
2020.08.04Vol.457 ちょうどいい
夏限定の父塾。体験授業の生徒も入塾となり、順調に2週目に突入した。前回「恐怖との闘い」というサブタイトルを付けた。これまで私は勉強を教えることを意識的に避けてきたのだが、一方で身の回りのことなどを題材にできる限りいろいろな話はしてきた。子供たちは嫌がることなく耳を傾け、逆に彼らは仕入れた知識を元に私にクイズなどを出してくる。もし、勉強を無理やりさせる父というイメージが我が子の中にできあがってしまえば、その貴重な機会が奪われてしまうかもしれない。そのことも私にとっては怖い。各々が自分なりの価値観を作り上げるための基礎は築いてあげたいからだ。視野を広くし、柔軟な思考ができるようになるためにたくさん話をしてあげる必要があるのだ。先週4日間、今週2日間の計6日間しか行っていないのでこの時点で評価を下すのは拙速ではあるが、親子でも意外と楽しくやれるもんだな、というのが現時点での感想である。
前回、書き始める前の段階で頭の中にあって、文章に入れ込もうとしたもののうまく収められず結果的に削ることになったことがある。今回はそれに焦点を当てて話を展開して行く。
漫才コンビ『相席スタート』の山﨑ケイが「ちょうどいいブス」を売りにしている。それになぞらえると私は2つの点において「ちょうどいい」。本来であれば「ブス」の置き換えとして、何かしらマイナスの言葉を充てなければならない。それゆえ、試行錯誤していた先週の時点では「ちょうどいいできの悪さ」などとしていたのだが、無理にそうするよりは何もない方が自然だと考え、1週間寝かせた結果このようになった。もし、生徒が作文で「ちょうどいい」で止めていたら、添削の際にはそこのところを確認することになる。私同様に意図的にしていたのであれば「それならオッケー」となるし、そうでなければ「感覚的に書くのではなく、もっと細かいところに気を配りなさい」という指摘をすることになる。作文において、そういう部分まで神経を使えない人が読み手を納得させる論理的な意見を述べられることはないからだ。
1点目の「ちょうどいい」について。勉強で苦労している生徒の気持ちが分からないほどに勉強ができることはなかったし、ある程度のことであればかみくだいて説明できないほどできないこともない。どこからどう見ても、教える者として「ちょうどいい」。できずに苦しんでいることには寄り添おうとはするが、その状況から抜け出そうと工夫しないのは理解しがたい。たとえそうであったとしても見捨てることはない。工夫することの意義を説明し、どのようにすればいいかのヒントなどを与えてあげるのが私の役割である。こういうとき決まって「これは勉強だけの話ではない」という言葉を添える。
話は変わる。先日、電話であるお母様から「夏期講習期間中、先生はどの時間帯教室におられますか?」と尋ねられ、「仕事人間なので朝から晩までいつでもおります」と答えてみたところ、お迎えに来られていたお母様がそれを聞いて玄関先でふきだしていた。嘘をついてしまったので「夕方ぐらいまで、いや、昼の早い時間帯の方が確実かもしれません」とすかさず訂正した。これが2つ目。私は雇い主として「ちょうどいい」。もし、私自身が猛烈に仕事をする人であれば社員にもそれを求めたような気がする。しかし、まったく持ってそんなことはないので、どうすれば拘束時間を短くしてあげられるか、ということを私はよく考える。当然のことながら仕事をしなくていいと言っているわけではない。それでは生徒たちの未来を明るくすることはできないし、親御様の期待に応えられないからだ。勉強も仕事も時間ではない。結果を出すために何をどのようにするかを考えることが大事なのだ。時間を短くしたいのであればその分工夫をするしかなく、工夫ができないのであればその分時間は長くなる。時間で仕事をする人は、やる前から「頑張ったけど結果は出ませんでした」という言い訳を用意しているような気がして嫌なのだ。
いつもより短いのでもう少し何か付け足そうとしたのだが、うまく頭が働かなかった。今回はこの長さが「ちょうどいい」ということなのだろう、きっと。