2024.09.17Vol.655 欧州旅行記(完結編) ~性差~
来週一週間は教室が休みになるため、この『志高く』も、社員による金曜掲載の『志同く』もお休みです。
今調べてみると、「欧州旅行記」の初回が5月14日だったため、新鮮味は完全に失われ、かつ直前の「欧州旅行記 ~舞台~」から3カ月も間が空いているため、「まっ、いっか」とそのままフェイドアウトする方が自然な気もするが、今回のテーマは「欧州旅行記」の中で一番書きたかったことと言っても過言ではないため、うやむやにせずにきちんと締めくくることとする。
先に結論から述べる。それは、「能力的に性差が有るか無いかが分からないことなのに、『男だから』、『女だから』と決め付けてしまうのは良くない」である。
ここで余談を。性差とは直接関係しないが、性別に関することで言えば、LGBTQという言葉が一般的になり、大学入試の小論文試験などのテーマとして扱われることも増えた。あるテーマに対して、「これに対してはこう書いた方が点数をもらいやすい」という教え方をすることは無いのだが、LGBTQについては「性的マイノリティに限らず、少数者に気を配ることは大事だが、そのことと世間の基準を彼らに合わせることとは別の話だ。それを踏まえた上で意見を書いた方が良い」という個人的な考えを私は生徒たちに伝えている。公衆浴場が良い例である。肉体的(生物学的)ではなく精神的な性別に基づいて、男性、女性どちらの風呂に入るかを決めると大変なことになる。目に見えないものなので判断のしようがないからだ。こういうことを言うと「差別だ」という反論があるかもしれないが、差別と区別は違う。ハンガリーは温泉が多く、5年前に訪れたときに実際に行ってみたのだが、日本のプールみたいな感じで男女共同であった。もちろん、水着着用である。日本もそうすれば上記の懸案事項は解決するが、日本人の風呂の文化に合うかどうかという別の問題が生じる。余談の余談にはなるが、ハンガリーの温泉ではプールのように泳げる場所もあった。頭を水に浸けるため帽子の着用が義務付けられていたのだが、スキンヘッドの人だけではなく、それに準ずる人もその限りでは無かった。それを見ながら、「これ、日本やったら、被れって言われるんやろうな」となったことを思い出した。ルールに厳格なのは日本の良い所でもあり悪い所でもある。
話を4か月前のスイスに移す。それぞれ金沢21世紀美術館、新国立競技場を設計したSANAA(日本人建築家デュオ)と隈研吾の建物が見たくてスイス連邦工科大学ローザンヌ校(他にチューリッヒ校もある)を訪れた。アメリカのいくつかの有名な大学ならまだしも、ヨーロッパになるとレベルがまったく分からない。そういうときに世界の大学ランキングなるものを参考にすることもできるが、ここではもっと分かりやすい指標を持ち込む。ノーベル賞受賞者の輩出人数である。スイス連邦工科大学チューリッヒ校は21名である。日本は東大と京大が並んで9名ずつである。かのアイン・シュタインやX線を発見したヴィルヘルム・レントゲンも卒業生として名を連ねている。ローザンヌ校にある売店で、日本で買えばおそらく2,000円以下で手に入る水筒を、アイン・シュタインの絵がプリントされているだけで8,000円ぐらいしたものを「賢くなってくれ!」という思いを込めて3人の息子たちにお土産として買って帰った。完全なる親バカである。この旅行記を書き終える前に、長男は飲み口の部分を壊して使えなくなってしまったことをここに記しておく。
SANAAが設計したのは、「ロレックス・ラーニング・センター」と呼ばれる、図書館、自習室、カフェ等の機能を持つ建物である。その建設費用に対して複数のスイスの大企業が出資したのだが、一番金額が多かったという理由でその名を冠している。学生が自習をしていたのだが、女性の多さにとても驚かされた。感覚的な数字にはなるが、3割ぐらいは占めていたはずである。「工科大学」なので理系専門の大学である。私が大学生の頃、京大工学部の中で女性の割合が一番多い建築学科ですらたったの1割あった。物理工学科や工業化学科(現理工化学科)はわずか数%であったはずである。「女の子だから算数が苦手」というようなことを口にする人は少なくないのだが、それにはまったく賛同できない。