2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2024.07.19Vol.29 口下手の理屈(三浦)
作文をし続けていれば、話すことは上手くなるのだろうか?
「うちの子、話すのが苦手なんです」と、親御様からご相談いただくことが稀にある。その苦手の内訳は、大抵の場合は「たくさん話すけど、話がわかりにくい」「要領を得ない」だ。もちろん話すことと書くことは無関係ではないが、全くのイコールというわけでもない。ただ、ある一定のラインまでは「書く」を通じて思考を整理する練習をすれば、それがじわじわと「話す」時に繋がっていくのではないか、とは思う。出来事の要約や因果関係の整理などはそれにあたる。とはいえ一定のラインを越えれば、それは「話す練習」でなければ乗り越えられない壁になるのだろう。ちなみに、私はとことん話すのが苦手である。人と話した後はああ言えばよかったと反省しっぱなしだ。雑談も頭の中で「こういうことで話しかけたらいいのかなあ」と悶々と考えるばかりで口には出せず、例えば英会話に通って「英」ではなく「会話」を練習できないものかと画策している。
話すのは苦手と言ったが、授業中の生徒とのやり取りではあまり詰まることがない。この文章を書くにあたって、それはなぜなのかを考えてみた。もちろん第一には教材への慣れや難度のこともあるのだろうが、もうひとつ、どこかの模試で取り上げられていた文章を思い出した。コミュニケーションの比重が、いかにテンポ良く軽妙に切り返すかに大きく偏ってきている、という内容だった。相手が当意即妙な返答ができずに少しでも押し黙れば「言い返せなかった」と判断されてしまう。論破だのなんだの、短絡的なやり取りが増えたからだろう。また、筆者は「自分は講演という多くの人に話を聞いてもらう機会があるが、そうではない人にとっては、ただ聞いてもらうという経験は稀である」とも述べていた。
それと照らし合わせれば、生徒とのやり取りは、主にこちらの「問い掛け」を相手に聞いてもらうものであり、同時に「問い掛け」への返答を待つことだ。授業外の雑談はさておき、添削においては「考えながらやり取りをする」という共通認識がある。聞いてもらう機会と返答を考える時間、生徒にも講師にもそれが約束されている。(もちろん、講師がボールを抱えたままになってはいけないので、こちらのレスポンスは速くなければならない。だが、相手の『考える時間』はこちらにとっても『考える時間』である。)
そういった時間をかけた対話はしかし、現実社会ではそう上手くはいかない。よく言われることだが、人に与える印象は、表情や声色といった非言語コミュニケーションが大きく左右する。話している内容は二の次…とまではいかずとも、それよりも非言語のテクニックが物を言うのは間違いない。考えて言葉に詰まっているようでは聞いてもらえない場も多いだろう。特に演説のようなパフォーマンスであればなおさらだ。
ずいぶん前に政見放送を眺めていたのだが、そこでは明らかに政治家としてどうなのだろうと思ってしまう人ほどトークが上手く、惹きつけられたのが怖かった。話し上手で魅せ上手、どうしても聞き入ってしまうパフォーマンスだった。投票しようとはならなかったものの、「口が上手い人のことは一度疑ってかからないと」としみじみ痛感した出来事だった。
意見作文や小論文に生徒が取り組む際、横からいつも、「形式より中身を充実させるのが先だよ」と声をかけている。見栄えだけが良い文章ではつまらないし、正直なところ、見栄えなどはある段階までは後からどうとでもなる部分でもある。
だが、こう書きながら、美辞麗句にごまかされず、「中身」を見極める力というのは、書き手はもちろんのこと、受け手にこそ求められるのではないかと思い始めた。そして、その受け手の力というのが、思っているよりも育っていないのではないだろうか。
そういう意味では、もしかすると、「書く」ことは、「話す」よりも「聞く」ことに関わっていくべきなのかもしれない。文章を綴っていく過程というのは、実際に書いた人間にしかわからないもの、想像のつかないものである。「なにを伝えるべきか」を練り上げて作文をしてきたのなら、「この人はどんなことを伝えようとしているのか」に主眼を置けるようになるはずだ。そして、それを読み取るまでに「時間」をかけられるようになるのではなかろうか。
それは文章だけでなく、会話でもそうだ。私は話下手だが、「相手が何を言いたいのか」にはなるべく気を配っているつもりだし、ある程度までは出来ているつもりである。出来ていない気がするときには、「それってこういうことですか」と確認をとることもある。そこからもう一歩引き出すための問い掛けの引き出しを、もっと持っておくべきなのだろうけれど。
いろいろ脱線して、話下手が字面からありありと伝わってしまう文章になってしまった。文章も話も、もう少し面白くできるようになりたいものだ。