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2021.03.09Vol.486 じゃないですかじゃないですよ

 「菅首相が会見などで口にする『~じゃないでしょうか』は何を意味しているのか」というタイトルが付けられたネット記事の抜粋から始める。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20210301-00240139-hbolz-soci

 さて、今回取り上げたいのは、「~じゃないでしょうか」という、菅首相が多用する言い回しである。いったいこれは、何を意味するのだろうか。上記の毎日新聞の詳報から今回の「ぶら下がり」における「~じゃないでしょうか」という言い回しを確認したところ、13回もあった。一度耳に残ると、そのあとずっと気になる言い回しだ。他に、「~じゃないですか」が2回ある。
 「~じゃないでしょうか」というぼかしたような表現を首相が記者会見で多用するというのは、不自然に思える。なぜ自分が責任をもって、はっきりと言い切らないのだろうか、と。なぜ首相なのに、相手にお伺いを立てるような言い方をするのだろう、と。

 次に、志高塾の中高生が取り組む意見作文用の教材である佐藤雅彦著『毎月新聞』の1話目(1話あたり1500字前後で約50話掲載されている)「じゃないですか禁止令」からも同様に。

 4年程前のことになるが、会社に事務のアルバイトにきていた大学生の女の子がいた。その女の子が来てまもないある日のことであった。僕の机の上には、仕事で使うために、外国の珍しいパッケージのお菓子やプレミアムがたくさん散らばっていた。
それを見かけたその女の子は、こう言った。「これ余ってたらもらっていいですか。ほら、私たち学生って、こういうレアものに弱いじゃないですか」僕は思わず言葉につまった。「え、弱いじゃないですかって、そんなこと知らないよ……」これが、僕が体験した「じゃないですか」の始まりであった。
(中略)
 学生を中心に始まったこの言葉使いは、まず若い社員に拡がった。「こういう仕事って、手間がかかるじゃないですか」一般論とせず、なぜ自分はめんどくさいと言えないのか。「こう暑いと出かけるのいやじゃないですか」なぜ、得意先に行くのが自分はイヤと言わないのか。その内に、この言い方は中高年層にまで拡がってきた。「こういう案は上に通すのが難しいじゃないですか」なぜ、自分は上に通す自信がないと言えないのか。今や、言葉使いのお手本となってほしいアナウンサーやキャスターまでもがこう言っている。「不景気って政治が悪いからっていわれるじゃないですか」ニュース番組の中で同意を求めてどうするの。
 当「毎月新聞」の編集長として私は、この「じゃないですか」隆盛の状況を看過するわけにはいかず、多少の誤解を恐れず、ここにその禁止を訴えるものであります。

 『毎月新聞』が出版されたのは2003年である。18年後の現在「じゃないですか」は政治のトップである首相にまで拡がっているが、おそらく10年前には既にそのようになっていたのではないだろうか。
 もし、『毎月新聞』を教材に使っていなかったら、あのネット記事を見ても、私自身に特別の引っ掛かりはなかったはずだ。生徒達には「ふーん」、「自分とは関係ない」、「どうでもいい」で終わらせずに、「なぜ?」、「自分なら?」、「もっと良い方法はないだろうか?」という思考のスイッチが入るようになって欲しい。就任前後に菅首相に期待している旨のことをこのブログで述べた。官房長官時代は表情も声も冷たい印象であった。首相を守る立場から仮面を被っていたのだろうが、それを取ったらどうなったか。温かいではなく弱いになってしまった。約8年間、官房長官として安倍元首相の仕事を間近で見ていたのに、「自分なら?」という問いを立てていなかったのだ。ちょうど日本学術会議への任命拒否がニュースで取り沙汰されていた頃だろうか、あるコメンテーターが「菅さんは実務型で、安倍さんと違って大きな絵を描けない」という2人の違いを分析していた。「美しい国、日本」が良いとは思わないが、「自助、共助、公助」はいかにも説明的過ぎる。そう考えると、「最短の遠回り」ってかなりイケてる気がしてきた。
 身の回りには考える材料がゴロゴロ転がっている。それをまずは手に取ってみる。それがスイッチを入れるということである。ちなみに、「じゃないですか禁止令」という文章を読んで、生徒は次のような課題に取り組む。「禁止する言葉を一つ挙げ、それを禁止する理由や、それによって、何が変わるのかなど、がよく分かるように四百字程度で作文をしなさい」この教材を通して、スイッチの入れ方を頭に、体に覚え込ませるのだ。私がよく口にすることがある。作文は書き上げて終わりではなく、書き上げたところからがスタートなのだ、と。先の例で言えば、禁止する言葉として、自分が使っていたものを挙げたのなら実際に使わないようにする。そして、何がどう変わるかを観察する。それが志高塾における意見作文だ。
 今回、『毎月新聞』にある「お客さん、これ最後のひとつですよの法則」を読んで、「『お客さん、これ最後のひとつですよ』と言われることで筆者は本来買おうと思っていなかったものを買ってしまうことがあります。このように人の行動を変えさせる効果のある言葉を考え、なぜ変わるのか、それによってどのような効果があるのか、などが分かるように四百字程度で作文をしなさい。ただし、この文章にある、物の売り買いとは別の事柄について書きなさい」に取り組んだ生徒との添削の際のやり取りを中心に書く予定だった。
 このブログはもう少しで500を数える。未だに、目的地と全然違うところに着地することがほとんどである。以前、どこかで陶磁器の作り方についての話を聞いた。表面に塗った釉薬(ゆうやく)がどのような模様を形作るかは焼いてみないと分からない、と。窯を開けるときのようなワクワク感をまだまだ味わえそうである。

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