それと似たようなのが、「男の子は最後に一気に成績が伸びるが、女の子はそうでないので早くからコツコツやらないといけない」というものである。そんなことを誰が決めたのだろうか。たとえば、アフガニスタンで現在の12歳から18歳の男女に勉強に関するテストをすると完全に男の方が良い成績を取る。性差が理由ではない。2021年にタリバンの暫定政権が発足して以降、女性が通えるのは小学校までという制限が設けられたせいである。「女の子は算数が苦手」に対して、「男の子は国語が苦手」がある。しかし、夏目漱石や芥川龍之介など文豪と呼ばれる作家のほとんどは男性である。明らかな矛盾である。それも単純な話で、昔は女性が高等教育を受けることが一般的でなかったからである。
東京工業大学はスイス連邦工科大学と提携している。その東京工大(来月に東京医科歯科大と統合して「東京科学大」となる)は、今春の受験で58人の女子枠を設けたことで、女性比率が昨年春の10.7%から15.3%に上がった。さらに来春は既存の学部において(東京医科歯科大学の学部は含まないということである)149人に増やすことを発表している。アメリカに、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正)という制度がある。入学や雇用において、特定の民族あるいは階級に対して優遇措置を設けるというものである。それによって大学の教育の質が下がった、ということを聞いたことがあるが、歪みを改善するためには外から何らかの圧力を加えるしかない。東京工大は女子枠を一気に増やすことで短期的には問題を抱える気はするが、中長期的には良い方向に向かうと私は予測している。LGBTQよりずっと前から「女性の権利」に関しては、小論文のテーマになることが少なくなかった。そういうものに取り組む生徒には、「主張の内容がどれだけ適切であっても、既得権者(この場合は男性)は抵抗するものなので、あなたたちにとってもこういうメリットがありますよ、というのを示さないと受け入れてもらわれへんで」というアドバイスをしてきた。
これにて「欧州旅行記」は完結である。
2024.09.10Vol.654 大きな絵
「『自分は~ができているのだろうか?』という疑問が頭をよぎった」というような表現をよく用いている気がする。ワンパターンとも言えるのだが、そのような自問から思考をスタートさせることが多いのも事実である。その問いに対する自己評価が「できているような、でもそうでないような」とボーダーライン上にあるときは、「いや、やっぱできてへんな」と決め付ける。自分に厳しいわけではない。「それなりにできている」と及第点を与えてしまえば思考停止になってしまうからだ。「志高塾を経営する上で、自分は大きな絵が描けているのだろうか?」。これに関しては、悲しいことに「まったくもってできていない」と断定せざるを得ない。
20数年前に遡る。新入社員研修で性格診断のようなものを行った。確か10ぐらいに分類されたのだが、30人弱いた同期の中で私だけが経営者タイプであった。研修の担当者が「生まれつきこのタイプの人はいなくて、マネージャーとしての経験を積むことで後天的になるはずなのに」と首をひねっていた。大学生の頃に松下幸之助、盛田昭夫、本田宗一郎はもちろんのこと、大企業の経営者の本を読み漁っていたのがそのようになった理由のはずである。その頃も大きな絵を描けていたわけではなかったが少なくとも眺められてはいたのであろう。
私が描くべき大きな絵と言うのは、5年後、10年後に世の中がどのように変わるかを予想し、志高塾がどのような価値を提供して行くかを決定し、それを実現するための方策を講じることである。言い換えれば、未来で大きな実がなるような種を蒔くことである。ChatGPTの登場によって、今後より人間味のある文章が評価されるようになる、というのが私の見立てである。人間味がある、というのは、その人らしい、と言い換えても良い。それは我々のような作文を教えている教育機関の価値が高まることを意味している。それが私の未来予測である。しかし、それとは真逆のことを考えている人が大半ではないだろうか。