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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.03.08Vol.17 みにくいしっぽ(三浦)

 まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。知らない事は、知らないと言おう。出来ない事は、出来ないと言おう。思わせ振りを捨てたならば、人生は、意外にも平坦なところらしい。磐の上に、小さい家を築こう。

 太宰治、「パンドラの匣」より引用である。つまみ食い程度にページをめくった程度で、実は恥ずかしながら通して読んだ覚えはないのだが、このフレーズは忘れまいと、仕事用のパソコンのメモアプリに常に残している。要は、戒めのようなものだ。「知らないことは知らないと言う」、「出来ないことは出来ないと言う」、それがいつまでも苦手な自分への、戒めだ。
 一昨年あたりのことだろうか。大学時代の友人と東京で会い、駅の散策がてらに本屋に寄った。最近読んだ面白い本を紹介してもらいつつ、本棚を見て回りつつ、ふと実用書棚の前でとある話題へと移り変わった。確か、「すぐにわかる〇〇」「誰でもできる〇〇の始め方」のようなタイトルの本をふと手に取ったときだったはずだ。
「これ、役立ちそうやけど、本棚に置きたくないよな」
 二人でひとしきり同調しあった。zoomか何かで背景になることもなく、誰に見せるでもないくせ、こういうところだけ無駄に立派な見栄っ張りである。「すぐにわかるものでわかったつもりになりたくない」、そういう意識が根っこにあった。
 本棚というのは、レイアウトの話ではない。「ありきたりな本を読んでいない私、いいじゃん」「難しそうな格好いい本を読んでいる私、いいじゃん」という自意識の塊なのである。しかも実際にその「難しそうな格好いい本」をちゃんと読んで血肉にしている友人とは違い、私なんかは実際に読んでいるのが半分程度なのだからどうしようもない。格好つけたいなら格好つけたいで、せめて読むべきだ。それでも、「これが本棚にあるような人間になりたいなあ」という思いで本を買ってしまうのはやめられない。
 そういった「格好つけたい」はいつまでも私の根に残っている。わからないことは何も悪いことではないと生徒に話すその口で、知ったかぶりをしてしまうこともまた事実だ。もちろん生徒と私を同列にするべきではない。私について言えば、知っているべきことを知らないというのは、これまでの怠惰を反省すべきところである。

 努めなければならぬ。十字架から、のがれようとしているのではない。自分の醜いしっぽをごまかさず、これを引きずって、歩一歩よろめきながら坂路をのぼるのだ。この坂路の果にあるものは、十字架か、天国か、それは知らない。

 再び、「パンドラの匣」よりの引用。私は太宰の文体が好きなので、いつも噛み締めるかのように読んでいる。こまかな解釈は今は置いておく。「自分の醜いしっぽをごまかさず」、自分の力の及ばないことを認めつつ、自分の非を受け入れつつ、それでも投げ出してしまうことはなく、歩き続けなければならない。醜いしっぽと言われると、確かにそうかもしれないと思う。誰にでも醜いしっぽはある。それを下手に隠そうとすることに労力を割くべきではない。
 本棚の話に戻る。最近はなりふり構っていられなくなったので、実用書も手に取るようになった。この間は数字に強くなれる、というような本をひとまず買ってみて、冒頭だけを読んで唸っている。きっと普通に数学の勉強をしたほうがいい。そうやって出来ないことに向き合うのは、何でもそつなくこなせるのだと格好つけたい自分には苦痛である。だが、思い返せば、中学生の頃は友人に点数で負けた悔しさだけを原動力に、数学の勉強をしていたこともある。そう、原動力になるのだ。「何でもそつなくこなせるようになりたい」は、願望のままであれば今のように燻ってしまうが、できない自分を受け入れれば、それは改めて目標と変わるはずだ。やみくもな努力の向こうで、ようやく胸を張って、虚勢ではない理想の自分になるべきだ。
 そんな格好つけたいだけの格好悪い自分という醜いしっぽを引きずりながら、どうにかこうにか、坂を上っていくつもりだ。ごまかさない事。これをしばらくの戒めとする。

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