2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2024.10.05Vol.35 学びの肥やし(徳野)
誰の言葉だったか記憶が定かではないが、「本、人、旅」の掛け算が人間を成長させてくれると聞いたことがある。調べた限りではライフネット生命株式会社CEOである出口治明氏が掲げる人生の指標のようだ。その大事な3本柱のうち、私は「人」と「旅」が著しく欠如した人生を送ってきた。ありがたいことに経済的に困窮した経験は無い。また、誰かと一緒に過ごす時間じたいは楽しいと感じるし、どこか遠方に足を伸ばすことへの興味が無かったわけでもない。にも関わらず、特に「旅」に対しては行動を起こす前から、帰路での孤独感や疲労感、さらには家に着いた後の荷ほどきの煩わしさを勝手に想像して、自分の中にある欲求をうやむやにするということを繰り返してきた。
要するに極度の出不精な私だが、今年の授業では例年よりも多くの生徒たちと彼らの海外滞在についてやり取りする機会が増えている。「志高く」のVol.651「柳の下に」にて取り上げられた高校1年生の男の子がイタリア旅行記を完成させる姿を間近で見たのをきっかけに、西宮北口校では他2名の中高生とも自身の体験を振り返る機会を作った。うち1名が書き上げたものは10月8日(火)の「志高く」に掲載される予定なので、読んでいただけると幸いです。ちなみに、この段落に登場した3名とも初めは物事や出来事の羅列に留まっていた。材料だけ集めて調理をしていないような状態である。そこから一つの「料理」の形にするために、そもそもなぜ国外を旅したのか、現地で見聞きした事柄から何を感じ考えたのかを明らかにした上で自分の中の変化に向き合うことを目指した。しかしながら、彼らに何かしらコメントをしているときも、「休日に(自宅がある)大阪府内からもろくに出たことが無い私が何を偉そうに・・・」という後ろめたさで心がちくりと痛む瞬間が何度かあった。私はまな板に乗せるための材料すらろくに持ち合わせていないようなものだ。
よって、宣言する。年に2回は旅行をし、現地で少なくとも1泊はする。当たり前だが地元である徳島は行き先から除外する。そして、「遊びは芸の肥やし」ならぬ「遊びは学の肥やし」というわけで、きちんと「養分」として蓄えられるよう、ここからは1週間の休暇中に初めて、1泊2日で訪れた広島での思い出を綴っていく。
きっかけはYouTube上で、リニューアルした平和記念資料館の特集番組にたまたま出会ったことである。展示手法の刷新が実施されたのがすでに5年前、広島テレビ放送制作の番組が公開されたのも2年前なので、情報のキャッチじたいには時差があった。平和学習に取り組んだ中学2年次を修了して以来、「ヒロシマ」という歴史的な事象から関心がすっかり遠のいてしまっていた証拠だ。学校での平和教育のあり方に責任を求める形になるが、探求学習の一環に組み込まれていたがゆえに進級のタイミングで「卒業」したような錯覚に陥っていた面は否めない。
資料館に話を戻す。2019年のリニューアルに際して重視されたのは実物資料である。亡くなった方々の遺品や当時の惨状を映した写真、被爆者の手によるイラストおよび証言を中心に据えることで、「被爆の実相」を伝えるという展示最大の目的を再認識する方向性で見直しがなされた。その一連の検討において何より話題になったのが「被爆再現人形」の撤去だろう。世間的にはその決定に対して「賛」より「否」の方が圧倒的に多く、その結果からは1970年代以降の来館者に意義深い存在として強烈な印象を与えてきた事実が窺える。一方で、筆舌に尽くしがたい惨状が目に焼き付いている生存者からは「実態を表現し切れていない」という批判も寄せられてきた。歴史にまつわる創作物だからこそ突き当たる壁だ。また、全国にいる被爆者の平均年齢が2024年時点で85.58歳を記録し、当時の体験を生の声で語ることができる人材が年々減少している背景を鑑みると、世代を越えて保存が可能な実物資料を前面に出す動きは必然的な流れと言えるだろう。刷新の前後を実際に比較できないのが本当に残念である。
いざ広島市内。路面電車の停留所の間隔がやたら狭いことに驚きながらバスに揺られて目的地に到着した。いつもならミュージアムと名の付く施設に足を踏み入れる際は胸がはずむのだが、今回ばかりはやはり緊張感のようなものが心を占めていた。ただ、写真と映像でしか見たことが無かった原爆ドームが視界に入ってきた時は感動に近いものを覚えた。
結論を言うと、近いうちに再訪しなくてはならないと思った。修学旅行生の集団に加えて欧米圏からの外国人旅行者で混雑しており、(特に後者に関しては、それじたい大変良い傾向ではあるものの、)一つひとつの展示物にじっくり対峙できなかったのが心残りだからだ。そして、仄暗い展示室内は原爆が市全体にもたらした甚大な被害を統計的に知るだけでなく、犠牲者の方々の遺品、生前の顔写真、ご本人が死の間際に残した言葉を同時に見せることで、一人ひとりがかつて送っていた日常と1945年8月6日以降に味わった苦しみへの想像力を喚起させるような構成となっていた。当然のことながら刺激の強い、惨たらしい写真やイラストもふんだんに使われていた。しかし、個々人の濃密な生と死が集積して膨大な情報量となってとめどなく、それでいて静かに流れ込んできたあの空間は、何より死者を悼むための場所だった。それにも関わらず、コーナーによっては人混みに巻き込まれながら慌ただしく進んでいかざるをえなかったときは、亡くなった方々への敬意をまだ十分に払えていないような気分を味わった。そういった、後ろ髪引かれる感情がこれからの旅への動機になっている。
充実感と後悔が入り混じった不思議な心持ちで平和記念公園の広場に降り立った。暖かな夕陽に満ちた開放的な光景が広がっていたのが資料館内と好対照だった。敷地内に建てられた慰霊碑の直線上に原爆ドームが姿を現した。もちろん足を運んだ。爆心地から約160メートル地点で被爆したかつての産業奨励館は、むき出しになった鉄材が爆風の影響で複雑にねじ曲がっていた。世界遺産をメディアであまり取り上げられないであろう位置から眺めていると、「160メートルってどれくらいの距離感なのだろうか」という疑問が湧いてきた。そこで、Googleマップに従って「爆心地説明の碑」を目指したところ、近くの路地に入るとすぐに、ひどく簡素なものを発見できた。拍子抜けするほど短い移動時間だった。私以外の観光客がいない路上でしばし夜空を見上げてみる。すると、つい2時間前までいた資料館の展示で多く取り上げられていた、爆心地から1キロメートル以内の範囲を襲った惨状が脳裏をよぎった。その中でも至近距離と言って差し支えない場所にありながら、コンクリート製でないにも関わらず、あの特徴的なドームの骨組みや外側の壁が一部だけでも残ったのは、大正時代に活躍したチェコ人の設計者も想定していなかったであろう奇跡なのだと実感した。ほんの数分間でも自分の足を動かしたからこそ、頭に入っていただけの状態の情報と現実がリンクする感覚を味わえた。
インターネットを通じて物事を「知っているつもり」になってしまう時代だからこそ、リアルの世界を気の向くまま歩き回ることの意義は大きい。古文における「遊ぶ」には、「娯楽を享受する」というよりは「自由気ままに動き回る」という意味合いが強いことをふと思い出した。