実際、レポート課題が楽になった、と考えている現役の大学生は少なくないはずである。ChatGPT以前は、テーマによっては求めているネット記事を探すのにそれなりに苦労したはずだが、今後そのようなことも無くなる。作文でもレポートでも書き上げることは一つの目的ではあるが、入試などにおける小論文試験などでない限りは、その過程でいかに考えたかが重要なのだ。それが自分の血となり肉となる。そうでないとすれば、私がここまで積み上げて来たこのブログにおける650以上の文章は単なる時間の浪費だったということになってしまう。その時々で気になっていた事柄に対して自分なりに考察をしてきたから、生徒の意見作文を添削しているときや親御様に相談をされたときに、ある程度内容のある指摘や提案ができるのだ。文章を書くことを通して少なからず自らの成長を実感できているからこそ、作文に後ろ向きな生徒たちに対して、少しでも楽しさを感じられるような声掛けをしよう、となるのだ。
話を戻す。自らが大きな絵を描けていないこと、描こうとしていないことについては前々から気になってはいたのだが、どこかで見て見ぬふりをしていた。改めてそれを強く意識し始めたのは今回の自民党総裁選が関係している。連日のように各候補者が掲げる政策がマスメディアで取り上げられ、それに対する意見が述べられるからだ。小泉進次郎は「最高のチームを作る」と会見で述べた。良いメンバーを集めて、彼らが仕事をしやすい環境を整え、チームを一つにまとめられれば結果を出せる可能性は高まる。ただ、どこに向かわせるかを決めるのはリーダーである。そこを誤れば大した成果は期待できない。小泉進次郎が総理大臣になれば、その参謀役を務めるのは菅前首相である。わずか1年と少しの在任期間で、新型コロナ対策においてワクチンを確保し拡大を防いだことや携帯料金の値下げを実現したことなどが評価されているが、見方によってはいずれも目先の問題を処理したに過ぎない。コロナに関することで言えば、世界がよりボーダレスになり今後パンデミックが起きる可能性が高まることを踏まえると、今回の経験を次にどのように生かすのか、また、通信関連では次世代通信規格6Gで日本が少しでも優位な立場を確保するための施策を講じることこそが国家元首に求められている大きな役割の一つである。エネルギー問題においても、原子力を含め、どのようにして今後必要な電力量をまかなおうとしているのかがまったく見えてこない。どれも一筋縄で行かない問題だからこそ、先を見据えた手を打たなければいけないのだ。
現在、オンラインの生徒を増やすことに力を入れようとしているが、それも含めて、今行っていることの延長にあるようなことは大きな絵に描き入れることではない。大きなカンヴァスを前に途方に暮れてはいるものの、その前に立とうとしたことだけは評価しても良いかもしれない。
2024.09.03Vol.653 政治が提供してくれるお題の数々
2024年は選挙イヤーだと言われてきた。現在、毎日のようにマスメディアを賑わせている自民党の総裁選、アメリカの大統領選だけではなく、台湾の総統選、インドの総選挙などが予定されていたからだ。それに加え、7月に行われた欧州議会選で大敗したことを受け、マクロン大統領は惨敗することを折り込んだ上で仏国民議会を解散し総選挙に打って出た。日本に例えれば、岸田首相が議席数の大幅減を覚悟の上で衆議院の解散を行うようなものである。この週末、小6の三男と二人、泊りがけで2日連続の船釣りに行く予定にしていたのだが台風の影響で中止となり家の大掃除をしていた。その一環で本棚を整理していて、随分前に購入したエマニュエル・マクロン著『革命』を処分するかどうかで迷った。2017年5月に39歳の若さで大統領に就任するちょうど半年前の2016年11月に刊行され、日本では2018年に翻訳版が出版された。とうに旬は過ぎているわけだが、だからこそ希望に満ちあふれていた過去と支持率が低迷している現在との比較ができるという面白さがあるのではないか、という考えに至った。帯には「自らが語る生い立ち、フランス再興戦略、欧州の政治・経済の展望 世界の変化を掴む必読書」とある。前回触れたJ・Dヴァンスの自伝を読み終えたらこちらに手を付ける予定である。対極的な幼少時代を過ごしたであろう2人が、国や大統領と副大統領候補という違いはあるものの、奇しくも同じ39歳で選出されたことも中々面白い。
