2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2024.12.13Vol.43 日常と非日常の反復(三浦)
もう半年以上前になるが、春先に島根旅行に行った。島根。私にとっては異様に好きな土地である。小学生の頃に突然島根に興味を持ち、家族にツアー旅行に連れて行ってもらったときから、いつか再訪したいと思っていた。何が好きかは明確には言葉に表せないのだが、幼少の頃に肌で直感した「ここはいい場所だな」という感覚をずっと信じていた。なんというか、もはや空気を吸えたら満足、くらいの気持ちだった。
あまり旅行に行かない友人と一緒だったのだが、その友人が飛行機に乗ったことがないと話していたので、せっかくならと飛行機で行くことにした。私自身飛行機は数年ぶりだったし、自分でチケットを取るのは初めてだった。行きは搭乗の手順を何度もインターネットで読み返して臨んだり、帰りはオンラインチケットが上手く表示されずにパニックになりながら係員の方に助けを求めたり、なかなか情けない旅行者ではあったのだが、良い経験として次に活かせることを我ながら願っている。
出雲空港(出雲縁結び空港とも呼ぶ)に着いて驚いたのは、空港から直接繋がる電車がないことだった。関空や伊丹空港に親しんだ身としては、そして世間知らずの身としては、空港から主要な都市に出るために(あるいは都市から空港に向かうために)、フライトの時間から逆算したバスに乗らなければならない、というのはひとつの衝撃だった。時間配分が下手なので、空港でのんびり食事をするのもできなかった。レンタカーの申し込み場所が空港内にあり、なるほど、車の免許があれば楽だったのか、などと考えたりもした。実際には松江に出るためには鳥取の空港の方がアクセスとしては便利だとか、タクシーで駅まで出ても良かったのではとか、そういったことも後から知ったので、ひとえに下調べ不足である。行き当たりばったりの旅程は近畿内に収めておくことにする。
だらだらと出雲神社や松江市内の旅行記にしてもいいのだが、幾分時間が経っていて新鮮味がないこともあり、もっと味が出る頃まで置いておくことにする。さて、ここからどう展開しようかと考えたとき、ふと思い出したのは、いつも旅の途中に感じる不思議な感覚だった。
島根を例に挙げれば、「出雲神社」だったところが、実際にその場所に足を踏み入れたとき、「今、自分がいる場所」という意識に上書きされる。ネットや雑誌、遠い記憶を辿っては想像して楽しみにしていた場所が、その瞬間にだけはその特別性が失われるのだ。仮に横浜の街並みを歩いていても、実際に歩いている以上、そこは「横浜」というよりは「現在地」になる。メディア越しにしか聞いたことのない駅名が、実際の目的地として自分に迫ってくる。どんな場所でも、自分がその場に行ってしまえば、普段の日常との地続きに変わりないことに気付く。もちろん、それは楽しくなくなったというわけではない。いってしまえば、非日常が日常になる瞬間、である。そして家に帰ってきたときに、日常だった旅先の日々は「非日常」として思い出に残っていく。
うまく伝わっているのかどうかは定かではない。この感覚は何度か頭の中で整理しようとしたのだが、そのたびに断念してきたくらいだ。それでも、私はどこか遠くに出かけたときには、これからも「今ここにいる自分」というものを強く意識するのだろう。何事も日々の延長であることに変わりはない。人生を賭けるような一日も、終わってしまえば、ふり返って記憶になるしかないのだ。私は昔から嫌なことや緊張することがあると「でも24時間後には明日になっているし」で乗り切ろうとするのだが、今考えてみれば、これも「毎日は地続きになっている」という考えが根っこにあるような気がする。
どれだけ特別な日も、その日になってしまえばただの「今日」で、過ぎてしまえば過去である。ものすごく当たり前の事実なのだが、自分にとっては、それを最も痛感するのは旅先である。長々と話してきはしたものの、結局のところは、旅の楽しさと終わる寂しさというものだろう。何事も準備をしている時が一番浮かれるものだ。
生まれてこのかた実家を出ていない私には、いつか海辺の町でのんびり暮らしてみたいという野望がひそかにある。これも叶った先では、ただの特別感のない日常として埋没してしまうのかもしれない。だからどうでもいい、というのではない。むしろ憧れをただの日常にしてしまうことを目指すべきなのだろう。「日常」とは、思っているよりも良い意味を持っているのかもしれない。
いつにもましてとりとめのない文章になってしまった。良い文章を書くことを日常にするには、まだまだ経験不足である。