2024.08.27Vol.652 無形の財産を豊かにすることの大切さ
この1か月ぐらいで日本において知名度が上がったあるアメリカ人の自伝より。
現在31歳の私は、これまでの人生で何か偉業を成し遂げたわけではない。見ず知らずの人にわざわざ本書を購入して読んでもらえるようなことなど、何もしていない。
これまでに私がしたことで最もクールなことといえば、まがりなにもイェール大学のロースクール(法科大学院)を修了したことだろう。そんなことは、13歳のころの私には想像もできなかった。だが、私と同じことをやり遂げる人は毎年200人もいる。そういう人たちの物語をあえて読もうなどとは、誰も思わないだろう。
最初の一文で予測が付いた人はそれなりにいるのではないだろうか。自伝とは共和党の副大統領候補に選ばれたJ・Dヴァンスの『ヒルビリー・エレジー ~アメリカの繁栄から取り残された白人たち~』である。
昨年に引き続き、第2回『beforeとafterの間』の開催が決まった。それに関する説明を先週配布した内部生向けの『志高く』より引用する。
現役大学生、もしくは社会人になって間もない元生徒に話をしてもらう会です。世の中に成功者の自伝は溢れかえっていますし、存命であれば講演会を行うこともあります。そのような場合、後(after)から当時(before)を振り返り、「私も若い頃は苦労したので、皆さんも夢を持って、諦めずに頑張ってください」という形になることは少なくありません。刺激をもらえることももちろんありますが、どこか遠くの、自分とは別世界の話のように捉えてしまいがちです。その間に位置している、まだ何者でも無く、将来に対する希望と不安を抱いている頃のありのままのみずみずしい思いに触れるというのがこの会の目的の1つです。
副大統領候補に決まったというニュースに触れ、「ベストセラーになってたんやったら読んでみよ」とその日のうちにアマゾンで調べてみたが在庫切れになっていた。すぐに手に入れられそうな楽天で7月18日に注文したのは良いが、結局届いたのは1か月後であった。そのように表示されていなかっただけで楽天も同様だったのだ。今、アマゾンで調べてみると、定価1320円(税込み)のものが大体5,000円ぐらいで売られていた。しかも中古である。4倍というのは、在庫がないときの一定の基準のようなものなのだろうか。と言うのも、お米が店頭から消えたため、アマゾンで5kgを9千円弱で購入せざるを得なかったからだ。水が無くなるのは理解できるが、地震によって電気も水道も止まったらのん気に米なんて焚いている暇はないのに、私が行ったスーパーでは普通のものは無いのにレトルトの方は残っていた。実に不思議な光景であった。私は地震に備えるためではなく、後2, 3日で尽きそうだったので買いたかっただけなのだ。「白米が無いと困るなぁ」となったのだが、食料自体が無くなるわけではないので恵まれている、ということや、売り上げが増えた分が農家に回れば良いが恩恵受けるのは小売店だけか、などとこれまで考えたこともないようなことが頭をよぎった。小売店が儲けて何が悪いのか、という話ではあるのだが、少しぐらい農家に還元されれば良いのに、と個人的には思う。ちなみに、第2回『beforeとafterの間』に登壇する現在大学2年生の元生徒は、2050年の食糧危機に備えるためにも、発酵食品関連の分野においての起業を見据えている。1年前、それに向けて既に動き始めている、という話を聞かせてくれ、私自身が興味を持ったこともありスピーカーをお願いすることにした。
