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2025.01.28Vol.672 勉強を通して身に付けたこと

 昨年末、5年ぶりに予備校時代の同窓会があり10人が集まった。100人ぐらいのクラスでそのうち2,30人が京大に行った、と認識していたのだが、チューター(担任)が具体的な数字を挙げながら誇らしそうに148人中66人だったと話していた。それを聞いて、「思ってたより価値があったんや」となった。と言うのも、その予備校の恒例行事で、前年度の卒業生がセンター試験を前日に控えた生徒の激励会があり、私はクラス代表に選ばれていたからだ。一番成績が優秀だった奴が断ったので、それ以外の連中で、目立つのが好きそうな私に白羽の矢が立っただけの話ではあるのだが、100人以上の前で話す機会を与えてもらえたのは貴重であった。私が所属していた京大クラスと医学部クラスの理系のトップ2クラスの合同開催で、事前に医学部クラスの方は京大医学部に進んだ真面目な奴だと聞いていたので、「センター試験の鉛筆や消しゴムのこと、時間に余裕を持って行動することなど基本的な話をするんやろうな」という想定(実際その通りであった)と「浪人生やからセンター試験を実際に体験してるし、これまでにもそういう話は幾度となく聞かされているやろうから」ということを踏まえて、「さて、何を話そうか」と考えた。また、聞く側には1年前に一緒に勉強していた2浪している仲間も数人いたので、そこには気を遣わないとな、というのもあった。当時は今以上に好き勝手やっていたのだが、もし自分が逆の立場やったらしんどいよな、という最低限の想像力を働かせるぐらいのことはさすがにできた。結局、「センター試験については既にいろいろ聞いていると思いますので、私はセンター試験後から2次試験までの話をします」といったような内容を冒頭に持って来ることにした。
 浪人生の1年間で合わせて4回受けた河合や駿台の京大模試では、威張れるような成績では無かったものの少しぐらいは余裕を持った状態でコンスタントに合格圏内にはいたので、得意では無かったセンター試験で「おおこけ」しないことだけに注意を払っていた。京大の工学部で得点としてカウントされるのは、国語、社会(私の場合は地理)、英語の3教科だけで、それぞれ150点、100点、50点に換算された。現在の共通テストとは違い当時の英語の試験は簡単であったことに加え50点に圧縮されるため、直前の1カ月は国語と地理の対策だけをして、ほとんどは2次試験の勉強に時間を費やしていた。国語に関してはそれまで200点満点中150点を超えたことは1度あったかどうかだったにも関わらず本番では過去最高の167点も取れ、地理も100点満点中88点とまずまずだったため、若干のビハインドで2次試験に臨むつもりが想定外の貯金ができた。センター試験が300点、2次試験が700点の合計1000点満点なのでその貯金などは簡単に吹っ飛ぶことは百も承知だったのだが、2次試験は失敗しない自信があったのでその瞬間合格した気分になってしまった。そこから2次試験までの1カ月は分かりやすくだらけた。午前中は普通に自習して、5人ぐらいでご飯を食べに行った後、一人だけそのまま戻らずにゲームセンターに寄ったり、予備校に戻っても自習室に上らず地下に下りて行って食堂で誰かしら友達を見つけては話したりしていた。1日の勉強時間が1, 2時間減っても学力は落ちないが、気の緩みは驚くほど本番の試験中にマイナスに作用した。それについ細かく書こうかと思ったのだが長くなりそうだったので割愛する。その結果前期は不合格になり、後期(なお、京大は2007年に後期試験を廃止した)でどうにか合格した。冒頭の話に続けて、ここで述べたような自らの失敗談を披露した上で、「皆さんはセンター試験の結果が良くても私のように気を抜かないようにしてください」ということを伝えた。
 高校、大学受験生とは違い、中学受験生はそれなりにメンタル面のケアをしてあげる必要があり、それは我々が果たすべきとても重要な役割の一つである。大学受験時の自らの情けない経験があるから、直前1カ月の一番大事な時期に「とにかくたくさん勉強して実力を付けろ」ではなく、「力を付けることはもちろん大事やけど、最後まできちんとやることで本番で力を発揮できるようになるから気を緩めずに一つひとつのことをきちんとやりなさい」というメッセージを発することができる。また、浪人生の頃でさえ最長で一日6時間ぐらいしか勉強できなかったことも、生徒達にアドバイスをする上でプラスに働いていると思い込んでいる。もし、私が苦も無く12, 3時間勉強ができていたのであれば、大してやらない子を「お前はやる気がない」と否定していたかもしれない。そうでなかったからこそ、いっぱいやっている子には「量は大事やけど、質の方は大丈夫か」と、あまりやらない子には「俺もそうやったけど、長時間せえへんのやったらその分工夫せなアカンで」といったような声掛けをすることができる。その他、意見作文に取り組んでいる生徒には「そのテーマに対して、多くの人がどのようなことを書くかを踏まえた上で自分のポジションを決めに行かなあかんで」ということをよく伝えるのだが、それについては、予備校で話をするときに既に私自身が意識していたことなのだ。私のように教育に携わっていなくても、大学受験までに学んだ、身に付けた物事への考え方や取り組み方などはその後の人生に役立つはずである。作文や読解問題を通して、国語力はもちろんこと、言うなれば人間力を豊かにしてあげられる塾でありたい。

