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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.04.12Vol.20 仮説の必要性(三浦)

 何年か前にステンレス製のマグカップを買った。蓋付きで、飲み口のところだけを開けられるようになっている、何の変哲もないマグカップだ。冬には熱湯に近い温かさの飲み物を注いでは保温のために蓋をするのだが、いつも閉じた飲み口の隙間からごぽごぽと泡のようなものが溢れてくる。一体なんなのだろう、やっぱり蓋をするから中の空気が真空みたいになって圧縮されて云々、いろいろと適当な理屈を思い浮かべては不思議がり、そろそろ人に聞いてみようかなとなり始めた数回目の時点でようやく思い至った。「これ、多分湯気だ」と。
 こういった当たり前のことに気づくのは、きっと人の一回り二回り遅い。未だに記憶に残っているのは小学生の頃、校庭での全校集会のときに足元を眺め、「なんで地面って急に暗くなったり明るくなったりするんだろう」とぼんやり考えていたことだ。そうしていつだったか、「そうか、太陽が雲で隠れているんだ」と不意にひらめいたのだった。教材で扱っている『ロダンのココロ』の中に、犬のロダンが縁側を離れているうちに曇りになってしまったのだが、ロダンはそれが天気のせいだとは思わず、日向が吸い込まれたのではないかと掃除機を疑う話がある。レベルとしてはそれとあまり変わらない気もする。
 似たようなエピソードには事欠かない。例えばカップ麺の麺を食べていくとスープの水位が下がるのを、ずっと「この麺、スープを吸うのが早いんだな」と勘違いしていたり、なみなみ飲み物が注がれた氷入りのグラスを見て、「氷が解けたらかなり溢れちゃうな」と不安になっていたり、だ。周囲にツッコミを入れられるまで、つい最近までそういった誤解を重ねていた。物の道理や仕組みがまったくわかっていないのがこういうところで浮き彫りになり、そのたびに反省している。
 Vol.633、Vol.634の『志高く』で、「答えも持たずに、質問をするのはアカン」「最終的な答えとまでは行かずとも、尋ねることに対して少なからず自分なりの考えを持っている必要がある」と述べられている。授業の中でも、こちらの問いに対して間髪入れずに「わからん」「知らん」という生徒にはもう少し粘って、自分なりに何かしらを考えるように促している。「わからへんけど、多分〇〇なんちゃうかな」と言うことができれば、その〇〇が外れていようが、そうやって自分で何かひとつ予想を立てたことに大きな意味が生まれる。
 その点では、先の私の実例には意味があると言えそうだ。だが、考えるためには材料になる知識が必要である。それがなければどんな仮説も答えもただのあてずっぽうに過ぎなくなる。多角的に物事を捉えるとはよく言うが、やはりそれにも土台が欠かせない。資料読解ではSDGsにまつわる事柄を多く扱うが、「エネルギー問題をどうするか」「貧困をどうするか」などの一筋縄ではいかない問いに対して極論に走ってしまうのも、往々にして材料と検討が少ないから、そしてその上で(だからこそ、だろうか)「これが正しい」と思い込んでしまうからである。
 思い込みに関連するが、「こうした方が早いな、良いな」と下した判断がことごとく間違っていることがよくある。後から振り返れば当たり前にわかるのに、その時は全く気付かずに、間違ったやり方に凝り固まっている。それも判断材料が足りないせいだし、私の場合で言えば焦って行った判断はほとんど間違っているので、検討が空回りしているせいもあるのだろう。
 「自分で考える事」はもちろん大切である。人から聞くばかりでは、自分の中に落とし込めるかははなはだ疑問だ。しかし考えるのが「自分だけ」である場合、そこにはどうしても限界が付きまとう。それを防ぐためには自分の中にある問いや仮説を共有してはアップデートしていくことが必要であるし、その際に出てくる意見に耳を傾けることも不可欠だ。
 意味もなく長々とした文章になってしまった。これも材料の精査が甘かったせいだろう。ここで無理に書き出しの内容に戻るのであれば、何気ない気づきを共有してはツッコミを入れられるような日常の光景が大切なのだろうと、そしてその延長に作文と添削があるのだろうと、そう半ば無理やりに着地しておく。

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