
2018.07.24Vol.359 研修レポート3部作
第1部「志高塾に通う生徒に将来どのような人材になって欲しいか」
第2部「現在の教育について」
第3部「志高塾での教え方」
20コマの研修期間中、新しく入った講師には、上の3つのレポートに取り組んでもらう。それらとは別に、『コボちゃん』など教室で使用しているテキストの作文を実際に書いてみる、という課題などもある。
第1部と第2部の順番はどちらでもいい気がするが、「志高塾での教え方」はこの位置しかない。最初の2つに正解などない。ただ、各人がそれらについて考察し、それらを踏まえた上で子供たちにどのように指導するかを考えて欲しいのだ。
夏休みに入っても夏期講習の時間割とのにらめっこは続いている。思考停止に陥っている私を救ってくれるレポートを新人の講師が提出してくれた。豊中校を開校し、生徒が偶然増えていることなどもあり、昔からお子様を通わせてくれている親御様の中には、教育の質が落ちることを心配している方もいる。ただ、私としては講師の質が明らかに上がっているという手ごたえがある。
Vol.355 「”いい”は一定以上の”うまい”を内包している」で、他の講師のものを紹介した。そこで「2,600字超である」とその字数の多さに言及した。多ければいいというものではないが、今回のものは2,800字を超えている。与えられた課題を適当にやり過ごそうとするのではなく、真摯に向き合う姿勢に喜びを覚える。では、ご堪能ください。
子どもへの教育のあり方と社会問題は強く関連しているとよく思う。
まず、日本における残業の問題について述べたい。残業が多い会社は「ブラック企業」と称されるが、強制的に夜遅くまで会社に残り様々な仕事をこなさなければならないという状態に置かれ、睡眠時間や余暇の時間が極端に削られるという人は現代社会においてかなり存在する。これに関して、前々から疑問に思っていることがあった。はたして、仕事の時間を延ばすことと業績が伸びることの間に因果関係はあるのか、という疑問である。
昨今、日本の教育は、今までの知識の詰め込みを重視するあり方への批判を元に、アクティブラーニングの導入によって、コミュニケーションや発想力を重視する形にシフトしつつある。確かに現在の教育や受験制度が特定の力のみを重視しているというのは問題であると私も考えている。
よく、学校での勉強に対して、「こんなことを学んで何になるのか」という意見を聞く。古代日本の歴史や微積、漢文などを学んで何になるのか。しかし、私は現行の知識詰め込み型の教育を全否定したいとは思わない。学校での勉強で得た知識の「内容」自体はそこまで役に立たないものもあると思う(かといって、全く役に立たないとは思っていないのだが)。ただし、私が重要だと思うのは、日々の学校での学習や受験勉強を通して、「方法論」を学べるということである。
私がこの考えに至ったのは、高校時代と浪人期の自分自身の経験がある。高校時代、私はそこまで成績が良くなかった。高校2年のときに、それでは良くないと思って真面目に勉強をしようとした。しかしそれはうまくいかなかった。なぜなら、勉強の仕方が分からなかったからだ。勉強したくても膨大な学習範囲から、まず何を勉強すべきか、どうやって学習を進めるべきかが分からなかった。また、そもそも今までほとんど勉強していなかったから、学習環境を整備することにも手こずった(というかそもそも学習環境の重要性に気づいていなかった)。その後紆余曲折あって、浪人することになったのだが、浪人時代通っていた予備校の職員からあることを教わった。それは、「どのように勉強するか」を考えることの重要性である。
大学受験では、がむしゃらに勉強することよりも、最も効率良い勉強法を探り、自分の性格を見極め、どう学習するかを計画することの方が重要だと私は考える。