2025.01.21Vol.671 時間を掛け、ふさわしい成果を出す

 先週、「締め切りの9月末に間に合わせるべく提出したものの納得の行くできでなかったため」と述べた。生徒本人はさておき、私自身が満足できなかったのだ。それぞれの段落を構成している要素はとても良い内容になっているはずなのに、全体としての一体感が無く手応えが得られなかったからだ。部分最適にすらなっていなければ提出した時点で終わりにしていたであろう。そのようなレベルに留まってしまったのには少なくとも2つの理由があった。1つ目は、それなりに時間を掛けてはいたものの十分にはほど遠かったこと。手直しにその後3カ月の時間を費やしていることがそれを証明している。2つ目が私の指導力が完全に不足していたこと。「なんでうまくいかへんかったんやろ?」と振り返りながら、よくよく考えてみれば4,000字の作文を添削したことがなかった、という事実に気付いた。私自身はこのブログで3,000字を超えるものを書くこともある。それに1,000字を付け足すことはそれほど難しいことではない。しかし、哲学グランプリの作文と私のそれとの一番大きな違いは、1つのテーマについて書き切るかどうかにある。このブログは、半分近くが余談で占められることもある。未知の領域であったことに思い至り、「じゃあ、どうすれば良かったんやろか?」と次なる疑問と向き合うことに。こういうとき、机に向かって1つのことについて根を詰めるのではなく、大抵は処理できていない問題を2つ3つと抱えているので、それらを頭の中に置きながら、考えるでもなく考えながら妙案が浮かんでくるのを待つといった感じである。いくつかの牡蠣を鍋に放り込んで茹でると、時間差で1つずつパカッ、パカッと開いて行くのと似ているのかもしれない。その場合、最後まで閉じたままのものは解決できなかったことを表している。数日後、「そっか、記述とおんなじか」となった。生徒たちは解答欄が50字、100字と増えるにしたがって、書き切ったときに不足することを怖がり、だらだらとどうでも良い内容で字数を稼ごうとしてしまう。そのようなことを防ぐため、「字数がどれだけ多くなっても、頭の中で20字から30字ぐらいでコンパクトにまとめて、それに肉付けする感じでやらなアカンで」という指導をする。そこに着想を得て、「次の授業で400字でまとめさせよう」となった。結果、予想以上にうまく行った。それが以下である。あくまでもラフなスケッチのようなものなので細かい部分についての指摘は行っていない。

 環境破壊や戦争、格差の拡大など、現在の地球が抱える問題は数多く、それらの未来へ向けた対策が万全ではない。また、先進国では出生率が下がっている国が多いので、この二つに相関関係があるとする。しかし、例えば日本では出生率低下の究極の原因は女性と子どもの人権向上であり、これは寧ろ、未来に繋がる良い流れの中で生まれたものである。このことからも、人間は子どもを産む産まないについては地球規模の大きなことは考えない、つまり問題と出生率は何の関係ももたないといえる。
 また、そのような問題は昔から存在したが、技術革新によるグローバル化とスピードアップにより深刻化した。それと同時に人口が爆発的に増えた。そして、哲学者によると、希望は現実と向き合うことで生まれる。世界に絶望している人は悲観というフィルター越しに世界を見ているので、現実を直視できておらず、希望を見出せるはずがない。また、人生とは希望なので、世界規模で見れば人口が増えているので、未来は明るいといえる。

