
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.01.25社員のビジネス書紹介⑯~『リハビリの夜』感想文~
「志高く」Vol.666で予告されていた通り、今回は社員3人ともが『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著、医学書院)を読み、以下に感想を述べています。一冊の本に対して、共通するポイントもあればそれぞれ独自の視点もあり、読書会のような面白さがありました。三者三様に読みごたえたっぷりの感想文、ぜひじっくりとご覧ください。
【三浦の感想文】
要約ではなく感想として、以下につらつらと書いていく。
ふと思い出したのは、ピアニストに対してロボットを使ったトレーニングをするという記事だった。以下にURLを貼っている。正確には、「5本の指を独立かつ高速度に動かせる『外骨格ロボット』を用いて、自力では不可能な複雑で高速度な手指の動きを体験できるトレーニング」とのことだ。結果的に、ロボットを用いた手指だけでなく、トレーニングを行っていない反対の手指にも効果が表れたという。
どうしてこれを思い出したのかと言えば、本書で筆者が取り組んでいたリハビリが、模範とされる健常者の動きをなぞらせるものだったからだ。正解の動きを模倣する行為という点では上記のロボットと共通するような、しないような。
それはさておき。いわゆる身体的多数派である私には実感としてイメージが湧きづらいかもしれない、と思って読み進めていたのだが、それは杞憂だった。とはいえ、共感したと言うべきでもないのだろう。いわば「追体験」だ。脳性まひにより常に緊張を強いられる肉体、肉体の緊張がほどけていく弛緩のプロセス、そこに介入する他者との触れ合い。それらは丁寧に描かれ、想像をするには十分だった。
リハビリをする側であるトレーナーの意識は、される側であるトレーニーの意識と混ざり合っていくという。そして読者である自分は、トレーナーとトレーニー、どちらの視点の側にも立ちながら読み進めていく。本書では身体的な関係性を中心に述べられているが、きっとそれは身体に限らない。教える側になったとき、相手の思考を追いかけるようにと意識を巡らせることは少なくない。もちろん身体的なイメージほど明確に融和するわけではないが、それでも、相手に入り込もうとする意思はそこにある。
その時、私は果たして、相手に「あそび」を許しているだろうか? この「あそび」とは本文の表現だったが、言い換えれば余白ともとれるだろう。一方的に相手の一挙手一投足を監視し、そのひとつひとつを一方的に強制しようとしていないだろうか? 筆者がリハビリの中で怯えを感じた場面である。相互に触れ合い、関係を作り出すことができなければ、怯えは緊張へと転じていく。強制的にではなく、互いにつながりを結んで初めて、意味のある関係性となるのではないだろうか。
ピアニストをトレーニングしたロボットの話題に戻る。筆者のリハビリは見よう見まねで、見本に自分の身体を合わせようとしていく(そしてそれゆえに身体の強張りは増し、目的に到達できない)作業であった。ロボットの方は外部から、「合わせようとする」力が働く。そのロボットと指先の間に、どのような関係性が生まれるのだろうか。
【徳野の感想文】
リハビリは誰のためのものかと問われて「トレイニー(訓練の受け手)」と答えない人はおそらくいないだろう。だが、著者が子どもの頃に接してきたトレイナーたちは、「トレイニーのためになる」とは「健常な動きができるように矯正してあげること」という傲慢とも言える認識の下で施術を行っていた。脳性まひと共に生きてきた著者と多数派の身体を持つトレイナーでは運動が起こるまでの過程つまり「仕組み」が全く異なっている事実が無視されていた環境で、指導者からの苛立ちの目にさらされる著者の精神は余裕を失い、関節はますますこわばっていく。まさに悪循環。
