
2020.03.24Vol.440 それ、一次情報は何ですか?
一次情報とは、自分が実際に目で見て、体験した情報のことである。
以前であれば考えられなかったことなのだが、最近はもっぱら車通勤である。5年前まではそもそも車を所有していなかったので、物理的に不可能であった。志高塾を始めるとき職住近接にしなかったのは、毎日一定の読書時間を確保するためであった。だから、購入してからも「自動運転が実用化され、車の中で読書ができるようになったらマイカー通勤にするかもな」ぐらいに考えていた。その考えが変わったのは、ポッドキャストでラジオを聞くようになり、運転中も有意義な時間を過ごせるようになったからだ。お気に入りは平日毎朝放送される『飯田浩司のOK! Cozy up!』という45分前後の番組だ。毎日コメンテーターが1人出演し、ニュースについて語る。きちんと取材をした上で意見を述べているから好きなのだ。ジャーナリストなので基本的には情報源を秘匿するが、それが信用に足るものであることが何となく伝わってくる。
話は変わるが、有働由美子がメインキャスターを務める『news zero』に出演している落合陽一の父、落合信彦のスパイ小説が好きで20代の頃はよく読んだ。ある時から新刊が出ても面白くなくなってしまったのだが、それは現場から距離が遠のいたからだ、というのが私の見立て。昔のように各国の諜報機関から直接仕入れた生きた情報ではなく、過去のものの再利用であったり、また聞きに近いものになってしまったりしたのだ、きっと。情報の鮮度が落ちると、そこから導き出されるものの質は必然的に落ちる。
もう1つ例を。司馬遼太郎のことを「史実に忠実でない」と批判する歴史学者がいる。しかし、司馬遼太郎は歴史小説家なのだ。『竜馬がゆく』の中に「まだ自分が、わかりません。しかし、まあ夢中で日をすごしておれば、いつかはわかるときが来るじゃろ、と自分で思うちょります」というセリフがある。挫折し、この先どの道を進んで行けばいいのか分からなくなった若者が「自分に何が合っているのだろう、などと余計なことを考えず、まずは目の前のことを一生懸命やってみよう」と励まされたのであれば、その言葉には意味がある。
冒頭で一次情報の辞書的意味を示した。ここではもっと広く「自分が実際に目で見て、体験した情報に“限りなく近いもの”のことである」と再定義したい。言うまでもないことだが、司馬遼太郎が坂本龍馬と直接言葉を交わしたわけではない。『竜馬がゆく』のためにできうる限りの資料を集め、3,000冊もの本を読み込み書き上げたと言われている。その情報の集合体は一次情報と見なしていいのではないだろうか。そこから竜馬の人物像を思い描き、竜馬に言わせたい言葉が紡ぎ出されているのだ。
親御様に何かしらの相談を受けたとき、私自身の意見とともにその根拠となる一次情報ができる限り伝わるようにしている。いつも言うことなのだが、私の意見を取り入れてもらうことが目的ではない。もし、私と話したことがきっかけで、私が提示したAという道とは別のBを納得して進むことに決めたのであれば、私は一つの役割を果たしたことになる。不信感を抱きながらAを行くより、そっちの方が良いに決まっている。そこでこの話が終わるわけではない。Bを順調に進んでいるかを見守り続けなければならない。もし、行き詰まればスムーズにAに移行する手助けをする、タイミングを逸してそれが難しいようであれば新たにCに当たるものを探し出す。次の出番に備えておかなければならない。
私は好き放題言っているように思われがちである。あながち間違いではない。韻を踏んでみた。ただ、一次情報の取り扱いには細心の注意を払っている。私の何よりもの情報源は生徒たちであり親御様たちである。情報をぼかしすぎると私の発言が伝わりづらくなるが、だからと言ってオープンにしすぎると「この人、聞いたこと何でもかんでもぺらぺらしゃべるな」となり、信用を失い誰も私に本音で話そうとはしなくなってしまう。それでは私は貴重な情報を得られなくなる。このように表現すると誤解されるかもしれないが、情報を引き出そうとして話をしているわけではない。お互い信頼が置ければ自ずと中身の濃い話になる。その結果のことを言っているのだ。
信頼されるには学び続けなければならない。よく学び、、、、、後に続く言葉を探してみたが、やはり「よく遊び」しか見当たらない。「よく学び」だけで十分なのだが、くっついているのでどうしようもない。生徒たちに何と言われようが、たくさん釣りをしてサッカーをし続けるしかない。学ぶためには欠かせないのだから。
来週は、教室の休みに伴い『志高く』はお休みです。城巡りの修行に出ます。