 ここでお得意の余談なのだが、最終版に目を通しながら、「そして、医療の発達で人類は長生きになった。人生五十年と言われていたのに人生百年時代が到来した。それにより、私たちははるか遠い未来であるはずの一世紀後について自分事として考えなくてはならなくなった。」の部分が面白かったので、「100年生きるから環境問題について考えるようになった」というアイデアが面白いよな、と伝えたところ、「それ、私じゃなくて先生のアイデアやで」と予想外の返答があった。自分でも完全に忘れていたこともあり、「でもさ、人のアイデアを自分の手柄にする人よりええやん」と続けると、「どっちもうざい」と一刀両断されてしまった。
 私が忘れていたことももちろん原因の一つではあるのだが、それ以外に、彼女が、このときに限らず私が出したアイデアやアドバイスを自分なりに消化して、表現を変えたり、新たな情報をそこに加えたりしてより良いものにできることの方が影響が大きい気がする。その時点で、私のものではなく彼女のものにできているのだ。
 私が作成した彼女の月間報告を要約したものを紹介して終わりとする。

 本来、「時間帯効果」は「効果」÷「時間」という式で求められ、その値をいかに高めるかが大事であるはずなのに、現代の若者は「時間」を短くすることだけに焦点を当てるようになってしまった。彼女はそんな彼らとは違い、「時間」をじっくり掛けなければ得られないものがあるということを経験的に知っている。それは将来活きるはずである。いや、絶対に活かして欲しい。そのためにも、この一年間大学受験に向けての勉強を「時間」を掛けてやらなければならない。そうでなければ得られる「効果」は本来の実力以下のものになってしまうのだから。

2025.01.14Vol.670 生徒の大力作(修正版)

 今回は高2の生徒の約4,000字の作文を紹介する。「日本倫理・哲学グランプリ2024」にエントリーし、締め切りの9月末に間に合わせるべく提出したものの納得の行くできでなかったため、その後3か月、10回前後の授業を費やして修正し、書き上げたものである。与えられたテーマは以下の4つで、彼女は④を選択した。なお、志高塾の公式Xで、グランプリに提出したものを掲載している。では、お楽しみください。


知識を学ばず獲得していない者は、正しいことで成功することもできず、また、成功しているかどうか判断することもできない。
プルタルコス『モラリア』

未来というものがどんな現実の新しさをふくんでいようと、もともとそれぞれの瞬間の独自性と個別性が未来を新しくするのだから、未来を概念的に処理すれば、 その新しさをまったくとりにがしてしまう。
ウィリアム・ジェイムズ『哲学の根本問題』

よい歌をよもうと思えば、言葉をえらぶ以外に何ができるだろうか。歌のよしあしが決まるのは、だいたい言葉であって、情ではない。なぜなら、情が浅くてもよい歌は多いが、言葉が悪くて、しかもよい歌というのは、かつてあったためしがないからである。
本居宣長『排蘆小船』

