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2024.03.19Vol.632 志望校欄

 先に連絡から。来週1週間は教室がお休みなので、それに伴いブログもお休みです。
 小4から約9年間志高塾に通った高3の男の子が浪人することになった。そして、このタイミングで本人と話して欲しいとお母様からお願いされた。元々の志望校は京大だったのだが、夏休みの前後に地方の旧帝大に変更した。その大学の方が、彼の学びたい分野では強いとの理由からであった。そのときにもお母様から相談されたのが、私は特段それに反対することは無かった。少しでも偏差値の高い大学に行くことが良いとは考えていないからだ。同じ学部でも、大学によって得手不得手はあるので、そこまで考えていることはむしろ評価すべきことである。
 事前に、浪人しても志望校を変える気が無いことはお母様から伺っていた。話をするにあたり、私が用意していた質問は次のものである。「京大より、その大学にやりたいことがあることは分かった。じゃあ、東大と比べたらどうなのか。もし、東大だとしたら、それを目指さない理由は何なのか」。あれは、確か中学生と話していたときだと思うのだが、「俺って意外と、生徒の意見を頭ごなしに否定することは無いで」と伝えたら、その生徒が過去の私の言動を振り返って「言われてみたら、確かにそうやわ」と返って来た。ベクトルの向きが明らかにおかしなときは修正が必要になるが、そうで無い限りは方向に関しては微調整に留めて、できるだけ線が伸びるようにしてあげることが私の役割である。その方向を変えるときでも、「あなたはこっちに行くべきだ」と無理やり仕向けるのではなく、本人が自分の意志でそちらに向くようにしてあげなければいけない。納得できなければ、やる気が湧き上がり続けて来ないからだ。
 話を戻す。私が尋ねると、「それは東大です」と返って来た。それにも関わらず東大を目指さない理由は「能力的な問題だ」というような返答があった。もちろん、それは想定内のものだったので、「あれやろ、やってもできるようになる自信が無いんじゃなくて、やり切れる自信がないんやろ?」と問うと、少し間を置いて「そうです」と返って来た。その後、いろいろなことを伝えた。
 もし、志望校を変えないとすれば、大して勉強しなくても合格できるレベルに到達するから、だらだらしてしまう。他にやることがあれば良いけど、浪人生なので、それをするのも難しい。また、2次試験で国語があるのは東大と京大だけなので、共通テストのためだけであれば、文章を深く読む機会が減ってしまう。それ以外には、社会は倫理政経を選択しているので、世界史にするのも一つの手かもしれない、という話もした。もちろん、一般的にそんな提案はしないことは重々承知の上である。ここでも何度か紹介しているはずなのだが、ポッドキャストで、『COTEN RADIO | 歴史を面白く学ぶコテンラジオ』を長らく聴いているのだが、その内容が中々頭に入ってこない。それは私が世界史を高校生時代に学んでいなかったせいで、基本的な流れが頭に入っていないからだ。最近で言えば、トルコ建国の父であるムスタファ・ケマルに関するシリーズ(1回約30~40分で14回)だったのだが、恥ずかしながらその名前すら知らかった。そのような状態では、内容が自分の頭の中で立体的に組み上って行かない。それ以外にも、最近できていなかった読書も再開してはどうか、と。大学受験に向けて一年多く勉強することになったのだから、単に志望校に合格するだけではなく、人間的な成長もして欲しいのだ。二次試験向けの国語、世界史、読書はそれに少なからず貢献するというのが私の考えである。