内部生向けの『志高く』を書き上げたのは、本が手元に来る前のことであった。自分の中に存在する考えの中でオリジナルのものなどほぼ皆無であり、過去に読み聞きしたものなどで構成されていることは百も承知であっても、このように符合しているものに出会うと、「あっ、俺が考えてたことと同じようなこと言ってる」と嬉しくなる。他にも似たようなことがあった。高一の長男が小学校の頃お世話になった地元のサッカーチームの練習に2年ぶりぐらいに顔を出すというので、そのことについて「珍しいやん、どうしたん」と訳を聞くと、元チームメイトの同級生に近所で偶然出会って一緒に行こうと誘われたとのこと。しかも、3時間参加すればバイト代として3,000円ちょっと(おそらく最低時給)もらえるらしい、と続いた。元々阪大のサッカー部の学生がコーチとして来てくれていたのだが、時給が安いこともあり徐々に減って行き、ついにはゼロになってしまった。我が子がお世話になった総監督も一人では手が回らず、猫の手も借りたいという状態なので高校生にもそのようにお金を発生させてまで手伝ってもらおうとしているのだ。3時間で3,000円は大学生にとっては安いが、高校生にとってはありがたい金額である。それについて、「自分のことを優先させずにどんなことがあっても(クラブや習い事などで無理なときを除き)サポートするのであればバイト代をもらうのも悪くはないが、自分の都合の良いときだけちょっと顔を出して、練習メニューを考えるでもなく、一緒にただサッカーをしてお金をもらうというのは稼ぎ方として間違えている。社会に出るまではお金のことよりも、それによって自分がどれだけ人間的に成長できるかを大事にしないといけない。お金が必要なときはあげているわけだし、3,000円を断った代わりにお父さんがお小遣いとしてあげても良い。」という話をした。その話をした翌日、先の自伝で次のようなものに出くわした。
祖父は、製鋼工場で働こうとするジミーにもっと教育を受けさせたいと考えていたようだ。高校を出てフルタイムで働くようになれば、入ってきたお金が麻薬のように感じられると祖父はジミーに言って聞かせた。短期的には気分がいいが、人としてやるべきことができなくなる、と。
ヴァンスの祖父が息子のジミーを諭しているのだ。そう言えば、灘から京大医学部に進んだ元生徒(現4回生)と去年ご飯に行ったとき、「一般的な社会感覚を身に付けるためにあえてコーヒーショップで働いているんですけど、それを医学部のやつらに話すと、『何でそんな効率悪いバイトしてるん?』って話になるんですよ」ということを教えてくれた。また、店長からシフトのことなどで理不尽な要求されることを嘆いてはいたが、その時点で1年ぐらいは続いていたはずである。お金以外の目的があるから、そういうことも社会勉強の一環として耐えられるのだ。立派である。
J・Dヴァンスの話から始めて、岸田首相とバイデン大統領が不出馬を決めたことで総裁選と大統領選が一気に動き出したことに話を展開する予定だったが、いつも通りそこまでたどり着かなかった。
2024.08.20Vol.651 柳の下に
先週に引き続き、生徒の作文を紹介する。前回の生徒はこれまで何度か登場しているものの、今回の高一の男の子は初めてである。ちなみに、2匹目のどじょうではなく1匹目である。まずはイタリア旅行記をお楽しみいただき、その後に私がコメントするという形を取る。
先日、母親と二人でイタリアに10日間旅行に行ってきた。いつもとは違い、普段些細なことで喧嘩ばかりする父親を、防犯上の理由から日本に残してきたのもあって静かな旅となった。また、母親は英語が得意で、観光地で吹っかけられた法外な額のチップを値切ろうと交渉したり、道順を尋ねたりすることができるので、国外にいる時だけは頼りになる。
海外旅行自体は、去年の同じ時期に行った3日間のオーストラリア滞在が初めてだ。しかし、動物園のような定番の観光地には訪れたものの、南半球で秋だったので涼しかった、という印象しか残らなかった。海外に慣れる目的で半ば強引に連れていかれたのも影響していたはずだ。それとは打って変わって、今回は胸を躍らせながら、事前にガイドブックなどで観光地の歴史や注意点を自ら調べておいた。なぜなら、自分がもともと興味を持っていた遺跡が多く残っている場所が行き先だったからだ。情報をある程度頭に入れておくと、歴史などを踏まえた視点でものを見ることができる。実際、それが無ければ、遺跡を前にしても外観に対して「凄いなぁ」としか感じなかっただろう。
到着後はローマとポンペイを中心に回った。まずはローマのヴィットリオ・エマヌエーレ・二世記念堂、フォロ・ロマーノについて書く。
