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2020.07.14Vol.454 灘を目指すということ

 本人の気分が乗らないという理由で2週連続休みになった。これまでにもそういうことは何度かあった。それに関するお母様とのメールのやり取りの中で「この時点でこれだけごたごたするということは受験が近づくと間違いなくもっとそうなります。彼にとって国語はとても重要ですが、このような状態なのであれば余計なストレスをため込まないためにもやめることをお勧めします」という私の考えを明確にお伝えした。ご両親が通わせ続けたいと思ってくださっていることもあり、お父様が何度か話をされて説得し、継続ということになった。  
 彼は、大手塾とは別に算数を個別で習っているのだが、その先生に成績表を見せると「国語の成績が悪いですね」と言われた、とお母様が教えてくださった。それを聞いてイラっとした。我々が結果を出せていないことを責められたからではない。灘を目指す子によくあるように彼も算数がよくできて、もちろん好きでもある。だから、その先生の言葉に素直に耳を傾けるはずなのだ。それであれば「得意な算数で周りの友達に負けたくないのも分かる。でもな、少し算数と国語のバランスが悪すぎるから今は国語にもっと力を入れるべきだ。ある程度改善されたらセーブしていた算数は俺がどうにかしてやるから任せておけ」というようなことを伝えてあげるのが、信頼されている先生として果たすべき役割ではないのか。「もしも、私であれば」という仮定の話で、偉そうなことを言うことは基本的にインチキだと思っている。しかし、この件に関しては断言できる。逆の立場であれば、私は間違いなく上のように諭す。その結果、灘に合格したものの我々が教えていた国語は思っていたように点数が取れず、逆に算数が大きく伸びたとする。親御様も子供自身も算数を教えてくれた先生に「先生のおかげで合格できました」と感謝をする。誰だって評価されたい。それはそうなのだが、そんなことよりも「俺はやるべきことをやった」と心から自分自身が思える方がよほど大事である。仮に、算数の方に力を入れないといけないことが明らかなのに、自分が関わっている国語に重きを置かせ続け、国語は高得点を取ったものの算数が大きく足を引っ張って不合格になったとする。と書いていたら、「未必の故意」という言葉が思い浮かんだ。少々大げさな感じはするが、当たらずとも遠からずといったところであろうか。
 彼が、我々の授業に乗り気にならない理由として「志高塾では(漫画の中のセリフ、文中の言葉を引用することは許されず)いちいち言い換えをさせられるが、灘の試験ではそんなことは求められない」と考えていることがあった。そのように漏らしていたということを教えていただいたこともあり、復帰後最初の授業では、時間を計らずに灘の2日目の大問の1問目(随筆文)を解いてもらった。設問の1つで、物書きの筆者が仕事場を取材させて欲しいとお願いされ、机の周りが片付けられていないため「鶴の恩返しの機織り場みたいなものですから」と断っている部分の、「鶴の恩返しの機織り場」が何を意味しているかを尋ねられた。「人に見られてはいけない仕事場」というようなことが書ければ正解となる。本文に「人に見られてはいけない」という言葉があるわけではない。彼はこの問題に限らず、本文の言葉を抜き出しに近い形で用いて5点の記述問題で良くて1, 2点しかもらえない解答を連発していた。そこからは残りの時間を使って話をした。問題を解かせてその後に話をします、という一連の流れについては事前にお母様にお伝えしていた。
 本文の言葉をそのまま使えないということは分かったやろ。知っての通り、灘の1日目は80点で、40点が知識、残りの40点が読解になっている。1日目の読解問題はほぼ抜き出しでいけるけど、2日目の120点分に関しては、それではまったく通用しない。2日目が解ける奴は1日目の読解問題も解ける。塾の先生は、受験は1点勝負やから1日目の知識問題40点分の勉強をコツコツやれ、というようなことを言ってるはずやけど、そのメッセージは間違えている。(これは時々私が話すことなのだが)それほど勉強しなくても40点中25点はぐらいは取れる。逆に、残りの5点(35点を40点にするため)を埋めることは相当難しい。25~35の10点分しか幅がないのに、それを40点と実際より大きく見せているに過ぎない(このことは話し忘れたが、覚えたことわざなどがその後も役立つのであればいいのだが、受験後半年もすればきれいさっぱり忘れてしまうようなものが多く含まれている)。