 「志望校は高く設定した方が良い。そうすれば、そこが無理でも、それなりのところに収まる」という訳の分からないことをいう大手塾の先生は少なくない。上から順にA、B、Cとすると、「Aを目指せばBには行けるが、最初からCにするとCにしか行けない」というのが彼らの理論である。親や先生がそのように考えているだけで、生徒がAしか見ていなければまだ分かるのだが、当の本人も上のように考えているとすれば、それはAではなくBを目指していることになる。当たり前の話であるが、高い低いというのは絶対的なものではなく相対的なものである。Aに行けそうな子がAを目指すのは妥当である一方で、Dの子がBとなるとかなりの無理な設定となる。そうすると、大抵の場合は量でその差を補うことになるので、とにかく詰め込むことになる。大事なのは、1つ1つしっかり考えることである。Aの子が発展問題を解くのに5分掛かるとする。Bの子は同じ時間を費やして応用問題でそれをする。Cの子は標準問題で、Dの子は基礎問題でそれをすべきある。目標を闇雲に高く設定させるのではなく、その時点でのその子にあったレベルの問題を与え、きちんと向き合えているかを見守り、必要に応じてサポートするのが教える者の務めである。それを繰り返すことで、ある時点でDであった子が、C、Bとレベルを上げて行く可能性が生まれるのだ。
 目標と言うのは適切に設定するものである。先の彼にとっては、東大がそれに当たる。二人きりで話をした翌日、母子一緒に予備校の説明会に参加したとの報告をいただいた。志望校欄には「東大」と書いてありました、と。最終的な受験校を決める権利は私にはない。だから、あの日、「どの大学を選ぶかは自分で判断すれば良い。ただ、東大模試でA判定は取れよ」と伝えた。東大模試でA判定を取った上で東大に行くのか、それとも現役の頃と同じ大学に行くのか。現時点で私の中では2択である。もちろん、もっと他に学びたいことが見つかればそちらに行けば良い。とにもかくにも、彼が、この1年間勉強をやり切って自信を取り戻すこと、それだけではなく人間的にも成長すること。それを期待している。1年後、良い結果をここで報告したい。

2024.03.12Vol.631 歩んで来た道歩んで行く道

 予定通り、前回告知した高校3年生の体験談を掲載する。また、「十人十色」の後、彼はある親御様から質問を受け、メールで個別に回答したのだが、内容が良く、かつ2,000字を超えていたので、「しめしめ」となった。「ブログで使えるじゃないか」と。2週連続はさすがに手抜きが過ぎるので、志高塾の公式Xで、今週中にポストいたします。そちらの方も楽しみにしておいてください。元々は、「歩んで来た道、歩んで行く道」としていたタイトル。道は切れ目なく続いて行くので、読点は抜いた。
 
 2024 年 2 月 9 日。岡山大学医学部の「バカロレア・推薦枠」の合格発表があった。自分の受験番号を見つけた時の感動は忘れられないが、こうして大学の合格に辿り着くまでの道のりは紆余曲折そのものだった。これまでの自分の経験について、先日の「十人十色」でも話す機会を頂いたが、本稿ではより詳細に記す。
 私の父は甲陽学院を卒業し大阪大学医学部に入学した、いわゆる受験のエリート街道を走ってきた人間で「息子にも同じような道を歩ませて、医者にならせたい」という強い思いを抱いていた。幼少期から、「医師になるのがいい」「いい仕事だぞ」などと言い聞かされていて、小学生の私は「パパが言うから」「なんとなくいい仕事そうだから」という理由で医師を志していた。よって必然的に(父と同じように)甲陽学院などの難関中高一貫校を目指す流れとなり、受験勉強が始まった。
 小学 4 年生のころから大手進学塾に通い始め、それ以前から通っていた志高塾でも国語に加えて算数の授業を取り始めた。受験勉強を半ば強制的に「させられている」ような状況だ。成績に対する父の期待は当然高かった。しかしながら、大手進学塾で毎月実施されていた「公開テスト」での私の成績は酷いもので、初回こそ1500 人中 600 位程度の順位だったが、回数を重ねるごとに下降し、最終的には常に 1200 位前後を彷徨っていた。それに伴ってクラスも落ち、「ほぼ最下層」といった状況である。塾や家庭教師、親など多方面から指導を受けていたものの、勉強をさせられても、させられても、父の期待とは裏腹にその成果は全く出なかった。
