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2023.12.26Vol.621 大人になって会いたい人

 去る者追わず、来る者拒まず。志高塾の方針に合っていない人が誤って門を叩かないように気を付けている。双方にとって不幸なことになるからだ。それゆえ、HPはそのようなミスマッチが起こりづらいように作られている。ただ、中にはほとんど見ずに連絡をして来られる方もいるので、話を聞いて、「これは違うな」となれば、別の塾を勧めることもある。一方、親御様の理解が十分であれば、子供がどれだけ手が掛かろうが喜んで受け入れ、できる限りのエネルギーを注ぐ。去ることに関して、私はよく恋愛に例える。彼女に別れ話を切り出されたときに、「俺のどこが悪かった?直すからもう一回チャンスをくれ」ではだめで、その前に、彼女が発しているシグナルをキャッチした上で必要に応じて改善しておかなければいけないのだ。だから、「去る者追わず」ではなく、「去る者追う権利を有さず」というのが正確なところであろう。
 2か月ほど前のことである。私立に通う中3の男の子のお母様から、相当困った状態で、「先生、一体どうしたら良いんでしょう?」という電話をいただいた。2学期の中間テストでもこれまで通り、いくつも赤点を取り、高校には上がれるがこのままでは2年生になるのは難しい、と学校の先生に脅され、放課後の補習に参加することを勧められたのだ。私はその学校自体は好きなのだが、その補習のシステムは大嫌いである。学校の先生が教えるのではなく、外注していているため先生の質が低いからだ。それに加えて料金も高い。その彼は今年の春に休塾して2,3か月それを試して、当然のことながらまったくうまく行かなかった。相談の形式を取っていたものの、お母様の心が補習に傾いていることを分かった上で、「中3にもなって、自分でできないからと言って、学校で拘束してもらって、どうにか赤点をまぬがれるような勉強をさせるんですか?留年しないことを目的にするなんて、余りにもレベルが低すぎます。そんなことのために受験させたのではないはずです。私は彼が自覚を持つようにこれまでも働きかけてきましたが、それを親があきらめてどうするんですか。」というようなことを伝えた。かれこれ6年の付き合いになるが、私がそこまできつく言ったのは初めてのことである。数日後、お母様から「先生の言葉で目が覚めました。親としてやれることをします」という報告をいただいた。前回の休塾の際には二つ返事で「分かりました」と伝えたが、今回は私にしては珍しくそうしなかった。
 先週の土曜日、偶然にも海外に留学中の大学生と高校生の元生徒が帰国の連絡してくれた。明日、先日わざわざ訪ねて来てくれたものの私が不在にしていたため会えなかった、現在は東京で社会人として活躍している元生徒と飲みに行く。高校卒業以来なのでおそらく6年ぶりである。年末に、これまた社会人の元生徒とご飯に行く予定がある。そうやって彼らの成長を見届けられるのは幸せなことである。
 「なんでこんなんもわからへんねん」と生徒を馬鹿にする先生が世の中には少なくないが、私には信じられない。我々のやっていることなど答えの決まった勉強を教えているだけに過ぎないからだ。「これぐらいできるやろ」という言葉を乱暴に投げつけることは多々あるが、それは否定の言葉ではない。「もっとできるやろ」という想いを込めているからだ。大人と子供という上下関係において偉そうにするのではなく、彼らが社会に出て、大人と大人というある種対等な関係になったときに一目置かれるような人でありたい。大人になって、子供のときに遊んでいた公園を訪れてみたら随分と小さく感じられる、ということがある。そんな公園のような人ではありたくないのだ。彼らが大人になっても会いたいと思ってもらえる人でありたい。
 これも少し前の話になるが、海外の大学院に留学中の元生徒に、「先生のお勧めの本は何ですか?」と尋ねられて、恥ずかしながら答えられなかったので、今、いろいろと読んでいる。現在、その筆頭候補がパタゴニアの創業者イヴォン・シュイナード著『社員をサーフィンに行かせよう~パタゴニア経営のすべて~』だ。その中に前回挙げたゼリーの話と同じようなものを見つけた。
「いまは選択肢が多すぎて、人々は、日々強いられる決断にげんなりしている。いろいろ考えなければ決断できないとなればなおさらだ。たとえば、透湿性や防水性の布地の細かな違いがわからないと決めようがない場合などだ。普通の人には、男性用と女性用でさえ見分けるのが難しいというのに。だから、有名レストランはセットメニューを用意しているし、スキーショップはスキルや価格に合わせてスキー板を勧めてくれる。ダライ・ラマも指摘しているように、選択肢が多すぎると人は不幸になるのだ。」
 2024年、どの本を紹介しようか、と困るぐらいに選択肢を増やすことは難しいだろうが、本に限らず、来年はもう少し人としての引き出しの中身を豊かにしていきたい。
 次回は1月9日になります。今年も一年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