伸びしろがないところに必要以上にエネルギーを注がせて、肝になる記述問題に力を入れないというのはありえない。国語では差がつかない、と塾の先生は言うが、最高得点と合格者平均点を比べても毎年30点前後の開きがあるのだから、そんなことはない。また、塾の先生は何かあれば算数と理科、と言うけど、灘は算数と国語が200点で理科が100点なのだから、理科が国語に優先されるはずがない。国語を疎かにしていると、得意の算数で点を取らな、という力みが焦りを生んで実力を発揮できない、ということも起こり得る。このようにここで国語を学ぶことは入試にも役立つけどそれだけではない。(灘から東大医学部に進んだ元生徒の孫正義育英財団のHPに掲載されている情報をプリントアウトして読ませた上で)その彼は9年間通っていたが、言葉を使って考えることを楽しんでいた。国語は相当できたから高校時代にテストで勝負をしたら俺は絶対にボロ負けをしたけど、作文の添削をしているときは俺の話をよく聞いていた(謙虚になるということは、「この人はアカン」と見下さないため、いろいろな人から学びを得られるようになる、という意味があるのだろう。きっと)。彼が人の悪口を言っていることを聞いたことがない。その子のそういうところがすごいのだ。逆の立場やったら「俺の方が勉強できるのに」ってなるけど、そうならへんところがすごいよな、と思いながら教えていた。俺はもっと低いレベルで偉そうにしていたけど、灘という特別な学校を目指すのであればもっとどっしりと構えていて欲しい。昔、あなたと同じように上に2人お姉ちゃんがいて灘に合格した子がいる。お姉ちゃんたちは学歴で言えば全然灘に匹敵するレベルじゃなかったけど、そのお母さんが(まだ灘に合格する前に)「お姉ちゃん(次女)は水泳が得意だからそれを頑張ってる。あなたはたまたま勉強ができるから勉強をするのは当たり前で、何も偉そうにすることなんてない」と話しています、と教えてくれたことがあって、その話がすごく印象に残ってる。また、あなたも名前を聞いたことがある塾の先輩である現在中3の灘に通っている子(合格点プラス50点以上だったので、おそらく十何番で合格しているとのこと)は、早い段階で完成していたこともあって、6年生の前半は読解問題を全くせずに、意見を書く作文ばかりをしていたけど楽しそうに取り組んでいた。
 大体、上のようなことを話した。個別の指導ですら四苦八苦しているので集団なんてもっての他なのだが、それでも、である。もし、もしもそんな場違いのところに私が立ったとすれば「お前ら、2日目の国語で点数を取れるような勉強をするんやぞ。そうでなきゃ、国語の勉強がもっとおもろなくなるぞ。安易に抜き出したりせずに自分の言葉で記述をする練習をするんや。そのやり方で残念ながらできるようにならへんかった奴に限って、直前の2, 3か月で、1日目の国語に重心を移して、かつ少しでも2日目で得点できるように導いてやる」ってインチキ国語先生は語るだろうな。これも仮定の話だが、間違っても「灘のテストは抜き出しでいける」などという勘違いは絶対に起こさないような言葉がけをする。
 ちなみに、話の冒頭で「次に同じようなことがあれば、今度は(勧めるのではなく)俺の方から塾をやめてもらう」ということを本人に明確に伝えた。灘と言うのは特別な学校だと思う。だからと言って、灘を目指す生徒を特別扱いするわけではない。元々は2人きりで面と向かって話す予定であったが、そのとき同じ空間に6年生の受験生が2人と高校生が1人いた。「他の子もいるけどいいか?」と本人の意思を確認した上で、その場で話をした。その他の6年生の刺激になればと考えたからだ。話し終わった後に、高校生の子が「熱い話やったな」と感想を漏らしていた。情熱的だ、言われることもあるがそれも完全な勘違いだ。
 最近、生徒たちとの鉄板のやり取りがある。「先生釣りばっかり行ってるやん」と突っ込まれた際に、「当たり前やろ。釣り行くために仕方なく教えてるんやから。君たちのことなんかお金にしか見えてへんからな」と答えた。それ以来、「先生、私たちのことお金にしか見えてへんねやろ」、「この先生、釣り行くために教えてるだけやから」と生徒たちが口にして「そりゃそうやん」と返すようになった。
 立派な大義名分なんていらない。人と関わるのであればその人のために何ができるのかを心を込めて考え、それを行動に移すことが大事なのだ。釣りに行くために。

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