 自分の中では、「どれだけやっても優秀なほかの生徒には太刀打ちできない」「勉強をしたくない」「何のためにしんどいことを続けているのだろう」という思いが芽生え始め、そのような状態でテストの結果も良くないことは明らかであった。しかし、「次こそは」と期待する両親は毎月送られてくる公開テストの結果を見て、残念そうな顔をして、ため息をつく。挙句の果てには 1000 位切ったら「何か買ってあげるよ」とにんじんをぶら下げられるも、短期的なモチベーションにすらならず、何のためにやっているかわからない勉強をさせられることに対する嫌悪感がぬぐえなかった。当時を思い返すと、勉強すること、させられることがただ嫌で、進学塾の宿題は答えを見ていたことを鮮明に記憶している。恐らく「勉強の先に何があるかが見えない」「なぜこれをやらされているかがわからない」という思いから、勉強に向き合えなかったのだろうと、今感じる。
 そんな中で、母は父とはまったく異なった意見を持っていた。父とは対照的に地方出身で、父ほど受験の世界にさらされておらず、留学経験もあったために、父の決めつけによって僕が医師になることに反対していた。むしろ、「医師にはならせたくない」や「広い視点を持たせる国際的な教育をさせたい」という思いを持っていた。結果がなかなか出ないことからもその思いは一層強くなっていったように感じる。この意見の相違から、両親は自分の進路について常にけんかをしているような状況だった。私自身がその場に居合わせることも多かったが、自分の意見を求められるというよりかは、それを傍観していることしかできなかった。自分のせいで、また自分に関して、喧嘩が勃発していること、家族の絆に綻びが生じていたことは、純粋に複雑な心境だった。勉強をずっとさせられているものの、成績が一向に上がらないばかりか、下がる一方だった自分は空回りしていたのだと思う。最終的には「自分の個がつぶれないように」と母と松蔭先生が中学受験を辞めさせてくれた。前回のブログで松蔭先生が「甘やかすのと、守るのは違う」と記していたが、まさにこのことなのかもしれない。
 そこからは、インターナショナルスクールに編入し、それまでとは全く違った環境下に身を置くこととなった。中学から入るという選択もあったが、内部進学のほうが簡単であるという話を聞き、そこは「戦略的に」小学6年から編入をした。実際、同校の中学に入学した時点である程度の英語の基礎を固めることはできていた。(とはいっても、インターに通う日本人のレベルだが)目先の進路選択を迫られることはなくなったものの、インターの中高を卒業した後の進路については自分・両親を含めて常に意識している点ではあった。「医師を目指す」必要がなくなった当時、自分の将来の仕事像ややりたいことについて決まっていなかった。むしろ「医師」という学歴色の強い進路については忌避していた程だと思う。ただ、その中高は開校して2、3年ほどの新設校だったうえに、国際バカロレアを履修できる認定校になるかも不透明だった。よって進路選択の可能性を増やすために留学を決意するに至った。
留学先はカナダのモントリオールで、国際バカロレア認定校である現地校に通っていた。カナダやアメリカでは「学士編入」や「二分野の同時専攻」を容易にすることができ、大学に行ってから自分が関わりたい専門分野や職を探すことができるため、進路をすぐに決めてしまうのではなく、まずは自分の興味を伸ばすことを軸とした。また、その環境に魅力を感じて、そのまま現地校を卒業して大学へと進学することを考えていた。日本では大学入学時にすでに学部が決まっていることが多く、そこから関われる分野や職が限られることも少なくないため、当時、できるだけ広い選択肢を持つようにしていたのだと思う。そういう意味で、「中学受験」というレールを外れたものの、別のレール(ただ乗っかって受動的に進む道という意味で)を探すのではなく、能動的に興味ある分野にいつでも進んでけるような、小学生時代とは違った考え方が身についていたのかもしれない。
