
2020.09.01Vol.461 2つの目
「戦国三英傑の中で誰が好きか?」と問われれば、若い頃であれば間違いなく織田信長か豊臣秀吉の2択であった。それは、徳川家康を消去して残された選択肢である。「徳川家康ってかっこ良くない」というのは変わらないが、この5年、10年で「徳川家康ってすごいな」となったので、今ならその日の気分によっては「家康」と答える日もあるかもしれない。関ヶ原の戦いは60歳目前であり、それまでいつ来るか分からないチャンスをじっと待ち続けていたのだ。菅官房長官が総裁選に出馬表明というニュースに触れて「なんか徳川家康っぽい」と感じたので、冒頭にこの話題を持ってきた。調べていないから分からないが、最高齢の初出馬ではなかろうか。どこかたぬきにも似ているような。
こんな風貌なので私が「しゅんちゃん」と呼ばれているのに違和感を覚える人は少なくないのだろうが、誰がどう思おうが、私の小さい頃を知っている人にはとっては紛れもなく「しゅんちゃん」なのだ。西宮で生まれ、年少の1年間だけ夙川の幼稚園に通い、その後年中から1年生までの3年間を千葉の成田で過ごして、大阪の箕面に帰って来た。通園したのは1年間だけなのだが、兄に付いて毎日片道30分以上かけて歩いて行っていたため、入園前からかわいがってもらっていたらしい。私の担任だった先生が最近亡くなられて、偲ぶ会が行われるとのことで、ずっと年賀状のやり取りをしていた母の元にもその案内が来た。その件で、母が50代の娘さんと電話でやり取りした際に、その先生が「しゅんちゃん、しゅんちゃん」とよく話していたということを教えてくださった、とのこと。こんな容貌なので誰も信じないかもしれないが、当時、何だかよく分からないファッションショーに私は年少組の代表で出た。ランウェイを颯爽と歩くこともなく、母と離れて寂しかった私は控室で泣きじゃくったので、ロビンフッドの恰好をして目を腫らしながら舞台上で立ち尽くしている写真だけが残っている。その娘さんはその際にお手伝いに来られていたため、一度だけ私を見たことがあるとのこと。だらだらと説明をしたが、母が西宮で塾をしていることを伝えると、HPをご覧になられて「あのしゅんちゃんが立派になって」ということになったらしい。立派かどうかはさておき、そういう風に誰かがどこかで見てくれているって、すごく大事なことなのだと思う。エネルギーになるから。志高塾では1人1人の生徒にスポットライトをきちんと当ててあげたい。煌々と照らし続ける必要などない。「誰かが自分を照らしてくれている」とふとしたタイミングで実感できることが重要なのだ。
先日、15年ぶりぐらいに野球をした。三男がこれまでのサッカーに加えて野球チームに入ったからだ。妻から見に行ってあげたら、と言われて、小学校時代に使っていたグローブを持参して意気揚々と練習に参加した。挨拶を済ませて、全体練習とは別に、グラウンドの端の方で行っていたノックのお手伝い、分かりやすく言えば球拾いをして、ウォーミングアップ完了。その後、チームのOBである20歳前後の男の子たちだけでやっていた楽しそうな守備練習に混ぜてもらい15分ぐらい休むことなく走って取って投げて、を繰り返した。そして、三男の練習を全く見ることもなく私は一人満足しながら家路に着いた。その数日後、長男と二男のサッカーを見に行った妻が、2人とも時間前に着いて、周りの子達がシュート練習をしているにも関わらずその輪に加わっていなかったので帰宅後、「お父さんみたいにもっと図々しく入っていったら」と話していた。2人は自分が下手なので、うまい子達のところに入っていくことに気後れしていたのだ。それを聞いて、大学生の頃に1人でスペイン旅行をしたときのことを思い出した。現地の子達がバスケットをしていたので仲間に入れてもらった。そのときも「一緒にやりたい」と思ったところから声を掛けるまでにそれなりの逡巡があった。私の中の1つの基準は人に迷惑をかけるか否かであり、かけないのであれば自分のやりたいことをやろう、となる。だからと言って、能天気なわけではないのでいつも葛藤はある。昔はガキ大将として、今は先生や親として、「ほんまはこうしたいけど(こうせなアカンと言うのは分かってるけど)そうするには勇気がいるし、でも、自分の心の中を誰かに見られたら、日頃偉そうにしてんのにそんなちっちゃなこと考えてるんや、ださっ、ってなるようなぁ」と同じところを何度も行ったり来たりして、ようやく「よしっ」となる。もちろん、自分の中でこっそりなかったことにすることもままある。
親御様が「分からなければ聞けばいいのに、質問をせずにそのまま帰って来ちゃうんですよ。もったいない」と漏らすことがある。親としてその気持ちはよく分かる。でも、聞くってそんな簡単なことではなくそれなりに勇気がいるのだ。だからこそ、志高塾をその練習をする場にしてあげたい。聞きやすい状況を作り、それまで聞けなかったことを聞けたら「よく聞いたやん」と褒めてあげる。逆に、聞かずにそのままにしたことがあったら「俺この前、分からんことがあったら聞くように言ったのに何も聞かんかったよな。それで分からへんってどういうことやねん」と怒ってあげないといけない。そういうことを繰り返しながら、聞くことが自分にとってプラスになるという経験を積ませてあげることが必要なのだ。
誰かが見てくれていること、誰かに見られているかもしれないこと、それらは優しく、強く背中を押してくれる。だから、私は生徒にもそれを押し売りするのだ。