受験を通して知った方法論の一つに、必ずしも成績の伸びは勉強した時間に比例するわけではない、ということがある。たとえば睡眠時間を削って朝から深夜までずっと勉強し続けることと、十分な睡眠時間や休憩時間をちゃんと取った場合では、後者の方が勉強時間そのものは少なくても、効率的に勉強できることがある。なぜなら、一つは人の集中力の持続時間には限界があること、もう一つは時間が限られているということを認識することで、気を引き締めて勉強できることがあるからだ。他の観点から言い換えてみる。たとえば、歴史の教科書を1冊通読するとする。この場合に、通読にかける時間を長くとりすぎると、中だるみして、ちゃんと読んでいると思っても、実際そこまで頭に入っていないことがある。その場合、少し時間が足りないのではないかと思うくらいで、通読にかける目標期間を設定すると、頭をより能動的に動かすことができたりする。
冒頭で残業の多さが必ずしも会社の業績の伸びと結びつかないのではないか、という疑問はここから来ている。
勉強の方法論というのは、非常に様々なものに応用可能である。大学に入ってからの勉強にも応用できるし、おそらく仕事にも使えるだろう。私は懸命に何かに取り組む力を軽視しているわけではなく、それも大事なものだとは思っているが、仕事であれば手を動かすだけでなく、頭も動かして、状況を俯瞰して考えなければ企業としての存続に影響するのではないだろうか。
いままでの経験を振り返っても、ニュースを見ていても、苦痛に耐え忍び、努力することだけが変に重視されすぎていると思うことがよくある。
私は勉強の方法論の重要性について述べたが、学校において、それを見落とした指導がなされることがある。たとえば、英語の単語を覚えるために、膨大な量の単語を10回ずつ書かせて提出させるなどである。暗記の仕方は人によって合う合わないがあって、手で書いて覚える方法を取らない生徒もいるし、そもそもすでに提出範囲の単語を暗記している生徒もいるかもしれない。また、この前ツイッターで話題になっていたのが、中学校か高校の夏休みのノートを提出する課題で、「ノートのすべてのページにおいて色がたくさん使われていて、イラストなども描かれてあって、時間をかけてきれいに書き取ってある場合はAA、地味だがびっしりと小さい字で書きとってあればA」という評価の方法を取るという指導がされていた、という話があった。英語の問題を解くノートでイラストや色を多用することは、必ずしも成績とは結びつかないのではないか。
私がこの2つの例の何を問題視しているかというと、あまりに「努力量」が重視されすぎていて、「成績を伸ばす」という観点がおろそかになっていることである。成績の伸びにつながらない努力を生徒に強要しているということである。
これと同じで、企業の業績の伸びにつながらない残業というのが、世間には存在しているのではないかと思う。他にも、日本では労働においてルールが厳しいという例はいくつも存在する。
人は無意識的にすりこまれた常識を多かれ少なかれ必ず持っているが、その刷り込みの過程で大きな影響力を持つのは教育である。教員が生徒に対して課題提出や校則などの強制力を持っているし、小学校から高校まではクラスという狭い世界の中で長い時間を過ごすため、生徒が世間一般の価値観に染められやすい。
努力や忍耐が不必要に持ち上げられているのは、少なからず教育機関の影響がある。
また、塾については、学校とは違う性質を持っているが、企業利益が絡んでくるからこそ、人々の価値観に対して、学校とはまた違った影響の与え方をしている。受験塾であれば、受験競争が激しくなるほど、塾教育の需要が増す。たとえば、大手予備校は入学難易度によって、大学にABC…とランクをつけたデータを毎年発表する。いまでは、定員割れするような入学が容易な大学を揶揄する言葉になっている「Fラン」という語は、某大手予備校が作ったものである。就職との関係などもあるであろうが、学歴至上主義の形成要因の一つに塾があるということは事実だろう。
教育が人々の価値観に与える影響が多いからこそ、現場にいる人はそれに自覚的である必要があると私は考える。そして、私が提起したもののように、さまざまな問題にテコ入れしていく際に、教育のあり方を見直すというのは、必須の作業であるとも思う。
以上が、私が考える現在の教育に対しての問題提起である。