「環境破壊や戦争、格差の拡大など、地球の未来に希望はもてない。だから子ども は作るべきではない」という考え方についてどのように考えるか。

 現在、地球は数多くの問題を抱えている。環境破壊、戦争、格差など挙げていくとキリがない。SDGsなど、それらの社会的課題を世界全体で解決しようとする気運が高まってはいるものの、一向に前進しない。また、先進国の人々は、生活が豊かになり時間にゆとりが生まれたことと、医療の発達による人生百年時代の到来により、はるか遠い未来であるはずの一世紀後を自分事として深刻に捉えるようになった。そして、それらの国は出生率が低い傾向にある。このことから、課題文と同じ考え方、つまり、地球の未来への不安から出生率の低下を招いていると仮説を立ててみる。ここで、我が国日本を例にとり、出生率低下の原因を探ることにする。まず、女性の社会進出をきっかけとして「大人になったらみんな結婚して跡継ぎを残す」ことが当然ではなくなったことが挙げられる。従来の性別分業に見られた専業主婦ではなく、男性と同じように働き、キャリアアップを目指すようになった。そのような女性は家庭より仕事を重視して、家制度から解放された人生を謳歌している人も多い。また、子どもは欲しいが、経済的事情から諦めざるをえない人もいる。しかし、昔は現代より貧しい状態だったにもかかわらず、子どもが多かった。それは、経済的に貧しく、農業などの労働集約型の産業に従事している人が多かったからこそ、早いうちから一家の労働力としての役割を担わせるためである。昔は衛生状態が今ほどよくなく、乳幼児の間の死亡率が高かったので一人でも多く残そうとした側面もある。時代が進むにつれて生活が豊かになったことで、子どもの人権が叫ばれるようになり、労働ではなく教育を受けさせるなど、子ども一人にかかる時間もお金も増えた。現在の大量の社会問題を深刻に捉え、現在の日本は景気が良くならず、税率ばかりが上がるということもあり、未来を悲観する人もいる。しかし、それが日本の少子化の直接的な原因ではなく、女性と子どもの人権向上という未来へ繋がる良い流れの中生じたものだ。このことから、人間は子どもの産む産まないについては地球規模の大きな問題から判断しない、すなわち仮説は成立しないのだ。
 そもそも、現在地球が抱えている諸問題は今に始まったものだろうか。例えば、環境破壊は、人類が現在の生活を継続する上で向き合うべき最重要課題であるが、昔から行われていた。旧石器時代に生息し、当時の人類が捕食していたマンモスが絶滅した原因は気候変動だけでなく人類の狩猟も関係していると言われている。アメリカ西海岸の海藻ケルプは、人類が毛皮を求めてラッコを乱獲したことで、生態系のバランスが悪くなった結果ウニが急増し、ほとんどが失われてしまった。このような人間の身勝手な行動によって絶滅した生物や人間の介入によって破壊された生態系は枚挙にいとまがない。しかし、今までは一地域の小規模なものに過ぎず、どれだけ動物が滅びようが、特定の地域の問題で済み、どれだけ特定の生態系を破壊しようが、他のもので簡単に補うことができた。現在は「地球」温暖化と形容されるように、海面上昇は北極にも南洋諸島にも被害を及ぼし、世界のあらゆる所で異常気象が起こっている。しかも、十年に一度、百年に一度と言われるほど大規模なものが毎年のように起こっている。それらは少なくない数の現存種を滅ぼしかねない。要するに、地球規模で深刻化した故に叫ばれるようになったのだ。
 戦争や格差問題も同様だ。二点共に人間が存在する限りは必然的に発生する。人間も動物の一種であるから、争い合い、強いものが上の立場につくのは自然なことである。今までもその繰り返しだったが、当然のことでもあり、そこまで悲観されなかった。自分達のコミュニティーの問題で終わっていたからだ。しかし、時代が進むにつれ、個々で独立していたコミュニティーが緊密な繋がりを持つようになった。それにより、20世紀初頭に初めて世界大戦という大規模な戦争が勃発したことや、中東戦争に起因する日本での石油危機に代表されるように、一地域のことでも全世界に多大な影響を与えるようになった。このように、今抱えている様々な問題は急に発生したものではなく、規模が拡大し、また驚異的な波及力を帯びたことで重大な問題として浮上してきたのだ。