ヴィットリオ・エマヌエーレ・二世記念堂は一見すると昔の建物の様に見えたが、実際は景観に配慮した上で1911年に完成したローマのなかでは比較的新しいものだ。屋上からは都市全体が一望できてコロッセオやフォロ・ロマーノ、バチカンまで見渡すことができる。ここでは壁に施された彫刻や銅像を間近で見ることが出来た。そして、フォロ・ロマーノは、かつては地中に埋まっていたとはいえ、紀元前の凱旋門や、神殿跡の文字、彫刻、建物が21世紀まで完全に崩れずに残っていることに驚き、復元されたイメージの画像を見ると当時の繁栄が伺えた。
ローマは、現代の建物の周りにある古代の建築物を完全に復元をしないで補修だけを施して遺跡を不完全な状態に残すことで、現代と古代の調和を取っている素晴らしい都市だと思った。
次に向かったポンペイは全く異なる様相を示していた。ローマは遺跡の周囲の道が整備されていた関係で地下鉄が多く、石畳が広がっていた。他方のポンペイでは、電車が地上を走行していた。街と遺跡がそれぞれ別区画として分けられており、人々の居住地域と観光地が明確に線引きされていることが背景にあるのだろう。また、ローマは歩いていると都市全体が観光地として成立しているが、ポンペイは遺跡のみが外国人旅行者に注目されているので、観光客は遺跡だけを見て満足しているので都市としては全然注目されていないのも事実である。
そんなポンペイで心に残った場所をいくつか紹介する。まずは遺跡への出入口の近くにある港跡。今は内陸部にある現地が古代は海沿いにあったことが分かった。日本の弥生時代の時にはすでに船を完成させていたポンペイの人々の技術に驚かされながらも、船の大きさやどのくらいの距離を航行していたかなど使い道に疑問を持った。他にも、マーケットは現代と同じように市場として使われていた。今では真ん中に柱の跡があって端の方には区分けされた倉庫と、当時の噴火で人が亡くなって体が朽ちることで出来た空洞に石膏を流し込んで出来た石膏像が3点置かれている。近くには運送業を表している荷物を運ぶ人が彫られた石板があった。当時から物々交換ではなく貨幣経済や運送業などがあって驚かされた。
そして、事前の下調べをしておいたからこそ、そこには載っていない遺跡内の魅力への気づきもあった。道路が歩道と車道に分けられていたり、道路の所々に道を渡るための飛び石があったりと、様々な工夫に驚かされ、ポンペイが噴火によって埋まる前の様子に興味を持った。それについて理解を深めていくことが帰国後の「宿題」とも言える。
今回は旅に主体性や目的があったからか、前回のオーストラリア旅行より日本との比較に目がいくようになっていたため、人々の生活における違いもとても印象に残った。最大の違いは人の生き方にあると思う。日本人は時間を細かく気にして生きているので、それがバスや電車で時刻表通りに動くことに表れている。逆にイタリア人は時間をあまり気にせずに生きているので、電車の遅延が当たり前になっていた。公共交通機関がバスと電車しかなく、日本とは違い電車が少ないかわりに、道路が広くてバスの本数が多く、地下鉄やバスに時刻表が無いことに驚かされながらも、外国人に日本の公共交通機関が凄いと言われている理由がわかった。ただ、現地では一般的な食事の時刻も遅く、家族との時間を大切にしている様子だった。彼らは自分の行動を自ら決めている分、時間を有意義に使えており、スケジュールに管理されているような人生よりも楽しくマイペースに生きている姿にうらやましさを感じた。
この作文を書くうちに、今回の旅の思い出が二十日ほど過ぎた今でもよく印象に残っていることに気付けた。それは自分の興味がある所を訪れたので写真を積極的に撮ったおかげでもある。前回は十枚程しか撮っていなかった。だから、密度が濃い時間を過ごすためにも、英語を勉強して大学生になったら自分で旅程を決めて外国に行く。
