、商社、金融など、にグループが分かれていて、私はコンサルだけに所属していた。1,000人ぐらいはいたのではないだろうか。大して期待はしていなかったが、実際そこから流れてくるのは実にくだらないメールばかりであった。次第にいらいらが募って来て、初めて投稿をした。「こんなにたくさんの人が登録しているところに、『〇〇大学の□□です。よろしくお願いします』とだけ言われても、顔も見えないわけで、知らんがな、となる。その中で『東京大学の』が圧倒的に多い。それを書くのであれば、何かしら有益な情報を提供した上で、最後に名乗る。それを読んだ人が、『ああ、やっぱ東大の奴は違うな』となって初めてその署名に意味があるんじゃないのか」というようなことを述べた。最後に「京都大学 松蔭俊輔」というのは入れた。記憶は定かではないが、「ですます調」で、最低限の丁寧な言葉遣いはしたはずである。当時は、まだ紙の履歴書を送ることも少なくなかった。そんな時代に私はネット上で大炎上したのだ。時代の10年とは言わないまでも5年ぐらいは先に行っていたことになる。さすがに「死ね」までは無かったのだろうが、「とっとと消えろ」ぐらいのメールは飛んできた。元々そこに所属している意義も感じていなかったので、それを機に脱会した。「捨てる神あれば拾う神あり」で、数十人が「やり方は良くなかったけど、あなたの意見には賛成です」というような内容のメールを私の個人アドレスに送ってくれた。彼らに声を掛けて東京でオフ会を行い、その後、上京するたびに飲み会をしていた。多いときには30人ぐらいは集まったが、最終的には特に気の合う連中と自分たちでメーリングリストを作った。そして、そのグループを私が「めっちゃ」と名付けた。「中途半端ではなく、めっちゃ~しよう」と意味を込めてである。「めっちゃ出世しよう」でも、「めっちゃ楽しんで生きよう」でも何でも良かったのだが、とにかく「めっちゃ」なのだ。その「めっちゃ」のメンバーは今では10人弱になったが、今後もお互い刺激を与え合える仲でありたい。
ここで、最近恒例の引用を。米原万理著『心臓に毛が生えている理由』より。
多くのホームページには掲示板という訪問者が意見を書き込むサイトが設けられていて、自然に討論になっていく。感心したのは、書き込まれるメッセージに一切の権威付けが無いということ。どんな暴言を吐こうが悪態をつこうが、発言者の年齢も性差も地位も職業も見えない。では、某テレビキャスターが言ったように、「便所の落書き」になるかというと、必ずしもそうではない。一時荒れたとしても、最終的には、論理的で理性的な、しかも人間的暖かみのある発言が少しずつ皆の指示を得ていく。それは、内容そのものの力なのである。日常的には、われわれは「何を」しゃべったかよりも「誰が」しゃべったかに左右されるのが、その逆になる爽快感がある。人間って、結構信頼できる、希望が持てる、と思う瞬間だ。これは意外な発見であるが、革命的というほどのものではない。
発信者としては、「何を」を充実させる責務がある。その頭をひねり、心を込めた言葉を受信者にきちんと受け取ってもらうためには、「誰が」も大事になってくる。社員には、「親御様にも生徒にも、この人の言うことなら耳を傾けよう、と思ってもらえるような人でないとアカンで」ということを折に触れて話す。もちろん、自戒の念を込めてである。
聞き手、読み手の時間を浪費させてはいけない、という思いは今も持ち続けている。それに限らず、大事にしている考えはそれなりにある。そのような意味では、昔から変わっていない気がする。人と比べてどうかは分からない。ただ、高校生の頃、友人から「おまえみたいな奴が2人いたらほんまうっとうしいけど、1人やったらどうにか我慢できる」と言われたことがあったことを思い出した。