2023.12.19Vol.620 引用、引用、やや引用

 神戸女学院中の2019年の過去問より。本文は、茨木のり子著『言の葉さやげ』。

 私のいやな言葉、聞きぐるしいと思っている日本語は無数にある。出せといわれたら、ずいぶんたくさん出してみせられるだろう。
 日本語について多くの人が語る場合も、たいていは、その否定的な面を指摘することで尽きている場合が多い。いやな日本語を叩きつぶせば、美しい日本語が蘇るというものでもないだろう。否定的な側面を指摘するのと同じくらいのエネルギーで、美しい言葉に対する考えをかきたててゆきたいし、多くの人の、いろんな形による発言を聴きたいものだという願いが、私にはある。
(中略)
 それとも美しい言葉とはどんなものか?というイメージが、私たちにきわめて貧しいためなのだろうか。
 そしてまた、いやな日本語で一致点を見出すよりも、美しい言葉で一致点を見つけ出すことの方が、今日、はるかに困難なのを暗黙裡に悟っているためなのだろうか。

 多くの方が、冒頭の文章を私が引用している目的を察しておられることだろう。予告通り、前回の学生講師の研修課題と絡めている。彼の文章は途中まで、日本の教育を否定していた。そのときの私の心境は、最終話はまだ随分と先なのに、シリーズもののサスペンスドラマの主人公が危機に瀕しているときの視聴者のそれと似ていたのかもしれない。その後も続くことを考えると、死なないことは分かっているのだがちゃんとハラハラするのだ。掲載を推薦された文章であったため、単なる否定で終わることは無いだろうというのはあったのだが着地点が見えなかった。そして、あのように締めくくられていた。否定した後に、どう肯定するかを考え始めるのではなく、自分の中にどうあるべきかという理想があり、それを適切に伝えるための否定だったのだ。「否定をするなら代替案を出せ」というようなことが言われるが、「代替案も無いのに否定をするな」という話である。前回、「次回、この文章への講評をする予定にしています。」と述べた手前、考察らしきことをしてみたが、「面白かった。勉強になった」だけで十分な気がしている。そのような学生が志高塾を選んだくれたことを嬉しく思うと同時に、言葉を使って考えることの面白さを生徒たちに伝えて欲しい、というのが私の願いである。

 さて、続いての引用である。灘高の2013年の過去問より。本文は、田中弥生著『受け身の読書』。

 核家族や独居世帯が多くなっていると言われて久しいが、それは読書のあり方にも影響する。たとえば家族が十人いる家では、人は自分が選んだ以外の本を読むことが多くなるが、一人暮らしでは、家で読むのは原則的に自分の本だけになる。前者の場合、読書は受け身の行為としての性格が強くなる。読みたいものを買って読むのではなく、あるものを偶然読む行為になるからだ。
(中略)
 数年前から評論家という肩書きで働くようになった。気がついたのだが、仕事のために人の作品を読むことは、大家族の中で他人の本を読むことに似ている。仕事をすることは能動的だが、対象になる本とは巡り合わせの部分が多く、本の選択についてはかなり受動的だからである。仕事用の本を読む時、私は、年上のいとこや祖父の本棚の前に座っていた時と似たものを感じる。どうしても必要で買ったわけではないが縁があって私の前にある。そこにあるから読んでいる。そういう状況で面白い本こそが本当に面白い。そう思って仕事をしている。

