2022.12.27Vol.573 喜び
さて、本田。次のようなコメントをいただいた。「本田圭佑似の件、激しく同意です。アベマの本田解説を見ながら、同じことを思っていたので、『志高く』を読んで、一人笑ってしまいました。」私の化けの皮はそれなりに分厚いのかもしれない。そして、もう1つ。週末、志高塾に12年通った元生徒が一時帰国したので会っていた。その彼女もまた同じ思いをしていたらしい。自信がある発言をするときは、本田も私もやや上を見るとのこと。その指摘を受けて「それめっちゃオモロイやん」となった。それは、2人の類似性ではなくきっと人間の習性なのであろう。嘘を付く時に目をそらすのと同じように。ただ、本田と私はその回数が人よりも多いのかもしれない。12年間のどこで気付いたのか知らないが、ある時から私が真面目に話しているのに、「今、この人めっちゃ気持ちええんやろなぁ」と思いながら聞いていたのだ、きっと。
さて、本題。高2の生徒の作文を紹介する。
部活の時間は長い。月から金は毎日放課後に練習し、土日に試合ともなると1週間で数十時間かかることになる。それにも関わらず顧問はわずかな手当しか貰っていない。この問題も含め、学校という職場がブラックであるということは近年度々話題にあがっている。しかし、一向に解決する気配がない。なぜなら、大多数の人間にとって今の方が都合が良いからだ。
多くの人にとって理想の先生像とは、相談や質問に律儀に応える生徒想いの親切な大人だろう。この親切心を求めるということが労働環境の原因である。学校の先生など赤の他人だと思っている生徒もいれば、親や友達とは違う信頼のおける相手と認識している人も一部いるはずだ。後者の場合は当然勉強を教える以外の業務も要求され、それは普段から接している先生にしかできない仕事なのだ。しかし、教師とて人間、他人の子供の面倒をみるのがそれこそ面倒になることもあるだろう。そして、そう思うものが大半だろうが、全員がそういう訳ではない。好きで教職に就いている人だっているはずだ。私は小中高を私立で過ごしたおかげでそういう先生にたくさん出会えたし、公立にだって少しぐらいいるだろうと期待している。これだけ労働環境が社会問題になっているのに毎年教師になりたいという者が必ずいる。自分が恩師と出会えた経験から憧れて志したりなどでやる気がある人もいるし、ない人もいるかもしれないが承知の上で就職しているだろう。前述の通り代えの利かない仕事だけに一気に労働環境の改善とはいかない。もはや社会全体のための必要悪のようなものではないだろうか。
早稲田大学スポーツ科学部の小論文試験で出題された「高等学校における『運動部の活動』の現状について、改革をすべきか否か」というテーマに関するものである。条件として、肯定側(改革すべきである)と否定側(改革すべきでない)のどちらの立場であるかを明確にすること、というのが与えられた。初め、彼もそれにしたがって作文をしたのだが、つまらないものになった。それもそのはず、そこを受験する生徒の多くは高校時代に全国大会に出るなどスポーツに青春を捧げていたから、彼も運動部に所属しているものの厳しさがまったく違うのだ。よって、そこを起点にして話を広げたら良い、というアドバイスをした。
最終のものも含め、私は表現自体には手を加えていない。かなり早い段階で、最後の一文と、教育における労働環境が変わらないのは周囲の期待によるものだ、というのを自ら出せていた。それらが面白かった一方で、教師になる人は皆生徒想いだ、と取られかねないようなものになっていた。それゆえ、勝負所以外の部分でひっかかりを作らないようにしないといけない、という指摘をした。断定をしないようにとあちこちで注意を払った結果、「~な人もいれば、~でない人もいる」となり過ぎてしまったが、全体としては良い仕上がりになった。そのような私の評価に対して、「何度も書き直したから」と返ってきた。毎回のように30分以上延長して、少なくとも5回の授業は費やしたからだ。「どれだけ時間をかけても、誰もがこのようなものを書けるわけではない」と伝えた。
生きて行く上で、決められた時間の中でそれなりのものを仕上げる力は必要だ。入試で問われるのは、正にその力である。そこにもう1つ、たっぷりと時間を掛けて、納得が行くまでやり続けられる力が付いてこれば、人生はより豊かになると私は信じている。その力を付けるために欠かせないものがある。それは、時間を掛けたことの意義を実感できる体験である。そして、そういう体験を積み重ねて行くことによって、「うまく説明できないけど、明らかに一段上がった気がする」という瞬間が訪れる。
小3から通っている現在高1の女の子。先日「おう、めっちゃ良い作文書けるようになったやん。以前はあほみたいやったのに」とほめた。基礎的な力がどれぐらいあるかにもよるが、上手い作文を書けるようにするのに大して時間は掛からない。しかし、良い作文を書けるようにするためには時間を掛けなくてはいけないのだ。
生徒の良い作文を目の当たりにしたとき、喜びを感じる。それはその作文そのものもそうだが、それ以上に彼らのその先の人生に役立つ良い経験をさせてあげられているかもしれない、と感じられたことに対してである。
来年、そういう喜びをより多く感じられるように生徒たちと向き合っていきたい。また、面談などでそれこそずっと天井を見ながら話せるぐらいの自信を付けられるよう、もっともっともっと自分を磨いていかなければならない。
このブログ、来週はお休みなので次回は1月10日なります。今年1年間ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。