 結果的にはコロナで帰国を余儀なくされた。留学中や帰国後に、自分の興味を伸ばしている中で、元々自分の中にあった、防災や人命に関わる仕事がしたいな、という思いが強くなっていった。さらに留学を通してより国際的な社会に身を置く中で、差別や貧困に直面することも多くあった。そこで、災害医療や貧困地域での医療、日本にとどまらず、国際的に活躍する国際臨床医こそが、自分の興味や想いを反映する職なのではないかと考えるようになった。そのため帰国後はインターナショナルの高校に戻り、国際バカロレアを履修して国内の医学部を受験した。結果的には、当初受験勉強をさせられるきっかけともなった職業ではあるが、当時志した「医師像」と今自分がなりたい「医師像」や、進みたい分野は全く異なっている。自分から興味を持って志したものであるからこそ、受験勉強に際しても中学受験のときとは違い、能動的に学習を進められたのだろう。
 幸い、最終的に医学部へ合格することができたものの、大学受験でも挫折を味わった。国際バカロレアの点数が思ったように出ず、既に内定をもらっていた私立大学医学部の合格を取り消されたり、本気で浪人を考えたりと、一筋縄ではいかない部分もあった。中学受験においても、バカロレア履修中に迷走した時も、浪人を本気で考えた時も、松蔭先生が脱線しないようにしっかりとガイドしてくれた。それが必ずしも志高塾や松蔭先生である必要はないが、誰か「頼れる人」「リードしてくれる人」を見つけることが大切であるだろう。
 先日の「十人十色」で受けた質問でもお答えさせて頂いたが、中学受験は「勉強がどのくらいできるかというゲーム」と見ることもできる。ビデオゲームやボードゲームなど、どんなゲームでも負けてばかりだと楽しくないし、辞めたくなる。反対に勝っているとその優越感からどんどんと楽しくなっていく。精神的にも未熟で、将来のビジョンもまだ定まっていない小学生にはそのゲームを続けるべきか、一旦引くべきなのか、わからないのだ。だから、自分が中学受験の頃に助けてもらったように、親を含めた周りの大人が、本人のキャパシティや性格を鑑みて上手に道案内をしてあげる必要があると思う。
 挫折を味わった結果、それをエネルギーに次に進める子もいれば、そこで自己肯定感を失って中学からの勉強のモチベーションが失墜してしまう子もいる。だが、それは受験で合格という成功を勝ち取っても然りなのだろう。

2024.03.05Vol.630 不器用という効用

 月曜の朝。いつもはダイニングテーブルか自分の部屋の机で作業をするのだが、珍しくリビングのソファにもたれながら、膝の上に置いて書き始めた。ダイニングテーブルのときはテレビでゴルフ番組でも付けながらだらだらと少しずつ進めて行き、机のときは追い込まれて必死になりはするものの中々うまくまとまらない。いずれにしても、「さっ、今から書こう」という明確な意思があるのだが、今日に限っては横にパソコンがあったので、何となく始めた感じである。昨日の余韻が残っているうちにつらつらと言葉にして行こうと。
 昨日は実に志高塾な一日であった。10時から13時過ぎまでは中学受験を経験した親御様に体験談をお話しいただく「十人十色」、そして18時からはこの春に大学を卒業して社会に出ていく学生講師たちの送別会。5人ともほぼ4年間働いてくれた。意外に思われるだろうが、私がお酒の席で改まった話をすることはほぼ無い。乾杯の音頭を含め、挨拶なども大抵は誰かに任せる。ただ今回は、卒業生たちに伝えたいことがあったので、お酒が運ばれてくるまでの時間を利用して少し話をした。その内容は、志高塾での思い出とこれからの抱負について語る時間を、お酒が回り誰も聞く気が無くなった頃ぐらいに作るので考えておくこと、また、今後、卒業生と現役の大学生が交流する場を作り(そこに進路を決めかねている高校生を含めても良いかもしれない)、就活や社会に出てからのことなどについてアドバイスをする場を設けるので、そのためにも社会に出てから活躍して欲しいということの2つであった。人に迷惑を掛けなければ自分のことだけをとことん考えても良い。ただ、「自分のためだけではなく、誰かのために」となることで、少し力みが消えたり、うまく行かないときに頑張れるというのもあったりするはずである。親のプライドを満たす学校に受かるために受験を頑張る、というのは当然のことながら、ここでいう「誰かのために」には当てはまらない。私の場合、情けない自分が顔を出しそうになったときには、息子たち、生徒たちがいることを思い出して、「こんな自分では申し訳ない」と少しでも自分を奮い立たせるようにしている。
