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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.06.16Vol.25 偶然を選び取るということ(竹内)

 人生は選択の連続である――。浅学ゆえ、これがシェイクスピアの言葉であったとは知らなかった。今晩は何を食べようか、あの人に悩みを打ち明けるか否か、はたまた、どちらの足から靴を履こうか。何もかもに判断が下される。
 スティーブジョブズがいつも同じ服を着ていたのは、重要な意思決定に十分なエネルギーを割くためである、という話は有名だ。服装が固定されていることは一種のトレードマーク化でもあり、自分の印象を作り上げることにもなりうる。たとえそれが一瞬のことであっても、選択には労力がかかる。「選ばなかった方」に後ろ髪引かれる思いが残ることもあるので、やはりその機会自体を減らせるようにすることはある意味で精神安定剤であるといえる。
 すごく時間をかけているという自覚がある選択の瞬間は、私の場合は書店で本を買うときである。すでに積読が部屋を占拠していることが一因ではあるのだが、その一角に新たに増やすとすればどれにするのか軽々と一時間は悩めてしまう。どうせすぐには読まないしなあという気持ちと、でもせっかく面白そうなの見つけたしなあという気持ちの間で揺れながら、「今日はこれ」というのがやっと決まる。その時の自分の関心事が決め手であるのは確かだが、それと同じくらいに「書棚の中に入っていたのではなくて平積みになっていたから」とか、「その前に試し読みしていた人が逆さまに戻していたために目立っていたから」とか、実のところ偶然の状況に後押しされていることが少なくない。毎日の服だって、このアイテムを使ってみようと思うのは前日にそれを取り入れたおしゃれな人を見かけたからだったりする。そのセンスまでを吸収できているわけではない。日常生活の中には、自分の意志を強く意識したうえで行われる大きな選択ばかりでなく、ひそかに他者の影響を受けている受動的な選択があふれている。
 最近授業で扱った灘中の文章の一つに、癌治療にあたっている外科医によるエッセイがあった。これはその中からの一部抜粋。

 この一年間に、二名の再発癌の患者が、私の勧める治療法と考えがあわずに、他の医師のところへ去っていった。(中略)背景や、垣間見ることの出来た人生観などから、その患者にとって、よかれと思った治療法を提示して、説明したつもりではあった。しかし、二年以上のつきあいの中で、その患者を理解していると考えていた自分が傲慢であったのか、私はかなり悩んだ。偶然で知り合って、信頼関係を築いていくことは、相当の努力を必要とすることであった。

 ちなみに、ここでの「相当の努力」というのは医学的な知見以外で個々の患者との接点を持てるように様々な分野の知識を得ることを指している。大きな病院で、どの先生に診てもらうことになるのかは、前の診察にかかる時間や、順番待ちが前後することによって変わる。そのたまたまできた関係性は治療をすることだけで必ずしも維持されるものではなくて、数多い患者の中での自分という一人の存在を見てくれていると感じられてこそ、その相手に任せよう、となる。志高塾の一員である私にとって、ここで経験する人との出会いは「偶然」の色が濃い。数多ある塾のうち、ここに通うということには、親御様の能動的選択が大いに関与している。一方で、子どもたちにとってそれは受動的なものであることがほとんどである。また、私自身が立ち上げたわけではなく、揺るぎない理念が掲げられていたこの場所にただただ引き寄せられた一人であるという点では、豊中の入り口で出迎えているのが私であるということも「偶然」の一つに過ぎないといえる。
 さて、先ほどの文章。終盤では桶狭間の戦いを取り上げ、圧倒的な戦力差を覆すことの出来た「偶然」(住民が今川方に情報を売ったり、寝返った武将がいなかったりしたこと)について、織田信長の民政に対する努力が寄与していることに言及しており、「(幸運に)遭遇すること自体は偶然であるが、その確率を必然に近いところまで引き上げる努力が、背景にあった」とまとめている。
 生徒の人数自体に大きな変動が起きているわけではないのだが、ここ最近は豊中校で生徒同士が授業内外で交流している場面が増えてきた。もともと同級生であるといった繋がりがあれば自然とそれは発生するのだが、学校や学年の垣根を越えての接触が見られるととても嬉しい。西北校ではそのような雰囲気がすでに確立されていて、個人的には長らくそれが目標だった。学年や成績でのクラス分けなどないので、同じコマにその生徒たちが来ていることも、たまたまなのだ。その中である生徒が話していることに共鳴したり、積極的には輪に加わらないけれど何となく耳には入っていたり、しばらくすると自分の取り組みに戻っていったり…。そういうことが起こるようになってきている。
 このような「偶然」を「ここだからいたい」という「必然」に引き上げるための努力とは、我々の場合は「より良い授業をする」ことに他ならない。そしてその「良さ」とは、何かを教え導くということだけでなく、子どもたち一人一人が安心して自分らしく過ごせる場を作ることなのであろう。

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