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2020.08.11Vol.458 もう1つのちょうどいい

 前回、もう1つの、それでいて最も重要な「ちょうどいい」に触れるのを忘れていた。それは、私が長時間勉強できなかったことと関係している。こういう話をすれば「要領が良かったんですね」という言葉をいただくことがあるが、生来そんな能力が備わっていたわけではない。
 結果と過程における「質×量」の相関関係は強い。両方の値が大きいに越したことはないが、私の場合「量」はどうにもならなかったので、「質」を上げるための手を打つ以外に方法がなかった。それゆえ悪くない程度に要領が良くなった、それだけのことである。これに関してもう1つポイントとなるのは、目標設定である。目標を達成するには、「質×量」の最低ラインを決めなければならない。それを100とした場合、10×10が一番バランスが良いのだが、私は量が8程度であったので必然的に質を12.5以上にしなければならなかった。ちなみに、この質や量の「10」という値は、相対的なものではなく絶対的なもの、つまり各人にとってのものだとイメージしていただきたい。設定さえ間違えなければ誰でもその積を100以上にすることは可能なのだが、残念ながら世の中の少なくない人がスタートの時点でつまずいている。意味も無く高く設定していたり、逆に必要以上に低く見積もっていたりする。なぜそういうことが起こるかと言えば、我々のような子供を指導する立場にありながら「その子をどうにかしてあげたい」という気持ちが無いからである。私の場合、期待の分を上乗せして100より心持ち高めにする。
 「それぐらいできるやろ」、「それぐらいやれ」と怒ることは少なくない。言い過ぎたかな、と後から反省することがないわけではないが、大抵は「俺はきちんと見極めたうえで、どれぐらいできるかを判断しているのでこれでいいんだ」と自己弁護する。でも、念のために「本当に、ちゃんと見極められてるのか?」ともう1回ぐらい確認する。結局正解なんて分からないので、大抵は「俺は間違えていない」で終わる。何がきっかけか、先日「自己満足、ってなんでマイナスの意味でばかりで使われるのだろう?」と考えていた。先の「自己弁護」も同様である。「自己満足」も「自己弁護」も最低限の「自己反省」とセットになった上で、それが誰かのために、我々で言えば、生徒たちのためになっていれば大いに結構である。という、これまた自己弁護。
 最近、なぜだか生徒と一対一で話すことが多い。めちゃくちゃ説教することもあれば、ただただ諭すだけのこともある。大抵は「〇〇君(〇〇さん)、ちょっと来て、話があるから。あっ、そこ閉めといてね」から始まる。生徒からしたら、閉じられた空間で私と向き合うことになるのだ。中学生以上であれば何とも思わないが、小学生だと「俺に呼びつけられて2人で話をさせられるって辛いやろなぁ」と心から同情してしまう。夏期講習の直前、5年生の男の子がそのような憂き目にあわされた。進学塾の宿題をこなす上で、お母様が勉強を教えられるのだが一緒にするのを嫌がり、かつ自分でやるわけでもないので、「夏期講習中だけ、算数を見て欲しい」と志高塾にお鉢が回ってきた。しかし、それすらも本人が敬遠したので密室行きに。まず、中学入試をするかどうかの意思確認から行った。ちなみに、「意思」と「意志」は、意味はさほど変わらないのだが、後者の方がより強い思いが込められている。「中学入試をする意思がある」であれば「中学入試をしようと考えている」となり、「意志」であれば「絶対に中学入試をする」となる。5年生なので、何もそこまで強く思っている必要はないので「意思確認」とした。
 「あの子が自ら~って言ったのに」。特に小学生であれば親の希望を大いに汲み取って発せられた場合が多いにも関わらず、言質として取られていることが往々にしてある。かなりきつい表現を用いたが、親御様を否定しているわけではなく、親子ってそういうものなのだろう。小学生が一人で判断できるだけの材料など持ち得ていないので、親がある程度は導いてあげないといけない。私の役割は、その間に入って親子のベクトルの向きが揃うようにすることである。親御様の意に添うように、子供の首を縦に振らせるだけではなく、必要であれば、親御様に生徒の方に少し寄せて欲しいとお願いすることもある。そうすることが良い結果に結びつくと考えてのことだ。先の5年生からは中学入試をしようという意思は感じ取れたので、「入試をするのであれば、お母さんとの勉強は嫌、自分でもしません、ではお母さんは納得しない。この夏は志高塾でやって、その上で、その後自分にとってどれが良いかを選びなさい」と伝えた。「質×量」の話題のときにこの話を持ってきたのは、何かを選ぶ点において共通しているからだ。ある目標を設定したとき、あれも嫌、これも嫌は通用しない。この件には後日談がある。スケジュールを一度立てた後に、再度3回分の授業の追加を依頼された。彼の志高塾での授業、その他の習い事を考慮した上で、挙げられた3日の候補のうち私の方で勝手に1日削った。そして、「お母さんから3日分の追加の話が来たけど、大変そうなので1日減らして、俺はこの2日間だけ追加してはどうかと考えてる。このことに関して、お母さんにあなたの口からどうするかを伝えなさい。ただ、こういうときに『ぜんぶ嫌』とするのではなく、『こっちはやるけど、こっちはなしでいい?』という風に話を進めないとうまくいかないよ」とアドバイスをした。結果的に2日共に来ることになった。これが「ちょうどいい」と関係している。
 中学受験生と大学受験生の勉強時間は中身、その意味するところが異なる。仮に夏休み中のそれを1日8時間とする。まず睡眠時間に差があるので、起きている時間に対する割合が違う。また、小学生の場合はそのほとんどが進学塾の授業と宿題で占められているのに対して、高校生の場合は自習の割合が高い。与えられたものをこなすだけで物事ができるようになるには、プログラムが綿密に組まれている必要がある。たとえば、オリンピックの水泳で金メダルを目指すようなレベルの選手であれば、専属コーチが付き、栄養管理などもしてもらえるが、集団授業でそのようなことは期待できるはずがない。それにも関わらず、「苦しくても与えられたものをこなしていればそのうちにできるようになる」ということを信じ込まされる。こういうときこそ、量をこなせなかった「ちょうどいい」私の出番である。まず、やらされる勉強を6時間に削り2時間余らせる。そして、そのうちの1時間は弱点補強に活用するように促し、浮いた1時間は睡眠時間に充てようが、体を動かそうが何でもいい。同じ8時間でも6時間に自主的な2時間を積み上げる場合、6時間の密度自体が濃くなり、2時間は当然のことながら充実したものになる。そういう時間の使い方をさせてあげたい。
 前回短かった分、今回はよく頑張った。さっ、次もやるぞー。ねっ、自己満足も捨てたもんじゃないでしょ?

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