 では、世界規模になることの何が不利益なのだろうか。グローバル化は科学技術の発達と密接に結びついている。産業革命によって今までになかった技術を持った国々が他地域に進出することで、科学技術の発達がタイムラグはあるものの全世界に広がったことにより、生産効率が上がるだけではなく、医療や交通手段までも発達したため、1800年に10億人であった世界人口が1900年に18億人、2000年に60億人、そして現在は80億人を超え、たった24年で19世紀の100年間の2.5倍も増えているので、爆発的増加と人やモノが激しく移動することで、世界はより緊密に繋がっていったのだ。2020年に新型コロナウイルスが世界中で大流行したが、一地域で発見された病原体がたった数か月で全世界に広がることは昔ではあり得ないことだった。このように今の社会問題の多くは国家を跨るものなので、一国家、一コミュニティーだけでは対応しきれないところがある。解決のために世界の国々が協調する必要があるのだが、中国に続き、インドを中心とするグローバルサウスの台頭により、足並みを揃えるのが困難な状況に陥っている。だから環境問題に対して有効な対策が見つからないまま、また新たな問題を抱え込むという負の連鎖が続いている。
 以上より、未来は見通せず不安定である。しかし、そうであるからこそ、人類は子孫を残していくべきである。未来に希望がないと言われるが、そもそも希望とは何であろうか。アリストテレスの言葉を引用してみる。
「希望とは、目覚めている人間が見る夢である。」
夢とは通常「眠っている人間」が見るものであるが、ここではそうではなく、「目覚めている人間」が夢を見ている。目を閉じてしまえば、必然的に現実は見えないが、目を開けると、現実が否応なく飛び込んでくる。現実と向き合いながら抱く夢、それが希望なのだ。物事を悲観的に捉えすぎるのは、負の感情というフィルターを通して物事を見ていると考えることもできる。フィルター越しに見るものは現実とは異なるため、ある意味夢を見ている状態なのだ。だから、そのような人たちは未来に希望を感じられないのではなく、そもそも希望が存在することのない未来を見ているのだ。人生とは希望であるはずだから、自分の人生と向き合えていないのかもしれない。また、近代日本の哲学者三木清の言葉に次のようなものがある。
「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望をもっていることである。」
 つまり、今この時代に存在していること自体が運命であると言える。そしてこの運命について思いを巡らせる時に必ず希望が生じるのだ。
 そうは言っても今すぐ希望を見出すのは難しいだろう。今のままではどうすることもできないのに変わりはないからだ。しかし、人類は何万年もの間、変わりゆく環境にその都度適応し、生命を繋いできた。現在、これまでになく様々な課題に振り回されているように感じられるかもしれないが、長期的に見ると、自然の摂理にすぎないと捉えることもできる。その意味で、今ここで存続を絶ってしまうことは自然に反してしまっているのではないだろうか。生きていることが希望を持っていることと同義ならば、生きている人が多ければ多いほど、希望を持っている人が多くなるので、人類全体が抱く希望の大きさは膨れ上がる。子孫を残さないことは未来を生きていたかもしれない多くの人を生み出さない、すなわちそこにあるはずの希望を我々人類の手で葬ってしまうということなのだ。だから、私は少しでも多くの希望を未来に残すためにも、幾ら先が見えなくても子孫を残すことをやめてはならないと主張する。