どじょうの話から。実は、彼の作文を掲載することが先に決まっていたのだ。ただ、まだ自分のことを書く作文に慣れていないこともあり、時間が掛かることを想定して、帰国後初回の授業を行った8月2日の時点で、「8月20日版に載せるから、きちんと書き上げてくれよ。もし、できてへんかったら、651号にして初めて期日を守れへんかったことになるからな」と発破を掛けておいた。
次に内容について。冒頭の段落の「国外にいる時だけは頼りになる」について。お母様の名誉のためにも、これまでお母様と直接いろいろとやり取りをした私の実感からも「『だけ』というのはないやろ?」と二度三度と本人に修正を促したのが、「いや、『だけ』でしょ」と頑なだったので、結局そのままになった。生徒の作文を載せるとき、最初に書き上げたものから、どのようなやり取りをして完成にいたったかを本当は披露したいのだが、とんでもない字数になってしまうので最終版を読んでいただくことしかできないのは非常に残念である。それをすれば作文をすることの楽しさとか意義をもっと理解していただけるはずだからだ。
今回の作文は彼自身も、我々も相応のエネルギーを注いだ。彼が今回の旅行をいろいろな角度から振り返り、それが今後に活かされるのであれば、我々も時間を掛けたかいがあるというものである。このような作文は、書いた本人、教えた我々、読んだ人たちのためになってこそ意味がある。近江商人の言葉を用いれば、「三方よし」になってこそ、となる。
2024.08.13Vol.650 『蒼穹の昴』を読んで
今回は高2の生徒の読書感想文を紹介する。浅田次郎の『蒼穹の昴』は私自身随分と前に読んだ。一時期彼の作品にはまっていたのはこの本がきっかけだったような気もする。それなりに大学受験を意識する高校2年生に、これだけの長編のものを課題図書とする中高一貫校は素晴らしい。
生徒が作文を書き上げ、私がそれに対して指摘をし、生徒がそれを自分なりに消化して修正をする。そういうことを繰り返しながら、少しずつ、でも確実に良いものに仕上がって行く過程と言うのは中々心地良いものである。では、お楽しみください。
「変革の果てに」
中国と言えば、何千年もの間世界の中心だった。周囲の国と朝貢貿易を行い、冊封体制に組み込むのは昔からの伝統であったし、日本の権力者たちも幾度となくそのような関係を結んだ。そんな権威ある伝統は、十九世紀に入ってから、フランス革命や産業革命を経て近代化を一早く成功させた欧米の進出が始まったことで揺らぎだした。アヘン戦争、アロー戦争等を経て、遂には十九世紀末にかつての朝貢国である日本との戦争に負けたことを皮切りに列強の領土分割の標的となるほど落ちぶれた。この本では、そのように没していく清を改革によって生き永らえさせようとする官僚達、この手で終わらせようとする西太后、またその混乱に紛れ私腹を肥やそうとする者達の葛藤や攻防が生々しく描かれる。そのような中、一人異彩を放つ人物がいる。主人公の李春雲だ。彼は宦官にしては珍しく、多くの者の支持を得て大きな恨みを買うことなく出世したが、それは彼が、西太后に首を切られた宦官達から三年間教わった、紫禁城を生き抜くためのノウハウだけの力ではない。皆が惹かれたのは彼の利口さ、明るさ、そして優しさだった。彼は西太后の第一の理解者となるまで出世したが、決して高ぶらず、寧ろ周りの人々に優しく接し続けた。西太后のために様々な情報を手に入れる一方、幼馴染で変革派の一員でもある梁文秀の身を案じ、敵陣営でありながら忠告することもあった。それは、彼が絶望的な貧困出身で、失うものが何もなかったからかもしれない。自分が得たいものがないから人に尽くす他はなかったからなのかもしれない。いずれにしろ、彼の人情深さは思惑で溢れかえっていた当時では特異である。自ら危険を冒してまで人のために尽くす人々の姿はこの本で何度も描かれるが、彼に比肩する者はいない。
