2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2024.06.07Vol.24 わたしが思い出になる時(徳野)
当塾が扱っている教材の中に『意見作文(基礎)』と呼ばれるものがある。基本的には中学生以上を対象に、23個のテーマ(うち3個には複数の設問を設けている)をこちらで用意している。日常に関わる題材も多く、まずは400字で書くことを通して自分自身を見つめ直す大切さを感じ取っていくことが狙いの一つだ。そして、多くの生徒が苦戦するお題として「あなたが大人になったら、どのようなことをしたいですか?」というものがある。この「大人」とは「成人」を意味する。だから、子どもたちは初め、飲酒やバイクの運転など、18歳もしくは20歳になると共に法的な制限が取り払われる行為を羅列する。ところが、それでは「自分はなぜそれをしたいのか」という動機に関わる部分が薄くなり、内容が全く膨らまないという事態に陥ってしまう。この場合は「何をするか」よりは「どうなりたいか」という大きな指針を探る方が人生の選択肢を増やすことに繋がる。
しかしながら、未だしっくり来ていないのが「大人=成人」という定義付けだ。それは何より、今年で26歳になる私自身に「大人になった」という実感が無いからだ。10歳の精神のまま身体だけが大きくなったようなイメージを自分に抱いている。おそらく小学4年生が私の自我が目覚めた時期なのだろう。そういえば、児童書以外の小説を初めて読破したのもその頃だった。当時味わっていた「大人の仲間入りをした」という誇らしさは鮮烈に覚えている。「大人の仲間入りを果たした」は流石に見当違いすぎるが、その実態に近い「大人に一歩近づいた」という感覚はふとした瞬間に湧いてきたことがある。
私は映画鑑賞が趣味なのだが、今年に入ってからミニシアターより大手のシネコン(シネマコンプレックス)に足を運ぶ回数が増えている。この事実には我ながら少し驚いている。純粋に興味を惹かれた作品が上映されている劇場を選んだ結果ではある。だが、高校・大学生時代に形成された、「マジョリティ」があえて好まないであろうものに触れる行為こそアイデンティティの表出だ、という信念とも言える考えはだいぶ鳴りを潜めていることに気づいた。映画や音楽のようなコンテンツに自身の独自性を求める人間は視野狭窄で排他的になる。そういう私には根拠無く他者を見下しているような所があったはずだ。そういった青臭い姿勢が消えていないのは確実だが、少なくとも、去年までの己を気恥ずかしく思う視点を持っているのは「大人」の階段を一つだけ上がったからだろう。
過去の自分を「恥ずかしい」と思うこと、つまり自分に対して「含羞」があることは、「大人」とは何かを探る上で重要なポイントになると思う。
ある中学受験生の男の子は去年から、授業後に漢字テストに取り組んでいる。3月くらいまでは合格にはほど遠い点数ばかり取っていたので、その日覚えられていなかったものを全て10回ずつ書き取り練習するために夜まで教室に残る必要があった。当然のことながら本人は早く帰ることが叶わず、泣いたり、ふてくされてなかなか動きだそうとしなかったりしていた。さらに、そのせいで帰宅時間がさらに遅くなる、というまさに悪循環である。彼には「覚えられていないのは自分の責任なのだから甘えるな」という言葉を投げかけ続けた。すると、6年生に上がった頃には流石に懲りたのか、態度は随分と改善され、まだ明るい時間帯に教室を出ることができるようになったのを本人も喜んでいた。そんな彼を「昔は泣きながら夜道を歩いていたのにね」と茶化したところ、「僕の黒歴史を掘り返さないでください」と返された。その時の本人の顔は「含羞」のある苦笑いで、柔らかい表情を浮かべるようになったことが意外だった。去年の彼であれば仏頂面で黙り込んでいただろう。同時に、「黒歴史」というネットスラングを使う余裕があるところにもささやかながら成長を感じた。過去の自分に対して深刻になりすぎず、かつ、それを「良くなかった」と客観視できているのは、彼が出来ることを増やしてきたからこそ生まれた心の「ゆとり」のおかげのはずだ。少しずつ「大人」になっているのだな、と大袈裟かもしれないが心打たれた瞬間だった。(しかしながら、漢字の勉強の質をもっと高めてほしいのは今でも変わりはない)
人生の中で「大人になった」ことを正真正銘の完了形で自覚できる人はけっして多くはないはずだ。私に関しては未熟者として死んでいく可能性が高い。だが、「あの頃の自分は駄目だったな」という風にしみじみと恥ずかしがることができるのであれば、それは人間としての成熟具合が進んだことの証拠である。自己嫌悪していてはむしろ、過去に正対できなくなる。「ほろ苦い思い出」の距離感を目指して日々を邁進するのだ。