2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2024.02.23Vol.15 猫型ロボットがいなくても(徳野)
先日、行きつけの美容院の店長さんが、私のうなじを剃りながら「僕、新しいビジネスを思いついたんですよ」と切り出してきた。ちなみに、この方とは学生時代からの付き合いであり、さばさばとしていながら配慮するべきところはきっちり押さえるバランスの取れた接客が心地良いので、気づけば7年近くお世話になっている。冒頭のビジネスも、店長さんの話術を「あなたはここで終わるような人間ではない」と評価する専業主婦のお客さんとの会話から生まれたものらしい。
そして、肝心のアイデアだが、この競争社会で簡単に明かせるものではない。それが理由かどうかはさておき、与えられたヒントから私が推理していく運びになった。「意志表示さえできれば誰でも参加できます」「商売の一番シンプルな形を思い浮かべてみてください」など、核心に迫らない絶妙なラインの手がかりをあれこれ示してもらったものの、私は的を外してばかりで、どんどん煮詰まっていってしまったため、最終的には『ドラえもん』の主題歌を元に正解を教えてもらった。(店長さんとの約束があるので、ここで具体的な事業内容は述べない)シャンプー中に「頭を柔らかくして~」という言葉と共に頭皮をマッサージされるほど脳が固まり切っている自分に恥ずかしくなりながらも、新鮮で充実した気分も味わっていた。60分間もしくは90分間の授業で生徒がどれだけのエネルギーを使っているかを、ほんの少しだけだろうが、身をもって知ることができたからだ。だが逆に言えば、子どもたちの感覚を掴み切れていないままやり取りに当たっていたのに加え、考えることに対して全力を出し切れていない現状を突きつけられたようなものである。石頭が出来上がるのも至極当然だ。
鍛錬が足りないと痛感している最近、小論文に取り組んでいる高2の女の子と一緒に、ある教育関連のテーマに当たっている。それは「小学校の教員A先生が、クラスで一人だけ逆上がりが出来できずに落ち込んでいる生徒Bさんのために毎日放課後に個別訓練を実施したところ、Bさんは技を見事に決められるようになった。自分事のように感激する教員であったが、Bさんは笑顔で『先生、これでもう逆上がりの練習をしなくていいんだね』と発言したのだった。」というケースから、A先生が何を学べるかを探るものだ。今まで基本的に「教えられる側」として学校生活を送ってきた生徒にとっては指導者の立場で建設的な見解を示すところに難しさがあり、子どもの感情を全面的に受け入れることも頭ごなしに否定することも避けなくてはならない。私も授業に備えて、Bさんが「もう練習しなくていいんだね」という解放感に至った原因を探っていると、ふと小学5年生の夏を思い出した。
言い訳がましいが、私は生まれつき運動全般がからきしである。(おそらく、本気の徒競走で5歳児に負ける父親からの遺伝だ)案の定、水泳をしても犬かきで5メートルが限界だったし、そんな子どもは33人の学級で私を含めて3人しかいなかった。ところが、11歳を目前に控えた7月、なぜか唐突に、泳げない自分が猛烈に許せなくなった。そして、そこからの行動は早かった。当時の小学校では放課後にプールが1時間ほど開放されていたので、ピアノのレッスンが無かった水曜以外は通い、友達と賑やかに戯れる同級生たちを横目に、観察に基づいた自己流のやり方でクロールの練習を始めた。ビート板を使ってかなりみっともない姿を晒していただろうが、3週間後には25メートルを、さらに2週間後には50メートルを余裕で完泳できるようになった。私の変化を見た先生たちは「もしかしたら市の大会に出られるかもしれないな」と評価してくれた。(その域には達しなかったが)周囲の大人に褒められたのは勿論嬉しかったものの、何より、「自分の力で目標を達成する」という経験が自信を与えてくれたのに違いはない。その事実があったからこそ、夏休み中も練習のモチベーションを維持できていた。
結局クロールしか出来るようにならなかった私など比較対象にならないかもしれないが、Bさんに必要だったのは、逆上がりを成功させるという「結果」だけでなく自分なりに頑張ってみる「過程」なのだ。クラスメイトたちに追い付くという目標設定も、放課後の特訓も、ともにA先生の意志によるものである。ただでさえ不得意な教科に対峙しているのだから他者から一方的に多大な要求されて苦痛にならない方が無理な話だ。せめて授業時間内で本人のペースで進められるよう支えてあげるべきだろう。
ここまで書いて(打って)きて気づいたが、今の私の脳みそは負荷と同時に不思議な軽やかさを感じている。一般論のレベルでの記述が求められる小論文の題材に対して、聞きかじった知識や理屈よりも有機的な「自分自身の過去」という切り口から考察を広げていけたからだろう。そういえば美容院の店長さんが『ドラえもん』を持ち出してきたのは「童心に帰れ」と伝えたかったからではないか。私は生徒の頭を物理的に揉みほぐせない。だが、机に向かいながらでも、脳内世界ではその時いる時と場所を超えた柔軟な思考の「旅」をしていくための刺激の提供者でありたい。