2025.01.14Vol.670 生徒の超力作

 今回は高2の生徒の約4,000字の作文を紹介する。「日本倫理・哲学グランプリ2024」にエントリーし、締め切りの9月末に間に合わせるべく提出したものの納得の行くできでなかったため、その後3か月、10回前後の授業を費やして修正し、書き上げたものである。与えられたテーマは以下の4つで、彼女は④を選択した。なお、志高塾の公式Xで、グランプリに提出したものを掲載している。では、お楽しみください。


知識を学ばず獲得していない者は、正しいことで成功することもできず、また、成功しているかどうか判断することもできない。
プルタルコス『モラリア』

未来というものがどんな現実の新しさをふくんでいようと、もともとそれぞれの瞬間の独自性と個別性が未来を新しくするのだから、未来を概念的に処理すれば、 その新しさをまったくとりにがしてしまう。
ウィリアム・ジェイムズ『哲学の根本問題』

よい歌をよもうと思えば、言葉をえらぶ以外に何ができるだろうか。歌のよしあしが決まるのは、だいたい言葉であって、情ではない。なぜなら、情が浅くてもよい歌は多いが、言葉が悪くて、しかもよい歌というのは、かつてあったためしがないからである。
本居宣長『排蘆小船』

「環境破壊や戦争、格差の拡大など、地球の未来に希望はもてない。だから子ども は作るべきではない」という考え方についてどのように考えるか。

 最近は環境保護が声高に叫ばれるようになった。地球温暖化や環境汚染が危惧されている。それらによって人類が今のような生活を送れなくなる恐れがあるためだ。しかし環境破壊は今に始まったことだろうか。例えば、旧石器時代に生息し、当時の人類が捕食していたマンモスが絶滅した原因は気候変動だけではなく人類の狩猟によるものだと言われている。また、アメリカ西海岸の海藻ケルプは、人類が毛皮を求めてラッコを乱獲したことによって生態系のバランスが崩壊した結果ウニが急増して、ほとんどが失われてしまった。このような人間の身勝手な行動によって絶滅した生物や人間の介入によって破壊された生態系は枚挙にいとまがない。では何故今になって騒がれているのだろうか。それは環境破壊が地球規模になったからである。従来はどれだけ動物が滅びようが特定の地域の問題で済み、どれだけ特定の生態系を破壊しようが他のもので簡単に補うことができた。現在は地球温暖化と形容されるように海面上昇の被害は北極にも南洋諸島にも及び、世界のあらゆる所で異常気象が起こっている。しかも、十年に一度、百年に一度と言われるほど大規模なものが毎年起こっている。そしてそれらは少なくない数の現存種を滅ぼしかねない。これが、環境保護が叫ばれる所以である。
 戦争や格差問題も同様だ。二点とも人間が存在する限りは必然的に発生する。人間も動物の一種であるから、争い合い、強いものが上の立場につくのは自然なことである。今までもその繰り返しだったが、当然のことでもあり、そこまで悲観されなかった。それは自分達のコミュニティーの問題で終わっていたからだ。しかし、時代が進むにつれ、個々で独立していたコミュニティーが緊密な繋がりを持つようになった。それにより世界大戦という大規模な戦争が勃発し、また中東戦争に起因する日本での石油危機に代表されるように、一地域のことでも全世界に多大な影響を与えるようになった。また、格差は個人間の問題ではなく、地域間の問題として扱われるようになった。このように、今、抱えている様々な問題は急に発生したものではなく、規模が拡大したことで、また驚異的な波及力を帯びたことで重大な問題として浮上してきたのだ。
 では、世界規模になることで何が不利益になるのだろうか。グローバル化は科学技術の発達と密接に結びついている。産業革命によって今までになかった技術を持った国々が他地域に進出することで、科学技術がタイムラグはあるものの全世界に広まった。生産効率が上がるだけではなく、医療や交通手段までも発達したため、爆発的な人口増加と人やモノの激しい移動で、世界は繋がっていったのだ。2020年に新型コロナウイルスが世界中で大流行したが、一地域で発見された病原体がたった数か月で世界に広がることは昔ではあり得ないことだった。異常事態だったので各国で協力してワクチンを供給するなどして、脅威は収まった。
 最近はSDGsなどの社会課題を世界全体で解決しようとする気運が高まっているが、一向によくならない。この一つの理由としては、急速に進化をとげている技術に、人間自身が適応できていないことが挙げられる。人間は社会を形成して生きているが、それは他の動物と同じく、小規模なものだった。しかし、今の主な社会課題の多くは国家を跨るものなので、一国家、一コミュニティーだけでは対応しきれないことがある。解決のためには世界の国々が協調する必要があるのだが、中国に続き、インドを中心とするグローバルサウスの台頭により、足並みを揃えるのが困難な状況に陥っている。だから環境問題や国家的な問題や貧困問題に対して有効な対策が見つからないまま、また新たな問題を抱え込むという状態に陥っている。