人を思うという意味では、変革派はそのような人々で構成されていた。彼らは沈み行く清を民のためにより良いものにしようと奮闘していた。先に挙げた幼馴染の文秀もその一人である。彼は科挙を首席で登第し、エリート官僚として出世した。紆余曲折あって、西太后が自ら政界を去ることで、変革派の時代が到来した。彼らは康有為を中心に政治改革に尽力したが志半ばで、西太后を頂点に置いた旧勢力に実権を明け渡すこととなった。これは西太后の仕業ではない。彼女は政界の覇権争いに利用されたに過ぎない。いつの時代もそうであるように、猪突猛進で周囲が見えなくなってしまった変革派は次第に多くの反発を買うようになり、利己的でずる賢く既得権益にあやかっていた人々に上手く出し抜かれたのだった。
この本は中華の大帝国の滅亡へのカウントダウンが描かれている訳だが、従来の政治体制の崩壊で思いつくものとしてフランス革命、明治維新、ソビエト連邦の誕生がある。面白いことに、これらの改革を押し進めた人々は共通して超富裕層でも極貧困層でもなく、身分や資産もそこそこで学もあるがそれ故に虐げられていると感じることも多い、いわゆる「意識の高い」人々が多いように感じられる。彼らは総じて自分達や弱い民衆達の苦しみは既存の古すぎる体制とその権威達の贅沢、怠惰に原因があると考えている。だから伝統を一掃し、自分達の思う民衆のための政策を次々と打ち立てるのである。確かに内容は間違ったものではないことも多い。だからと言って必ずしも上手くいく訳ではないことは歴史が証明している。この本の変革派は亡命するか処刑となる。革命で国王を処刑したフランスはその後何度か帝政に戻り、ソビエト連邦は崩壊した。
彼らはあくまで自国のためを思い行動したに過ぎないが、結果的には国境を越え様々な良い影響を及ぼしているところは興味深い。フランス革命があったからこそ、他の国の民衆も立ち上がることができた。身分によって棲み分けが行われていた社会体制も、背景に関係なく自由に生きることができる人も増えた。ソビエト連邦は新しい政治体制である社会主義を築き上げ、崩壊することによって社会主義の限界を示した。またそれにより、「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、過去の他の全ての政治形態を除いては。」というチャーチルの言葉もより確固たるものとなった。彼らの政治は上手くいかなかったかもしれないが、彼らは間違いなく時代を一歩進展させたと言っていいだろう。では何が悪かったのだろうか。民衆一人一人に上手く寄り添うことができなかった。彼らは中央で全てを一括で管理しようとしたのだ。それは従来の絶対的な権力者による中央集権体制と何ら変わりはなかった。また、貧しい田舎の農民達は国王や皇帝を神格化しており、彼らにとって改革者達は反逆者でしかないのだ。ここで、亡命中の文秀の言葉を引用しよう。
「僕らのなすべきことは、決して施しであってはならなかった。日照りの夏はともに涙を涸らし、凍えた大地の上をともに転げ回ることこそ、彼らの中から選ばれた政治家の使命なのだということに、僕はついぞ気づかなかった。」
彼は仲の良かった春雲がどれだけ苦しい生活をしていたかさえ知らなかった。そんな彼が四億の民一人一人を思って政治を行うのは不可能であっただろう。自分達が何を必要としているのか、民衆達が一番困っているものは何か、どうしたら幸せになれるのか。それを見極め、偏重のないように手を打てる人が本物の「政治家」であり、「改革者」であるのだ。
2024.08.06Vol.649 貴重な6年生の夏休み
この夏休み、6年生の三男と毎朝一緒に教室に向かっている。2人きりではない。豊中校の生徒で、通常の算数と理科に加えて夏期講習期間中だけは国語も西北校で受講する中学受験生の男の子も同乗しているからだ。家が近所であること、毎日お母様が朝夕の2回送迎することは大変であること、三男とそれなりに仲が良いことなどが理由である。「など」としたのは、それ以外に、授業開始の8時半にちょうど間に合うように来ようと思えば朝の渋滞に巻き込まれて遅刻する可能性があることも関係している。7時10分に待ち合わせをして毎朝8時前には到着している。ひと言目が「遅刻してすみません」となるのと、15分でも20分でも良いので勉強や読書をして、その後少し休憩をしてから授業に臨むのとでは一日の充実度が違ってくる。
