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2020.12.01Vol.473 ゼロから考えるか、さもなくば、消化し再構築するか

 古本屋で買取査定をしてもらっている間、当てもなくふらふらしていると元サッカー日本代表で今年現役を引退した内田篤人の『僕は自分が見たことしか信じない』が目に留まった。さわやかなイケメンでありながら熱い男。それでいて論理的。それが、私が彼に抱いているイメージであり、彼を知っている多くの人も私と大差はないはずである。有名なエピソードの1つに、代表チームにおいて周囲が本田圭佑の意見を無批判に受け入れる中、後輩でありながらそれに疑問を呈したというものがある。
 買ったわけではないので、本の中身についてではなくタイトルに関する話をしたい。「そうだよな」となった。これも、やはりミニチュア版の話。もちろんタイプA。世の中には間違えた情報が氾濫している。受験に関するものも例外ではない。たとえば、「国語で差はつかない」と言われる。情報源は誰か。大手進学塾である。では、彼らは何ゆえにそのような主張をするのか。国語を伸ばせないからだ。そのような背景があるにも関わらず、お母さんたちの間ではそれが実しやかにささやかれる。ささやかれる程度あれば問題はないが、かなり大声であたかも真実のごとく語られる。お母さんたちを敵に回すと怖いので、これぐらいにしておこう。それがいかに間違えているかをこのブログでも何度か説明したので今回は割愛するが、裏を返せば国語で差をつけられればかなり有利になるということである。
 「自分が見たことしか信じない」と言うのと「人の言うことを信じない」というのはイコールではない。私にとってそれは順番の問題なのだ。自分で見て、聞いて、それらを元にして自分の頭で考える前に、外から情報を入れてしまうと適切な判断ができなくなりそうで怖い。軸がしっかりしている人は、順序を逆転させてもぶれることがないのであろうが、私にそんな芸当はできない。国語の記述問題の丸付けをするときも、まず生徒の答えを見て、自分の頭で考えたことを元に生徒と一通りやり取りし、最後に模範解答をチェックする。先に解答を見てしまうと、生徒の答えを丸ごと受け止めることなく、差異にばかり目が行ってしまうからだ。自己完結するのであれば問題はないが、私は少なからずメッセージを発する立場にある。上のような丸付けぐらいであれば大したことはないが、子供たちに何かを伝えるとき、大事なことになればなるほどより心の深い部分に響かせる必要がある。借り物の言葉でどうやってそのようなことができようか。心の奥の方まで届けたは良いが、実は伝えた内容自体間違えていました、では話にならない。立派な人の言葉だからと盲目的に信じるよりかは、自分の頭で考えたことの方が間違う可能性は下げられるはずである。彼らは私が想像できない領域で思考していることがあるが、私自身は自分の手の届く範囲でそれを行っているため意見を組み立てる過程のどこかに論理矛盾などがあれば気づけるのだ。
 先週のブログを書いた後、実際に読んでみたくなり「ワークマン式『しない』経営」を購入した。本日2度目の「そうだよな」。あまりにもたくさん共感するポイントがあったが、ここでは2つだけ紹介する。まず1つ目。

 人を大切にするという意味で「人材」を「人財」と表記する会社もある。気持ちはわかるが、根本的な改革にはつながらない。

奇しくも、私は2週間前に「『人材部門』を『人財部門』と看板の書き換えを行えば、人を大切にするようになるわけではないのと同様である。」と書いている。盗作疑惑を掛けられそうなぐらい類似している。今となっては、これが自分自身で考えたことなのか、それとも本か何かで読んで自分の頭の中にしまったものなのか定かではない。ただ、何かを改善する必要に迫られとき、自分の頭の中にあるいくつかの引き出しを開けるのだが、その1つがこれである。そして、「やっぱり表面的なものではアカンよな。抜本的な対策を打つにはどうする?」と自分へ真っ直ぐな質問を投げかける。次に2つ目。

 無理な期限を設定すると、締切を守ること自体が目的化し、仕事の質が下がる。期限までにできないとわかると、「達成しないと評価が下がる」「達成しないと恥をかく」など保身やメンツのために、仕事の質をおとしてやりとげたことにしてしまうケースが多い。

月間報告は各生徒の責任者が作成し、西宮北口校のものはすべて私がチェックし、必要であれば修正をお願いする。提出期限を設けているのだが、2年ぐらい前だっただろうか、それが守られないことが常態化していた。決して無理な期限設定ではなかったのだが、とにかくそのようになっていた。それに対してペナルティを課そうか、何字以上(元々字数が決まっているわけではなかった)という縛りを設けようかなど、どうでもいい考えが浮かんでは消えを繰り返したが、期限内に字数の条件だけ満たした適当なものを出されても意味がないのでその方向で考えるのを止めた。今、その問題はほぼ解決した。具体策を講じたわけではなく、優秀な人が増えた結果、余裕を持って仕上げる人が大勢を占めるようになったからだ。余裕を持っていい加減な仕事をする人は少ないので、質も向上している。上のような言葉に出会うと、あのときの自分の判断は間違えてなかったのだ、と安心できる。
 最後に、もう1つ紹介して終わりとする。上の本と並行して須賀しのぶ著『革命前夜』を読んでいる。ベルリンの壁があった時代に東ドイツに音楽留学したピアニストの話である。主人公が、教会で聴いたバッハを弾くある女性のオルガンの演奏に魅了され、真似をするもののうまく行かなかった後の場面である。

 失敗して当然だ、僕はただ彼女の音をトレースしようとしただけなのだから。そんなもの、似合わない洋服をむりやり身につけているようなものだ。僕はお気に入りの服を着て満足かもしれないが、外から見ればひどく滑稽に映るに決まっている。
(中略)
 ならば、あの銀の音を今度は自分のものにしなくては。消化して、再構築するのだ。

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