 そして、医療の発達で人類は長生きになった。人生五十年と言われていたのに人生百年時代が到来した。それにより、私たちははるか遠い未来であるはずの一世紀後について自分事として考えなくてはならなくなった。生活が豊かになることでゆとりが生まれ、あれこれ思いを巡らす時間ができてしまった。先ほど述べた過度なグローバル化とスピードアップが不安をあおり、未来に望みはないとさえ思わせてしまうような環境を作った。
 だから、私はむしろ、人類は子孫を残していくべきだと考えている。現在抱えている社会問題が大量にありどれも一筋縄ではいかず、また現在の日本の景気はよくならずに税率ばかりが上がるということもあり、未来を悲観的に捉えている人も多い。そのような人は全てを悪い方向に考えてしまい、希望が見出せない。しかし、本当にその人の未来に希望はないのだろうか。近代日本の哲学者、三木清の言葉に次のようなものがある。「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望をもっていることである。」
 今この時代に存在していることは運命であると言える。そしてこの運命について思いを巡らすときに必ず希望が生じるのだ。だから、人が生きているということと希望を持っていることは同等なのだ。では、希望とは何であろうか。「希望とは目覚めている人間が見る夢である」とはアリストテレスの考えである。夢とは通常「眠っている人間」が見るものであるが、ここではそうではなく、「目覚めている人間」が夢を見ている。目を閉じてしまえば、必然的に現実は見えないが、目を開けると、現実が否応なく飛び込んでくる。現実と向き合いながら抱く夢、それが希望なのだ。物事を悲観的に捉えすぎるのは、負の感情というフィルターを通して物事を見ていると考えることもできる。フィルター越しに見るものは現実とは異なるため、ある意味夢を見ている状態なのだ。だから、そのような人たちは未来に希望を感じられないのではなく、そもそも希望が存在することのない未来を見ているのだ。人生とは希望であるはずだから、自分の人生と向き合えていないのかもしれない。
 勿論、今のままではどうすることもできないことに変わりはない。しかし、人類は何万年もの間、変わりゆく環境にその都度適応し、生き延びてきた。これまでになく様々な課題に振り回されているように感じられるかもしれないが、長期的に見ると、自然の摂理に過ぎないのかもしれない。その意味で、今ここで存続を終わらせてしまうことは自然に反してしまっているのではなかろうか。人生が希望であるなら、人生が多ければ多いほど希望は多くなるはずだ。しかし、一度人生を絶ってしまうと希望は消えてしまう。子孫を残さないとは、未来を生きていたかもしれない多くの人々を生み出さないこと、つまりそこにあるはずの希望を自らの手で葬ってしまうことと同等なのだ。
 ここまで子孫を残すべきだと主張してきたが、実際はどうなのだろうか。日本の人口ピラミッドを見てみると、現在子どもが少ない「壺型」に近いが、以前は子どもの多い自然な「富士山型」であった。課題文の考えでいけば、現在は豊かで都会的な生活、昔は貧しく自然と隣り合わせの生活が一般的であるはずなので、時代が進むにつれて出生率が高くなるはずである。しかし、現状は全く反対のことが起こっている。日本は元々「富士山型」であったのが、時代が進んで技術革新が起こり、豊かになると出生率が低下し始めた。これ以上豊かになることはないと悲観し始めたのだろうか。そうではない。むしろ、技術革新は飛躍的に進み、近未来の生活に夢を馳せている人も少なくないだろう。
 ではなぜ、日本の女性は子どもを産まなくなったのだろうか。まず、大人になったらみんなが結婚を望む社会ではなくなった。きっかけとして、女性の社会進出が挙げられる。従来の性別役割分業に見られた専業主婦ではなく、男性と同じように働き、キャリアアップを目指すようになった。そのような女性は家庭より仕事を重視し独身を選び、家制度から解放された人生を謳歌している人も多い。また、一世帯当たりの子どもの数も減った。子どもは欲しいが、経済的事情から諦める人が多い。しかし、一昔前までは現代より貧しい状態だったにもかかわらず、何人もの子どもが生まれている。それは、経済的に貧しかったからこそ早いうちから一家の労働力としての役割を担わせるためである。昔は衛生状態が今ほどよくなく、乳幼児の間に多くの子どもが亡くなったので一人でも多く残そうとした側面もある。時代が進むにつれ、子どもの人権に対する意識が高まり、労働ではなく教育を受けさせ、子ども一人にかかる時間もお金も増えた。こうした変化を背景に、子どもの数は減ったのだろう。
 つまり、女性と子どもの人権が守られるようになるという良い流れが、結果的に少子化を招いたということになる。しかし、世界全体で見ると人口は増え続けている。環境問題も戦争も格差もその他社会課題も世界全体の問題であるはずなのに人は増えている。日本人の中には将来への不安から子どもを持たない人もいるが、それは社会課題そのものに対する不安というよりも、子どもを持った場合の自分の生活への不安である。社会課題は人類が取り組まなければならないことだが、一人一人を見ると自分の人生の中でそのようなことを漠然と意識はしても自分事に捉える人は少なく、それよりも目の前の自分の生活のほうが大切なのだ。
 前にも述べた通り、未来の担い手が多いほど希望は増える。これからの時代は人がさらに増えるので希望であふれた未来が訪れるであろう。