仕事柄、息子たちの中学受験について尋ねられることは多い。長男が幼稚園に通う前からそのような質問をされていた気がする。その度に「させる気は全くないです」と答えていたのだが、長男が小5ぐらいの頃だっただろうか、このままだと目標に向かって頑張るということをまったく知らないまま中学生になってしまう、ということに親として危機感を覚えた。別にそれが受験である必要は無かったのだが、スポーツには本格的に取り組んでいなかったし、音楽とは無縁であったため、現実的な選択肢がそれしかなかったのだ。本格的では無かったものの、受験直前でも週1回のサッカーには休まず通わせていた。不合格を突き付けられたら少なからず何か感じてくれるだろう、ということを期待して方針転換をした。私自身がそうであったからだ。自分の成功体験を元にそれと同じような道を歩ませようとする親も少なくないが、私の場合、自分と同じような失敗体験をより良い形で経験させてあげることに関心がある。どのようなタイミングで何にどれぐらいの力の入れ具合で立ち向かわせるかということを考えるのが父としての私の役割である。落ちることを前提に受験をさせたのだがたまたま合格した。それを間近で見ていた2学年下の二男は自ら受験をすると言い出した。長男のときとは違い、合格を目指して挑ませたが、こちらは逆にうまく行かず地元の公立に通っている。そして、三男。二男のように強い意志によってではなく、何となく「受験する」と口にはしていたが、勉強云々の前に、人間として基本的な部分をもっと育てないといけないと判断して、6年生になる前には受験をさせないことに決めた。特に6年生になってからは週末の2日間ともサッカー漬けになっている。同じ頃の長男、二男と時間の使い方が全く違う。3人の中では一番力を入れているサッカー、レギュラーで出られなくても自主練習の時間が特段増えるわけではなく、練習を工夫するわけでもないことに不満を感じている。先週末、半年ぶりぐらいに練習に付き合ったのだが、数多くある課題の中で、まず何をできるようにしたいか、そのためにはどのような練習をする必要があるのかを考えなさい、ということを具体的なメニューを行いながら伝えた。妻は、周りの熱血パパたちのように私がもっと直接的に関わることを望んでいるのだが、私はそういうことに興味が無い。もちろんそのようにすれば、どれぐらいかは分からないが、今よりは断然結果は出るようになる。しかし、それでは後に繋がらない。大手進学塾の先生が、親に向かって「どこでも良いから一校合格するという成功体験をさせてあげてください」と訳の分からないことを平気で口にするが、成功体験も失敗体験も、その後の人生に生きてこそそのように呼べるのだ。それゆえ、第一志望校の合格ですらそれに値しないことは往々にしてある。長男のときも二男のときも、講師たちには「私の子供は後回しにしていい」ということを伝えていたし、本人たちにも「他の子が優先だから、先生の手が空いていなければ、ボーっとするのではなく自分でやることを見つけて、それをしておきなさい」と厳命していた。ある算数の問題の解き方を教えることよりも、先で生きる物事への取り組み姿勢を身に付けさせることを大事にしながら育てている。
さて三男、受験はしないが、冒頭でも述べたように上の2人と同様に6年生の夏休みは毎朝一緒である。2人がそうであったように、ポッドキャストでニュース番組や『コテンラジオ』で歴史の解説を聞きながら会話をしている。言葉の意味や漢字、内容に関することなどを質問している。子育てなどうまく行かないことだらけだが、そういう私の問いかけに、「分からん」、「そんなんどうでも良い」と返すことはない。考えた結果適切に答えられなければ、私の説明にきちんと耳を傾ける。そういうやり取りをできる関係を築けていることには満足をしている。三男が5年生の頃、「これからは一緒に城巡りをして、二人の時間を増やそう」と決めたのだが、サッカーの試合が増えたためまったく持って実行に移されていない。しかし、会話の時間は明らかに増えている。人間的に少しぐらいはまともになっているはずである。