2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2024.08.03Vol.30 私がいなくても、合格できるこの子に(徳野)
進学塾に通う生徒の中には、そこでの講座数について悩む人が少なからずいる。苦手教科を新たに受講するべきか、もしくは、その時点で抱えているものをどれか削るべきか相談してくれることもあるのだが、検討の対象になりやすいのは社会科に代表される暗記科目だ。その場合、生徒たちには「まずは自力でやってみて、必要なことだけ他者を頼るのが基本の姿勢だ」というメッセージを伝えるようにしている。
国立大学の文学部出身である私自身の思い出話をすると、入試の二次試験では世界史B(しみじみ懐かしい名称)を選択した。受験勉強をする上で、かつて地理歴史の教員をしていた父親に解答の添削を気軽に頼めた点ではたいへん恵まれていた。仕事後で疲れていただろうに、熱が籠ったフィードバックをしてくれていたことには感謝している。それと同時に、塾に通わずに通信教育で毎月送られてくる薄い記述対策用テキストと赤本、そして教科書だけで乗り越えたことに違いは無い。指定字数が300以上の問題が複数出されるような難易度になっても自宅で3つの教材に向き合えば事足りるのだから、マーク式の入試問題であれば、よりシンプルな勉強法で通用することになる。
予備校における社会科の講義は、公立高校の授業とは全く異質で刺激的な内容が多いので、教養を深めるのを楽しむ前提で通うことじたいには賛成だ。だが、単にテストの点数を上げるためだけに様々なコストを払うのであれば、まずは学校の授業を通して太刀打ちできるようにする方が為になる。きちんと覚えるためには、何より自分の頭を使って、教科書に載っている物事の「仕組み」を整理することに時間をかけなければならない。また、たとえ歴史研究を生業にしている中高年男性が家にいなくても、担当教員に頼めば一般的な高校生が抱くレベルの疑問点は解消できる。それに、今の時代、インターネットで公開されている良質なコンテンツも参考にすれば良い。玉石混交の情報源の中から信頼できるメディアを見極める練習にもなる。
難関校である程度の勉強量を積んできた高校生または浪人生であれば、本人の力だけで志望大学への合格を掴み取ることはけっして不可能ではない。予備校や塾に籍を置いてはいても、学生の方がそこで与えられる機会を上手く使っているに過ぎない。東京大学や京都大学といった、俗に言う「最高学府」を現実的な目標に据えている生徒たちと接していると痛感させられる。たとえ国語に苦手意識があるとしても、彼らは演習を積めば実力を然るべき基準まで勝手に伸ばしていくものなのだ。よって、指導に当たるのが私である必要性など存在しない。しかし、だからこそ、志高塾にしか提供できない価値を模索する。
現在、甲陽学院出身の浪人生(仮にT君とする)と京大の過去問を進めている。彼は現役の時はエンジンを十分にかけることができず、共通テストの時点で満足できる結果を得られなかったものの、ここ数ヶ月でだいぶ「引き締まった」印象を受けている。そんなT君と一緒に取り組んだ、ある論説文の中に「18世紀フランスの素人物理学者、トレサン伯爵が大著で論じた〈電流一元論〉は、荒唐無稽、珍妙奇天烈な議論のオンパレードだ」という批判的な記述があった。その箇所じたいに重要な意味など無いのだが、当のトレサン伯爵をT君は「貴族の馬鹿ボンボンやぁ」と鼻で笑っていた。彼の中で「貴族」とは、甘い汁を吸っている愚か者であり、フランス革命で平民身分に打倒された存在、というイメージがある様子だった。だからといって解答の質に関わっていたわけではないので、受け流して次の問題を渡した方が授業1回あたりの成果も上がる。それでも「革命の指導者層には、国王側と対立してきた貴族も含まれていた」という話をしてしまったのは、朝から晩まで予備校にいるT君に、設問を解かずとも物事を知ったり、考えたりできる時間を持ってほしかったからだ。その後は、細かい流れは忘れてしまったものの、フランスの政治制度に話題が移り、サッカークラブ「パリ・サンジェルマン」から「レアル・マドリード」に移籍した選手とマクロン大統領の確執、さらにはトランプ氏が大統領選で勝利することへの不安、という風にお互い思いついたことを、ふらふら、ぺちゃくちゃと喋り続けることになった。スポーツに疎い私は、サッカー観戦が趣味のT君から「パリ・サンジェルマン」のマネージメントについて色々教えてもらった。そして、面白いと言えば不謹慎になるが、その翌週にトランプ氏の銃撃事件が発生したので「すごいタイミングやぁ」と、またひとしきり盛り上がった。このような、ゴールが定まっていない会話を受験生に持ちかけるのは、講師の仕事としては「無駄」だと切り捨てられるかもしれない。実際、某進学塾には自身に意欲が湧かないのを理由に雑談に走る指導者もいると聞く。しかしながら、相手の「人となり」をより深く知るためであったり、教材から吸収できるものを増やしたりするためのコミュニケーションは、生徒の居場所を作る上で不可欠である。そして、最短距離で「正解」にたどり着くのに長けている生徒にこそ、知的好奇心に満ち溢れた「寄り道」や「脇道」をバランス良く示してあげたい。