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2025.01.14Vol.670 生徒の超力作

 今回は高2の生徒の約4,000字の作文を紹介する。「日本倫理・哲学グランプリ2024」にエントリーし、締め切りの9月末に間に合わせるべく提出したものの納得の行くできでなかったため、その後3か月、10回前後の授業を費やして修正し、書き上げたものである。与えられたテーマは以下の4つで、彼女は④を選択した。なお、志高塾の公式Xで、グランプリに提出したものを掲載している。では、お楽しみください。


知識を学ばず獲得していない者は、正しいことで成功することもできず、また、成功しているかどうか判断することもできない。
プルタルコス『モラリア』

未来というものがどんな現実の新しさをふくんでいようと、もともとそれぞれの瞬間の独自性と個別性が未来を新しくするのだから、未来を概念的に処理すれば、 その新しさをまったくとりにがしてしまう。
ウィリアム・ジェイムズ『哲学の根本問題』

よい歌をよもうと思えば、言葉をえらぶ以外に何ができるだろうか。歌のよしあしが決まるのは、だいたい言葉であって、情ではない。なぜなら、情が浅くてもよい歌は多いが、言葉が悪くて、しかもよい歌というのは、かつてあったためしがないからである。
本居宣長『排蘆小船』

「環境破壊や戦争、格差の拡大など、地球の未来に希望はもてない。だから子ども は作るべきではない」という考え方についてどのように考えるか。

 最近は環境保護が声高に叫ばれるようになった。地球温暖化や環境汚染が危惧されている。それらによって人類が今のような生活を送れなくなる恐れがあるためだ。しかし環境破壊は今に始まったことだろうか。例えば、旧石器時代に生息し、当時の人類が捕食していたマンモスが絶滅した原因は気候変動だけではなく人類の狩猟によるものだと言われている。また、アメリカ西海岸の海藻ケルプは、人類が毛皮を求めてラッコを乱獲したことによって生態系のバランスが崩壊した結果ウニが急増して、ほとんどが失われてしまった。このような人間の身勝手な行動によって絶滅した生物や人間の介入によって破壊された生態系は枚挙にいとまがない。では何故今になって騒がれているのだろうか。それは環境破壊が地球規模になったからである。従来はどれだけ動物が滅びようが特定の地域の問題で済み、どれだけ特定の生態系を破壊しようが他のもので簡単に補うことができた。現在は地球温暖化と形容されるように海面上昇の被害は北極にも南洋諸島にも及び、世界のあらゆる所で異常気象が起こっている。しかも、十年に一度、百年に一度と言われるほど大規模なものが毎年起こっている。そしてそれらは少なくない数の現存種を滅ぼしかねない。これが、環境保護が叫ばれる所以である。
 戦争や格差問題も同様だ。二点とも人間が存在する限りは必然的に発生する。人間も動物の一種であるから、争い合い、強いものが上の立場につくのは自然なことである。今までもその繰り返しだったが、当然のことでもあり、そこまで悲観されなかった。それは自分達のコミュニティーの問題で終わっていたからだ。しかし、時代が進むにつれ、個々で独立していたコミュニティーが緊密な繋がりを持つようになった。それにより世界大戦という大規模な戦争が勃発し、また中東戦争に起因する日本での石油危機に代表されるように、一地域のことでも全世界に多大な影響を与えるようになった。また、格差は個人間の問題ではなく、地域間の問題として扱われるようになった。このように、今、抱えている様々な問題は急に発生したものではなく、規模が拡大したことで、また驚異的な波及力を帯びたことで重大な問題として浮上してきたのだ。
 では、世界規模になることで何が不利益になるのだろうか。グローバル化は科学技術の発達と密接に結びついている。産業革命によって今までになかった技術を持った国々が他地域に進出することで、科学技術がタイムラグはあるものの全世界に広まった。生産効率が上がるだけではなく、医療や交通手段までも発達したため、爆発的な人口増加と人やモノの激しい移動で、世界は繋がっていったのだ。2020年に新型コロナウイルスが世界中で大流行したが、一地域で発見された病原体がたった数か月で世界に広がることは昔ではあり得ないことだった。異常事態だったので各国で協力してワクチンを供給するなどして、脅威は収まった。
 最近はSDGsなどの社会課題を世界全体で解決しようとする気運が高まっているが、一向によくならない。この一つの理由としては、急速に進化をとげている技術に、人間自身が適応できていないことが挙げられる。人間は社会を形成して生きているが、それは他の動物と同じく、小規模なものだった。しかし、今の主な社会課題の多くは国家を跨るものなので、一国家、一コミュニティーだけでは対応しきれないことがある。解決のためには世界の国々が協調する必要があるのだが、中国に続き、インドを中心とするグローバルサウスの台頭により、足並みを揃えるのが困難な状況に陥っている。だから環境問題や国家的な問題や貧困問題に対して有効な対策が見つからないまま、また新たな問題を抱え込むという状態に陥っている。
