
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.01.31Vol.47 「クリエイティブ」を問い直す(徳野)
10から20年後には日本の労働人口の約49%がAIやロボットに取って代わられる。その予測じたいはもはや「耳タコ」だ。2015年に野村総研とオックスフォード大学が共同で発表したレポートが出処だとはつい先ほど知ったのだが、それによると主にマニュアル化、パターン化が可能な職種が対象になる一方で、人間の心に関わるアートや対人コミュニケーションの領域はしばらく安泰とみなされていた。しかしながら、チャットボット型の生成AIの目覚ましい発達を鑑みると、クリエイターやカウンセラーの立場も危うくなってきた。それは学生との密なコミュニケーションを売りにしてきた個別指導の塾講師も同様だ。子どもに問題の正解をすぐに教えないよう設計された学習アプリはすでに登場しているし、他人の顔色が気になる性分の学生の中には、感情を持たないAI相手だからこそ肩の力を抜きながら勉強に集中できる子だって少なくないはずだ。今はまだ極端な話になるが、ほんの一握りの優秀なプログラマーと組織の意思決定に関わる重要人物以外は労働力として求められなくなる未来も現実味を帯びてきている。
そして、機械音痴なくせに呑気に過ごしてきた私も、『資料読解』の改訂に役立つかと思って去年の3月末に某IT企業が開催していた「ChatGPT超入門」というオンラインセミナーに参加してみた。講師役の社員さんが「ChatGPTで何ができるか」という根本から上手く使うためのコツまで丁寧に解説してくださったおかげで、食わず嫌いしていた生成AIに触るようになったのだからけっして無意味ではなかった。とは言っても、GPT3.5の当時のスペックでは学習が追い付いていなかったマニアックな漫画家やミュージシャンの経歴を述べさせて鼻で笑う程度の遊びを2週間続けてだけで終わったのだが。
しょうもない扱い方しか出来なかったのは、結局のところ私自身が自分の仕事には今後も深く関わらないだろうと決めつけていたせいだ。作文を通して生徒の考える力を養うことを目指す立場の人間が生成AIに頼るのは邪道だと考えていた節があったのだが、今年になって風向きがまた変わってきた。まず特筆すべきは、内部向けの「志高くVol.214」で紹介された「AI 経営講座 AI Business Insights 2025」を松蔭に求められる形で受講し始めたことだ。最先端の情報に触れながら他の講師や生徒のためになる提案に繋げるのはもちろんのこと、私個人が日進月歩のテクノロジーを使いこなせるようになることで仕事の能率を向上させるのが狙いである。現時点で初回のアーカイブ映像を視聴しただけではあるものの、最高学府の研究者である松尾教授だからこそのマクロな視点でセッションが展開されていたのが印象的だった。どうしても比較対象になってしまう先述のセミナーでは、開催企業が自社製品をPRしやすいよう話題を「日々の事務処理を効率化するには」という範囲に収めていた。そこの需要が世間的に増えてきているのは事実だろう。だが、ここからは松尾教授からの受け売りになるが、日本が世界デジタル競争ランキングにおいて順位を年々落として67か国中31位になっている背景には専門人材の不足の他に、DX化を進めるべき業務での労力をそもそも無駄と捉えない、もしくは多少の面倒ならアナログの力で乗り切ってしまう企業体質が大きく関わっている。(ちなみに、競争ランキングの1位はシンガポールで、我が国と同じ東アジアの韓国が6位、中国が14位である。)よって、目先の、というより手元の利便性を謳うだけでは訴求力が弱く、我が国でビジネス面ひいては技術面での成長を加速させるのは困難なままだろう。全体的な底上げのためには、AIが人間を含めた社会全体にもたらす変化、つまり将来的にどのような「価値」を生み出すかを探る過程が重要になる。
もう9年も前になるが、オランダのマウリッツハイス美術館とレンブラントハイス美術館のチームが、17世紀に活躍した国民的画家レンブラントの画風を模倣した作品をAIに生成させた。
https://wired.jp/2016/04/14/new-rembrandt-painting/
学芸員の知見を結集して「レンブラントらしさ」を巧みに視覚化させた興味深い研究プロジェクトであったのと同時に、そういった事例がニュース等で取り上げられる度に「イラストレーターはもう必要無いのではないか」という声が必ず上がる。「イラストレーター」の部分は「ライター」や「ミュージシャン」に置き換えられるので、「人間がクリエイティブな能力を身に付ける必要は無い」と主張しているようなものだ。事実、何かを形にするだけならコスト面では機械の方が断然優秀だろう。だが、不要論者の人たちに聞きたいのだが、生成AIが提示してきたアイデアや作品を本当の意味で「面白い」と感じたことがあるだろうか。例えば、フランス政府が開発支援した会話型の「ルーシー」は「牛の卵は健康に良い」などのハルシネーションを連発して話題になっている。そうやって意図せず生み出された珍回答は暇つぶしにはなる。一方で、そこでの「面白い」は「小馬鹿にできる」ということに過ぎないし、件の「ルーシー」も来年にはまともな挙動を安定させている可能性が高い。すると、国際的な知名度が高いChatGPTやGeminiのように最大公約数的なアウトプットを返してくるものしか残らなくなる。(裏を返せば、世間の常識を知る媒体としては見どころがあるとも言える。)個人的に、生徒たちにはそういった生成物を無批判に受け入れ「自分の意見」としてどこかに提出するのは止めてほしいと考えている。「楽をするのはずるいから」という根性論が理由ではない。「常識に囚われないこと」や「個性的であること」のように「その人ならではのもの」を打ち出せる人材が評価される傾向が強くなるであろう社会でより良く生き抜いてほしいからだ。自分の言葉を編み出し、単なる一般論を超えていく過程こそが「クリエイティブ」なのだと伝えていくのが、AIの時代を生きる我々講師の役割である。