2025.01.07Vol.669 ヒルガエル君飼っていますか?

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 年と年度の初めに当たる1月と4月に1年間の目標を立てる日本人は少なくない。気持ちを新たにするに際し、「生まれ変わる」や「ゼロからやり直す」という言葉が使われることがある。まだ二十歳前後の学生であったり歳をそれなりに重ねていても罪を犯した人などであったりすれば理解できるが、そうでもない大の大人が用いることに違和感を覚えるようになっていた。「それぐらいの気持ちで」という比喩表現であることを踏まえても、である。良くも悪くもそれまでの人生で積み上げてきたものから自由になることはできず、それをきちんと踏まえなければ進んで行く方向を誤ってしまいかねないからだ。大谷翔平のように結果を残している人が慢心を戒めるために口にする場合は例外である。この数年そのような言葉に触れるたび気持ち悪さを感じていたのだが偶然ぴったりのものが見つかった。殻を破る。その殻というのは、最初は薄くて柔らかいものの、破るべきタイミングを逃すと少しずつ分厚く硬くなっていくイメージである。学生のうちや社会人になってもしばらくの間は誰かが殻で覆ってくれるものの、それ以降は蚕が自ら繭を作りそれを破るように、誰に頼ることなく自らそれを繰り返して行かなければ人間的には成長できないのであろう。
 私の場合、心機一転となるのは4月であることが断然多い。1月中旬に中学受験を控えているためである。受験生が冬休みに入ってから本番までの1か月間をひとまとまりで捉えているため、年を越しても気持ち的には切り替わらないのだ。ただ、この年末年始は違った。
 親であれば、「お父さん(お母さん)が同じぐらいの頃は」と我が子に話すことはそれなりにあるはずなのだが、私の場合は職業柄、仕事においてもそのようになる。浪人生になっても通い続けている男の子がいる。小4の頃からなのでかれこれ10年の付き合いである。授業が土曜の最後のコマであり、私はとうに帰っているため日頃顔を合わせることがないのだが、勉強をしている割に思ったように成績が上がってこないため志望校含め、今後の方針などについて二人で話し合う場を12月14日(土)に持った。お母様にお願いされてのことである。話をしていて、きちんと計画を立てられていないことが一番の原因であることが分かった。彼の能力を考えてもそれぐらいのことはできていて当然だと思い込んでいたのだが、そこに落とし穴があったのだ。そして、その日中に翌日の日曜からの1週間の計画を立てさせて、毎週土曜の夜に振り返りと翌週の予定をお母様との3人のグループラインにあげさせることになった。そんなことに時間を掛け過ぎてもしょうがないので10分ぐらいで良いということも伝えた。「共通テストまで1カ月、その後の国立の2次試験まで1カ月。きちんと対策をしてここからまだまだ成績を上げに行くぞ」と発破も掛けた。最初の2週は少し目標には届かなかったものの、年が明けた1月4日(土)の報告には「今週はやり切れました。良い感じです」というコメントが添えられていた。
 ここでヒルガエル君の登場である。「生徒や息子たちに偉そうに言ってるけど、翻って、今の俺はどうなんやろうか?」と考えたのがきっかけである。受験生の頃は、計画を立て、それをある程度のレベルで実行できていた。私の場合、性格上長期は難しかったので短期のもの、長くても3か月ぐらいのものであった。ヒルガエル君とやり取りしながら、その4日後の12月18日に「よし、今日から1月17日までの1か月間で10冊の本を読む」と決めた。それに関しては2週間前倒しで1月2日の時点で達成した。残り2週間でさらに3冊積み上げることにした。この数年は月に1, 2冊だったのでかなりのペースアップである。あくまでも過去の自分との比較になるが、それだけ読むと頭は一気に活性化し、不思議なぐらい意欲的にもなれている。1月18日からの次の1か月の目標も大体こんな感じにしようかな、と決まりつつある。もちろん、ヒルガエル君と対話をしながらである。
 最近はこのブログの字数が膨らみ過ぎて2,500字を超えることが常態化していたので今年は2,000字前後に収めるよう心掛ける。これも目標の1つである。最後に二男の話を少し。3日に北野高校サッカー部の年始の恒例行事である初蹴りに初めて連れて行った。現役生とOBが混じってサッカーをするのだが、幸い中2の二男もプレイさせてもらえ、所属したチームが6チーム中3位に入り賞品のサッカー用の手袋をもらうことができ嬉しそうにしていた。片方失くしてちょうど困っていたところだったのだ。その帰り道、近くのスーパー銭湯に寄り、湯船に浸かっていると、遠くの方で「せんせー」と大きな声を出している人がいたので、周りの人同様に振り向くと、三男のサッカーチームのパパ友であった。そのお父さんは私をそのように呼ぶのだ。そのまま我々の方にやって来てくれたので、二男に挨拶をさせたり、初蹴りの後であることなどを説明したりしていた。そのやり取りの中で、「お父さんと一緒の北野に行くの?」と尋ねられた二男は、その日の出来事と、そのお父さんの明るいキャラクターに釣られて、間髪入れずにはっきりとした声で「はい、行きます」と答えていた。柔らかい笑みを浮かべた良い横顔をしていた。

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