 さて、「十人十色」。今回は、いつにも増してスピーカーのバラエティに富んでいた。話していただいた順に挙げて行くと次のようになる。①男の子と女の子の双子のお母様、②IB(国際バカロレア)を利用して国立大学医学部に現役合格した高校3年生の男の子、③中学受験ではうまく行かなかった、バレエに情熱を注いでいる女の子のお母様、④上2人のお兄ちゃんたちは進学塾に通わせるだけである程度うまく行ったものの3番目の女の子で初めてそうでないことを経験されたお母様、⑤高槻校の生徒の親御様で初めてスピーカーを引き受けていただいた、女の子のお母様、⑥国語、算数共にかなりの部分を志高塾に任されて甲陽に合格した男の子のお母様、となる。
 濃淡はあるものの、6人が受験を終えるまでの過程をそれなりに知っているので、面談でのやり取りなどを懐かしく思い出しながら、一方で「そんなこともあったのか」と驚かされながら、楽しく話を聞かせていただいが。それぞれの話の後に、私が少し感想を述べるのだが、3分程度ではとてもではないが語り尽くせない。一人ずつについて、この『志高く』1回分になるはずである。これまで10回ぐらいは開催しただろうか、以前であれば「もっとこういう風に話しておけば良かった」などと帰り道に後悔することも多かったのだが、最近では「俺が主役では無いし、まっ、いっか」と開き直るようになった。「話が非論理的で、あんな人がやってる志高塾は大丈夫か」とならなければそれで十分である。以下で、あの場で話し忘れたことについて補足をして終わりにする。
 灘と甲陽に合格した生徒は共に不器用であった。分かりやすい例を挙げれば、4年生や5年生の頃の公開テストで、前から順番に解いて行き、途中で詰まるとそれを飛ばさないため、それより後にある、解けたはずの問題を落としてしまうのだ。それに対策するのは簡単である。3分以上かかった場合は次に行きなさい、などと決まりを設ければ良いのだ。そんな誰でも思い付くような手を打つ前に、なぜそれが起こっているのかを考える必要がある。彼らは、点数は取りたいものの、そのことよりも目の前の分からない問題を解くことに興味があるのだ。なぜ、そんな良い考えを目の前の点数のためだけに大人が改悪する必要があるのか。教える立場にある者として、それを大事に守ってあげることはとても大切な務めである。親が「もっとうまくやれば良い点数取れるのに」となることは自然なことなので、その子自身の特性を傷付けずに済むように、実力自体を引き上げることに特化するのだ。点の取り方に関しては、受験直前3カ月でどうにでもなる。先の二人のように最終的に最難関校に合格するぐらいの子であれば、うまくやれ無くてもそれなりの点数は取れる。では、不器用で、それなりの点数未満の子たちにはどうしてあげるべきなのか。我々がもっと必死に、より注意深く不器用さを守ってあげなければならない。守ることと甘やかすことは違う。「あれができないことは今は良いけど、これはできなアカンやろ。何でもかんでも許されると思うなよ」と、できてしかるべきこととそうでないことを明確に線引きして厳しく接してあげなければならない。②の高三の男の子はその不器用の代表格であった。彼のお母様には、6年前に「十人十色」で話をしていただいた。受験勉強がうまく行かずに、6年生になる前後で進学塾を辞め、そのタイミングで地元の公立小からインターナショナルスクールに編入した。当時、お母様には、そのいきさつと今後について語っていただいたはずである。初めての高校生スピーカーとなった彼に託したのは、その次に控えていた③の受験がうまく行かなかったお母様が話しやすい空気を作ることである。脚色することなく過去をありのままにさらけ出し、未来への希望も語って欲しい、とお願いした。次回は、その彼の、小学生の頃からの紆余曲折の合格体験談を掲載する予定にしている。もちろん、私ではなく彼の文章である。楽しみにしておいてください。

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