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2021.04.13Vol.490 そりゃ、できた方が良いですよね

 先週は高槻校の準備に追われていた。3日土曜に工事が終わり、7日に写真撮影があったため、日曜の朝から急いで家具を含めた荷物の搬入、足りないものの買い出しなどを行っていた。その写真撮影、教室内の様子に加え、私自身のものも撮り直しを行った。そのままでも良かったのだが、HPなどの写真が随分と古く実際に会ってみるとイメージしていたのと全然違うということが時々ある。4年前と大して変わっていないだろうと強がってみたくもなるが、潔く4年分古くなった新しいものに取り換えることにした。以前のものはいたって普通だったので、今回は少し気取った感じのものにしてみることに。このブログでも紹介した開塾当時からの付き合いである気心の知れた森野さんにお願いしたので、私が調子に乗ってグラビアアイドル風のポーズを取り、「松蔭さん、それは違います」とべたに突っ込んでもらいながらの楽しい撮影会になった。昨日アップデートしていただいた。
 さて、本題。私は小1から中3まで9年間同じ女の先生にピアノを習っていた。当時、これだけ続けてこれだけ下手な人は世の中にはおらんよな、と思いながら通っていた。参加資格が5年以上ピアノを続けている中学生、というコンテストがあれば、私はかなりの確率で日本一になれただろうし、間違いなく5本の指には入ったはずである。下手くそはそんなにも続けないし、普通は続けていればもっとうまくなるからだ。私は気に入られていたので(なお、兄は小学生の頃に「お母さん、こんなやる気のない子にお金を払い続けるだけ無駄です」とその先生に言われ、強制的にやめさせられていた)、「弾きがてら話しに来て」か「話しがてら弾きに来て」のどちらだったかは忘れてしまったが、やめようかどうか考えていた小学校卒業時に先生にお願いされてそのまま続けた。
 先日あるお母様から、お子様の耳が良いので演奏されているのを聞けばバイオリンで再現できてしまうという夢のような話を聞いた。私は、耳が良くないのは当然のこと、頭と手がまったく持って連動しないので、短く区切って、まずは右手、その次に左手、そして合わせる、ということを繰り返しながら少しずつ前に進んでいくしかなかった。先のものは自慢話ではなかった。そのような能力はあるものの楽譜がまったく読めないのだ。先生に言われて、一年間譜読みのトレーニングをしたが効果が見られずに悩まれていた。上の子は志高塾に通ってくれているが、その子自身を私は知らない。親は、子供に何かうまく行かないことがあると、AができなければBも、と不安になってしまうことは少なくない。それゆえ、その点に関して確かめてみたが、勉強など他の分野でそれと関わるような問題を特別に抱えているわけではないとのことであった。別に将来音楽のプロを目指すわけでもない。私にすれば、なぜ本人が嫌がっている譜読みをそんなにも長期間に渡ってやらせる必要があるのか、となる。誤解をしないでいただきたいのだが、プロを目指さないから適当で良いと言いたいのではない。この春高2になった元生徒の男の子は、全国大会に出るような強豪校にスポーツ推薦で進学した。彼は、確か中2ぐらいから卒業まで通ってくれた。成績を上げるために家で自ら勉強するタイプではなかったが、出した宿題はやって来ていたし、授業中も口ではだるい、と言いながらも実は考えることは嫌いではなかった。スポーツで上を目指すことは入塾時から分かっていたが、志高塾での勉強を通して賢いスポーツ選手になるようにしてあげたいというのがあった。
 譜読みに話を戻す。できるに越したことはない。しかし、「できた方が良い」と「できないと困る」はイコールではない。だから、トレーニングを試みて、あまりに成果が見られなければ別の手立てを考えるのが教える者の役割である。そのバイオリンの先生を批判したいわけではない。他山の石としようと考えているのだ。あまりに楽譜が読めないので、お母様が「『ラ』の音を出して」と指示したときに、音符としての「ラ」ではなく、そのお母様の発生したときの「ラ」の音を再現したらしい。私であれば、その特異な能力をどうやったら活用できるかを考える。「第~小節から弾いてみて」ということができないらしいのだが、本番の演奏で途中から弾くことなどないし、仮に合奏の練習をするにしても、誰かが鼻歌でも歌ってどこからか教えてくれたら済むのではないだろうか。ある現象を見たときに、ある決まった評価を与えるべきではない。打ち手を誤るからだ。たとえば、ケアレスミス。少ないに越したことはない。それは大別すると2種類に分かれる。作文の見直しを一生懸命してより良いものにすることにはエネルギーを注ぐものの誤脱字は見落としてしまう子と考えること自体を面倒くさがって「大丈夫」とサラッと見直してしまう子。前者に対して、ミスのことをうるさく指摘し過ぎると考えることを楽しめなくなるかもしれない。だから、どこのタイミングでそこに手を入れるかを見極める必要がある。一方で、後者の子は、一つ一つをきちんと考える癖を付けてあげなければいけないので、ケアレスミスを減らすこともその一環として改善して行ってあげないといけない。大分類としては2種類と考えているが、もしかすると3種類かもしれない、その中の小分類にしても過去の経験上それなりに分かった気になっているが、どこにも属さない子がいるかもしれない。
 私は基本的に適当で傲慢であるが、自分の物差しで子供たちの能力を評価することには慎重で、かつ、自分の価値観で判断して大丈夫だろうか、という気持ちを持った謙虚な人でありたい。

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