2024.07.30Vol.648 考えようとしないのなら考えるように持って行くしかない
納得の行かない文章をアップして自己嫌悪に陥るのを防ぐため、最近は、前夜の段階でほぼ書き上げておいて、当日に仕上げるという手順を踏んでいた。夏期講習期間は授業が忙しくなるので、月曜の夜ではなく、一日前倒しするはずだったのだが予定が完全に狂ってしまった。それは、先週末の2日間、大阪南部の泉佐野で開催された小6の三男のサッカー大会に付き添っていたことと関係している。炎天下で観戦したことで思いのほか疲れ、1日目の夜は2人で近くのホテルに泊まり、一緒にサウナを楽しんだりご飯を食べに行ったりしたためほとんど進められなかったからである。
さて、その三男、Jリーグのクラブが運営する小学生チームに所属していることもあり、チームメイトに元プロサッカー選手で現在トップチームのコーチを務めているお父さんの子供がいて、今回そのお父さんと初めて話す機会があった。そのやり取りは以下のようなものであった。「コーチたちは、他のチームと違って選手たちを口汚くののしることも具体的過ぎる指示を出すことも無く、かなり良い声掛けをしますね」との私の問いかけに対して、「やるべきことを具体的に伝えた方が勝つ確率は上がりますが、それでは子供たちは考えるようになりません。また、町の小さなチームであればスクール生を集めるために結果を出し続けないといけないのですが、Jリーグのクラブチームという看板があるので、目先の勝ち負けに拘り過ぎる必要がない、という違いがあります」という答えが返って来た。試合と試合の合間に車に戻って、別のテーマで書き始めていたのだが、上の会話をしたことで変えることにした。一つは、「志高塾は町の小さな塾だけど、そのような結果の求め方はしない」ということについて、もう一つは、会話とは直接的には関係ないが、三男のサッカーに関して「一つ上のレベルの環境に所属するのは、刺激をもらうという外的な要因ではなく、自分自身が楽しいという内的なもののためである」ということについて。
体験に来られた方に、受験に際して過去問対策までするということを説明すると驚かれることはそれなりにある。トップページの下の方にある「受験専門塾ではない、ということはどういうことか。」の欄の最後の段落で、「つまり、『受験専門塾ではありません』というのは、『志高塾は作文を通して培った力を、読解問題を解かせることでより強くしなやかなものにし、将来にも受験にも役立つ力を身に付けさせます』という意思表示なのです。」と明確に述べているのだが、誰もがそこまで読むわけではなく、また、最初に目に付くところには、「志高塾は、作文をカリキュラムの中心に据えた個別指導塾です。」の欄があり、そこでは受験の「じ」の字も出て来ないから誤解されるのも無理はない。私自身、受験の結果にはめちゃくちゃこだわっている。しかし、それは生徒を集めるためではなく、その子自身のために、である。HP上に進学先を出しているが、それは、志高塾にはいろいろな学校に行く子が通っています、ということを伝えるためである。そうではなく、トップ校を目指す子たちだけの塾、もしくは中間層だけの塾、などとなってしまうと、同じようなことをやらせておけば良いとなり、教える我々の思考自体が固定化されてしまう。それは作文を指導する上でマイナスにしか働かない。
「Fラン(Fランクの)大学」という言葉があるので、それに合わせて学校のランクをAからFまでの6つとする。中学受験をした10人のうち3人がA、4人がB、残りの3人がCに進学したとなると、すべてCまでに収まっていて、かつ3割がAなのでいかにも良い結果を残したように見える。しかし、Bの2人は、普通にしていたらAに合格できたかもしれない。一方、Cの3人のうち2人は本来Dに行った方が良かったかもしれない。Dを強引にCに引き上げたのであれば、これも普通にしていないことになる。普通というのは、睡眠時間をきちんと取って、受験に直結しないことはすべて無駄だと切り捨てず、受験勉強のストレスをゲームで解消しないような生活のことを指している。今、私の手元に、高1の女の子の1学期末の定期試験のコピーがある。彼女の通う中高一貫校は、今年度の実績で言えば約2割が東大、京大に合格している。その中で、今回、彼女は数学で2教科ともトップ1割に入っていた。開示された結果から、彼女は合格ラインぎりぎりで中学に入学したことは分かっている。中学受験のとき、どれだけ「あほ、もっと考えろ」という言葉を投げつけたかは分からない。あほ、といのは頭が悪いということではなく、考えようとしない姿勢のことを否定してのものである。講師たちにも伝えているが、能力を否定することはあってはならない。
算数や数学が分かりやすいが、あることを教えたときに瞬間で理解できる子もいれば、1分掛かる子、中には5分要する子もいる。それはその時点での理解力の話なので、とやかく言うことではない。消化しきるまでの時間はきちんと取るし、分からなければ質問するように伝えている。3分で「分かった」といった子が、後日、同じ問題でつまずいたら、「少し前に分かったといった問題が解けへんって、どういうことやねん。人より理解するのに時間が掛かるんやったら、簡単に手放すなよ」とめちゃくちゃ怒る。その子は、5分必要だったのに7, 8割の理解度で切り上げたか、3分は適切だったものの「折角時間掛けたんやからきちんと頭に残さないと」という気持ちが足りていなかったのだ。小学生でそれができる子は多くはない。それを分かった上で、「向き合い方が間違えている」と怒るのだ。そうでもしなければ、やったらできることまで「やってもできへんし」と言い訳をし続けることになる。教える者としては、その子の理解できるかできないかの境界を見極めた上で、子供達がそこを越えられるように持って行ってあげなければいけない。
朝、教室に来たときに机の上に置かれていた彼女の成績表を一通り眺めて抱いたのは、「小学生の頃、考えようとしないことを前提にして、そのマイナス分を問題量で補うのではなく、一つ一つの問題に時間を掛けて、考えられるようになることを諦めずに追い求めて良かった」という感想である。ボーダーライン上にいることは分かっていたが、たくさん解かせてその場限りの合格率を上げに行くことより、その先も見据えた取り組みをさせていた。それも、お母様の「(今、実際に通っている学校が)不合格だったら、地元の公立に通わせます」という強い意志があったからこそ我々が打てた手である。
結局、2つ目の「一つ上のレベルの環境に所属するのは、刺激をもらうという外的な要因ではなく、自分自身が楽しいという内的なもののためである」には触れられずじまいであった。まあ、よくあることである。