他者に身を委ねたくても自分と調和した動きをしてくれる存在を見つけるのは難しい。だからこそ、著者は主体的生活をする力を養うべく大学進学を機に一人暮らしを始めた。必要に迫られれば介助を受けたり、自宅のバリアフリー化を進めたりするのだが、恥ずかしながら私にとっては、重いハンディキャップ(この表現が適切なのかすら自信が無い)を抱える人が自活できるようになること自体が驚きだった。著者が下宿先のきわめて一般的な形のトイレに初めて「挑んだ」ときの緊迫感と無力感、そして後始末に費やしたであろう労力は文字を追うだけでも肩に圧し掛かってくるようだった。しかし、著者にとっては上手く行かないと分かった時の脱力感は「官能」になる。そこから住環境や屋外と「融和」していくための改善点を発見し、弦楽器のチューニングに喩えられるアップデートを繰り返すきっかけになるからだ。その失敗への前向きな姿勢も「自分で問題を解決していける」という自己肯定感があってこそなのだ。
同時に、他者からの支えが必要なのに変わりは無い著者は、補助者に助けを求めることの重要性にも言及している。自分の状況を把握し相手に要望を明確に伝えることも立派な能動性とみなせる。また、補助者がどう振る舞うべきか戸惑うこと自体はけっして悪いことではない。少数者に受動性を押し付ける権威的なトレイナーとは違い、自分とは全く異なる他者のペースを理解しようというまなざしがあるからだ。この著者の見解には、講師として少しだけ救われたような気持ちになった。
そして、コミュニケーション能力について気になっていることがある。本作の著者は知性溢れる繊細かつ濃密な筆致で脳性まひと共に進んできた自身の半生を振り返っている。だが、全ての少数者が著者のように言葉を扱えるわけではないのも事実だ。そういう人びとがどのようにして他者と能動的な信頼関係を築いているのか。まだまだ知らなければならないことばかりだ。
【竹内の感想文】
歩くという動作一つにおいて、股関節、ひざ、足首といった各部位がスムーズに連動してそれを可能にしている。このことからは、一つひとつに脳からの信号が送られる「縦の関係」だけではなく、筋肉同士が互いに作用しあっている「横の連携」があるといえる。この連携のことを「身体内協応構造」と呼ぶ。脳性まひである筆者の場合はそれが過剰であることが身体の不自由さに繋がっていた。ある動作を行うときの筋肉の動きには、ほとんどの人が無意識である。だからこそ過剰な緊張が体に走ると、意識的な運動が上手くできなくなってしまう。そのようなこわばりをゆるめることのできる介助が彼には必要だった。
幼少期からの数々のリハビリ経験を通じて、トレイニーである筆者はトレイナーである人間はもちろん、自分自身との身体、そして周囲に存在するモノにまで目を向け、「協応構造」を作ってきた。自分自身に対して他者がどのような反応を示すのか、自分がモノに対してどのように接地しているのか、その確認、すり合わせを何度も何度も行っていくことで自分に自由がもたらされていく。できることが生まれる。トレイナーの強引な指導でもトレイニー自身の努力でもなく、両者が一体化したり、離れたりする柔軟な関係性が障害を負った者の自立を促す。ここで注目したいのは、このような関係はおそらく双方が同時に歩み寄って確立されていくわけではないということだ。どちらか一方が先により深く相手を観察し、対応し、場を整えるからこそもう一方が応えやすくなる。そしてその先んじた動きが押しつけがましくないことがコミュニケーションを円滑にする。大人と子ども、トレイナーとトレイニー、講師と生徒のような関係性において、前者は後者をよく見ることが求められる。相手をほぐしていくためにまなざしを向けることは当然だ。しかしその時、後者も同じように前者を見ている。そのことを忘れてはいけない。親御様と面談などで話していると、子どもたちが教室での出来事を持ち帰っていることがよく分かる。自分との直接的な会話だけでなく、他の生徒や、さらには講師同士のやり取りなんかもよく聞いているし、そこから「どのような人物か」を汲み取っている。「今日はやり取りが充実したなあ」というときは、その手応えを喜ぶと共に、生徒が受け入れる姿勢を持てていたということも押さえておきたい。筆者は街中で介助を求める時、相手の目を見つめた際にその人が瞬時に見せる姿勢の変化から、その人が助けてくれるのかどうかをなんとなく推察することができる。そして実際に助けを受ける際には決してなされるがままではなく、介助者の心情をなぞりながら、どのようにしてほしいのか導いていく。
教えたり、助けたりする役割を担うと、自分が引っ張る側であるという意識が強くなる。しかし実際には相手の意思が存在し、同意も反発も起こりえる。それすらも言葉や態度にはっきりと表されないことだってある。見る者であると同時に見られる者であるという自覚によって、相手との協応構造が結ばれていくのであろう。