アメリカ大統領選において「激戦州」と表現される7つの州の住人よろしく私は典型的な無党派層の一員である。現状、日本には政権を担えるのが自民党以外に存在しない。2009年、やりたい放題の自民党に嫌気がさし、何かが変わることを期待して民主党に一票を投じたが結果は散々であった。その一事から学んだのは、望ましくない状況から抜け出す一手がさらに悪い方向へ導くこともあるということである。そういう可能性も低くはないので、納得ができない現状であったとしても甘んじて受け入れておいた方が無難だ、ということを言いたいのではない。淡い期待ではなく、理に適った選択をするべきなのだ。もちろん、それでも好転するかどうかは定かではない。ただ、そのような手順をきちんと踏んで行けば、紆余曲折はあったとしても良い方向に進んで行くはずである。大手塾Aでうまく行かないので、とりあえず環境を変えようと大手塾Bに移れば成績が上向くわけではない。気分転換は図られるかもしれないが新鮮さというのはすぐに失われるものである。もしかすると、そのタイミングでBではなく志高塾を選択肢に入れてもらえることもあるかもしれない。小さな塾なので「本当にここで大丈夫なのだろうか」という不安を抱かれるのはある程度しょうがないが、それ以上に、HPを読んで「きっとここなら我が子を育ててくれるはずだ」という期待を持って門戸を叩いてもらい、実際に通わせてみて、最低でも「期待通り」、できれば「期待以上」という評価を得たい。バイデン大統領が次期大統領候補として居座り続けていたときには「ダブルヘイター」という言葉を耳にした。バイデン、トランプの両方ともが嫌いな人たちのことである。投票する際、どちらがまだましか、というのが基準になる。そのニュースに触れるたび、「志高塾は積極的に選ばれる存在でいられているだろうか?」という自問が頭をよぎったものである。
さて、総裁選、私の一押しは何といっても小林鷹之である。相当厳しい戦いにはなるが、今回顔を売って、次回以降につながれば良い、と勝手に私は考えている。政治評論家の田崎史郎に「ChatGPTのようだ」と揶揄されていたが、口に出す前に、頭の中で候補となる単語の中からどれを使うかなどを瞬時にはじいているのが伝わってくる。また、自分の頭が良いことを見せつけるためではなく、聞き手に伝えることを目的にしているため、外来語を多用することも無い。ポッドキャストの番組『コテンラジオ』は、現在「豊臣秀吉と徳川家康」編である。そこで、関ケ原の合戦後、徳川家康により上杉景勝が会津藩から米沢藩に移封され、石高が120万石から4分の1の30万石に減らされたことが語られていた。数日前にそれを聞いたときは、そういうこともあったな、で終わっていたのだが、昨日、「もしや」と、「小林鷹之 上杉鷹山」でググると、案の定、そうであった。そこから採っていたのだ。J・F・ケネディは、大統領就任時に日本の記者から「日本で最も尊敬する政治家は誰か?」と問われ、「上杉鷹山です」と答えた。旧統一教会のイベントに参加したことや立候補を表明した記者会見の場に裏金問題を起こした旧安倍派の議員が多数出席していたことなどが批判されているが、それでもやはり期待したい。政治家と聞いて私が思い浮かべるのは、海千山千、手練手管という四字熟語である。また、「テーブルの上で握手し、テーブルの下で足を蹴りあう」ということなども言われる。政治家っぽくはない彼が、日本の国益のために一筋縄ではいかない各国の首脳とそういうやり取りができるのかを見てみたい。
最後にもう1つ。現在、渦中の人物である兵庫県知事、先日の百条委員会において、20m歩かされたことで担当の職員を叱責したことに対して正当化をしていたが、私に言わせれば、「知事、車の侵入が禁止のエリアです」ということすら伝えられない関係であること、それがすべてである。
子供にとって、政治ほど大人の社会を知るための情報を提供してくれるものは中々ない。人間なので好き嫌いがあって当然だが、できるだけその感情を押さえることでいろいろな学びが得られるはずである。