 そして、医療の発達で人類は長生きになった。人生五十年と言われていたのに人生百年時代が到来した。それにより、私たちははるか遠い未来であるはずの一世紀後について自分事として考えなくてはならなくなった。生活が豊かになることでゆとりが生まれ、あれこれ思いを巡らす時間ができてしまった。先ほど述べた過度なグローバル化とスピードアップが不安をあおり、未来に望みはないとさえ思わせてしまうような環境を作った。
 だから、私はむしろ、人類は子孫を残していくべきだと考えている。現在抱えている社会問題が大量にありどれも一筋縄ではいかず、また現在の日本の景気はよくならずに税率ばかりが上がるということもあり、未来を悲観的に捉えている人も多い。そのような人は全てを悪い方向に考えてしまい、希望が見出せない。しかし、本当にその人の未来に希望はないのだろうか。近代日本の哲学者、三木清の言葉に次のようなものがある。「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望をもっていることである。」
 今この時代に存在していることは運命であると言える。そしてこの運命について思いを巡らすときに必ず希望が生じるのだ。だから、人が生きているということと希望を持っていることは同等なのだ。では、希望とは何であろうか。「希望とは目覚めている人間が見る夢である」とはアリストテレスの考えである。夢とは通常「眠っている人間」が見るものであるが、ここではそうではなく、「目覚めている人間」が夢を見ている。目を閉じてしまえば、必然的に現実は見えないが、目を開けると、現実が否応なく飛び込んでくる。現実と向き合いながら抱く夢、それが希望なのだ。物事を悲観的に捉えすぎるのは、負の感情というフィルターを通して物事を見ていると考えることもできる。フィルター越しに見るものは現実とは異なるため、ある意味夢を見ている状態なのだ。だから、そのような人たちは未来に希望を感じられないのではなく、そもそも希望が存在することのない未来を見ているのだ。人生とは希望であるはずだから、自分の人生と向き合えていないのかもしれない。
 勿論、今のままではどうすることもできないことに変わりはない。しかし、人類は何万年もの間、変わりゆく環境にその都度適応し、生き延びてきた。これまでになく様々な課題に振り回されているように感じられるかもしれないが、長期的に見ると、自然の摂理に過ぎないのかもしれない。その意味で、今ここで存続を終わらせてしまうことは自然に反してしまっているのではなかろうか。人生が希望であるなら、人生が多ければ多いほど希望は多くなるはずだ。しかし、一度人生を絶ってしまうと希望は消えてしまう。子孫を残さないとは、未来を生きていたかもしれない多くの人々を生み出さないこと、つまりそこにあるはずの希望を自らの手で葬ってしまうことと同等なのだ。
 ここまで子孫を残すべきだと主張してきたが、実際はどうなのだろうか。日本の人口ピラミッドを見てみると、現在子どもが少ない「壺型」に近いが、以前は子どもの多い自然な「富士山型」であった。課題文の考えでいけば、現在は豊かで都会的な生活、昔は貧しく自然と隣り合わせの生活が一般的であるはずなので、時代が進むにつれて出生率が高くなるはずである。しかし、現状は全く反対のことが起こっている。日本は元々「富士山型」であったのが、時代が進んで技術革新が起こり、豊かになると出生率が低下し始めた。これ以上豊かになることはないと悲観し始めたのだろうか。そうではない。むしろ、技術革新は飛躍的に進み、近未来の生活に夢を馳せている人も少なくないだろう。
 ではなぜ、日本の女性は子どもを産まなくなったのだろうか。まず、大人になったらみんなが結婚を望む社会ではなくなった。きっかけとして、女性の社会進出が挙げられる。従来の性別役割分業に見られた専業主婦ではなく、男性と同じように働き、キャリアアップを目指すようになった。そのような女性は家庭より仕事を重視し独身を選び、家制度から解放された人生を謳歌している人も多い。また、一世帯当たりの子どもの数も減った。子どもは欲しいが、経済的事情から諦める人が多い。しかし、一昔前までは現代より貧しい状態だったにもかかわらず、何人もの子どもが生まれている。それは、経済的に貧しかったからこそ早いうちから一家の労働力としての役割を担わせるためである。昔は衛生状態が今ほどよくなく、乳幼児の間に多くの子どもが亡くなったので一人でも多く残そうとした側面もある。時代が進むにつれ、子どもの人権に対する意識が高まり、労働ではなく教育を受けさせ、子ども一人にかかる時間もお金も増えた。こうした変化を背景に、子どもの数は減ったのだろう。
 つまり、女性と子どもの人権が守られるようになるという良い流れが、結果的に少子化を招いたということになる。しかし、世界全体で見ると人口は増え続けている。環境問題も戦争も格差もその他社会課題も世界全体の問題であるはずなのに人は増えている。日本人の中には将来への不安から子どもを持たない人もいるが、それは社会課題そのものに対する不安というよりも、子どもを持った場合の自分の生活への不安である。社会課題は人類が取り組まなければならないことだが、一人一人を見ると自分の人生の中でそのようなことを漠然と意識はしても自分事に捉える人は少なく、それよりも目の前の自分の生活のほうが大切なのだ。
 前にも述べた通り、未来の担い手が多いほど希望は増える。これからの時代は人がさらに増えるので希望であふれた未来が訪れるであろう。

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