2021.03.16Vol.487 俺って貴重な存在じゃないですか?
引き付けるべく「祝、京大医学部合格」というタイトルにすれば良かったか。
中学生時代の2年半の空白期間も含めると、小4から高3まで約9年間の付き合いになる生徒の大学受験が無事に終わった。中3の秋に戻ってくる際には、人間的な部分を育てて欲しい、とお父様からお願いされた。意見作文を中心に授業を進めて行く予定であったが、読解問題があまりにもできなかったことに加え、基本的な知識が不足していたため、灘や東大寺などの過去問が収められている『最難関高校の国語』という問題集を使って、その2点の強化を図った。中学受験用の進学塾の公開テストで使われるような文章は、時間も掛けずに適当に選ばれているので「何じゃこりゃ」と出題意図がよく分からないものも少なくないが、最難関高校の国語の先生が、1年に1回、優秀な生徒とそうでない生徒をふるいにかけるために用意した文章はそれなりに読み応えがある。その後、大学受験対策用の教材に移り、最後の1年弱は京大の過去問を一緒に解いた。中学、高校受験レベルであれば、事前に文章に目を通していればどうにかなるが、大学受験になるとそうはいかないどころか、真剣に解いて、的を外すことがしばしば。もちろん、授業の前に解答を見て、我が物顔で教えることもできるが、そんなやり方でメッセージが心に届くはずがない。そういうときには、名選手名監督にあらず、という言葉を思い出して、自分を慰める。教えるという行為は、監督というよりかはコーチの役割か。自分のことを名コーチだとはまったく持って思えないが、それほど悪くはないはずである。
1年ぐらい前のことになるだろうか。志高塾の国語だけに通っていた高1の女の子の数学の成績があまりにひどいということで、夏期講習の期間だけ教えたことがあった。まず、自分で考えようとしないので、そこから始めないといけなかった。ようやくその癖が付いてきた頃に夏休みは終わり、その後、数学はまた別の個別塾に移った。その半年後ぐらいにお母様に状況を伺うと、「良いという評判の先生に付いてもらったのに、まったく成績が伸びません」と返ってきた。そりゃそうである。その塾は、最難関校の生徒も通っていて、そのような学校でも優秀な成績を取っている生徒にとって良いのだ。彼女は中堅校でも平均点を下回っていたので、テクニックを教えられたところでどうにかなるものではない。そのようなことを踏まえて、志高塾に興味を持っていただいても、求められていることに対して我々が良い先生、良い授業を提供できないと判断すれば、私は別の塾を紹介するようにしている。
話を戻す。良き伴走者であったと言いたいところなのだが、現実はそうではない。私は大量の汗をかいて、ハアハア言いながら彼と並走していたに過ぎない。授業の際のやり取りは、2人の解答と模範解答の3つを見比べ、ずれている部分に注目しながら、ああでもないこうでもないと意見を出し合っていた。時には、これは模範解答自体がおかしいんじゃないか、というようなことを話しながら。10年以上教えているにもかかわらず、国語が苦手な高校生と本気を出して対等に戦える先生なんて世の中にほぼいないはずである。時々、想像することがある。もし、塾の国語教師対象の実力テストあって、その成績がネットにでも載せられたら大変なことになるだろうな、と。少しだけ補足をしておくと、息を切らしながらも、本文で扱っているテーマに関する事柄は私の知っている限り伝えるようにはしていた。
話は変わる。『ロダンのココロ』という8コマ漫画で、生徒がタイトルを付けるのに悩んでいた。「面白いのをつけるんやで」とプレッシャーを掛けながら、私は私で考えていた。結局本人が納得の行くものを出せなかったので、私の傑作を伝えてびびらせておいた。帰り際、「俺も松蔭先生みたいなタイトル付けられるようになりたい」というので、「まあ、頑張れ」と励ましてやった。ちなみに、その子は小3の男の子である。こういうこともあった。中1の女の子が意見作文の締めの一文とやはりタイトルが思い浮かばずに苦戦していたので、「俺ならこうするな」と実力の違いを見せつけた。お母様が彼女の下の子を迎えに来た時にそのことを伝えると、「そりゃ先生、年齢が違いますから」と鼻で笑われてしまった。どうやらこういうのを世の中では大人げ無いと言うらしい。あれは小3の頃ぐらいのことであった。教育実習に来ていた若い男の先生が、ドッジボールで手を抜いて投げることに私は真剣に怒っていた。怪我をさせないように他の奴に手加減するのはいいが、俺にだけは本気でやってくれ、絶対に取って見せるから、と。不思議なことに、後にも先にも実習で来て名前を覚えているのはその先生1人である。誰にどう思われようと、子供の頃の自分だけは、今の私を結構好きでいてくれるはずである。