 上の文章になぞらえるのであれば、「16年前から教育者という肩書きで働くようになった。気がついたのだが、仕事のために読解問題の文章を読むことは、大家族の中で他人の本を読むことに似ている。」となる。今年度も京大の工学部を受験する生徒がいるのだが、彼らが2次試験の現代文対策をしているのを見ると、「俺のときにもあったらなぁ(京大の理系では工学部のみ、私のときには2次試験で国語はなかった)」となる。あったらどうだったのか。言葉を使って柔軟に考えることができていないことに、もっと早く気付けたような気がしている。もちろん、同じ工学部でもそういう部分が鍛えられている連中はいたので、自分が未熟なだけだったのだが。
 そして、最後に東大寺学園高の2016年の英語の長文読解より。解答の和訳には次のようにあった。

 豊富な品揃えは混乱をもたらす。これを実験するために、あるスーパーマーケットで、客が24種類のゼリーが味見できるコーナーを作った。客は好きなだけ味見をし、それらを割引価格で買うことができた。その翌日、店主は6種類の味だけで同じ実験を行った。その結果は?2日目には10倍多くのゼリーを売り上げたのだ。なぜだろう?そのように種類の幅が多いと、客は決めることができず、何も買わなかったのだ。

 上の文章に関して、「オバマ大統領がネクタイの色を予め決めていたこと、スティーブ・ジョブズが毎日同じ黒のタートルネックのセーターを、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグが同じパーカーを着ていたことの理由を知ってるか?」と尋ねた。その問題を解いていた中3の生徒が答えられなかったので、「仕事で決断することが多いから、それ以外のことで選択するエネルギーを浪費せえへんようにするためや」と教えた。この文章で取り扱うにあたり、念のために調べたら下のサイトがヒットした。
https://kotono-ha.com/74080/2019/11/25/
挙げている3人はまったく同じで、内容に若干の違いはあるがおおよそ間違えていなかった。余談ではあるが、これも偶然、冒頭の文章と同様に「ことのは」とあった。
 数学に「必要条件・十分条件」という分野がある。問題を正しく解説するだけで役目を果たしたと勘違いしているようでは教える者として失格である。それぞれの生徒に合わせて、彼らがきちんと消化できるレベルで説明できて初めて必要条件を満たす。一方、上のオバマ大統領の例のように、それにまつわる話などをして、好奇心を刺激することが十分条件をクリアすることにつながる。私個人としては、特に国語に関しては必要条件の方はボーダーライン上にいるので、それを補って余りあるぐらいに十分条件の方のレベルをもっと高めて行かなければいけない。

2023.12.12Vol.619 研修課題「現在の教育について」by 大学生講師

 豊中校の責任者である竹内より、「是非掲載して欲しい」と懇願されたため、私の1回分を泣く泣く譲ることにしました。新しく豊中校に加わった大学生の講師によるものです。次回、この文章への講評をする予定にしています。ではお楽しみにください。

 与えられた題材は「現在の教育」だが、私の少ない人生経験を踏まえ、ここでは少し狭めて「現在の日本の教育」としたい。現在の日本の教育について、状況を踏まえた上でその問題点を指摘する。
 まず、日本の教育の現状について説明する。日本の教育システムでは、義務教育、高等教育、大学校そして大学院という階層性がとられている。それぞれの階層には、文部科学省により明確な教育目標が定められている。次の階層へ進学する場合には試験を受けることになり、その目標が達成されているかどうかが審査される。私は、このシステム自体はとても合理的であると考えている。子供の発達に応じて教育目標を更新することで段階的な教育活動を可能にし、試験という形で適宜教育目標が達成されているか確認することで、教育水準を測ることができるからである。
 問題は、その試験にある。いわゆる「受験」である。受験で必要とされていることが、確認されるべき教育目標と乖離してしまっているのである。まずは、その教育目標について説明する。『教育の目的とは,「人間力」を備えた市民となる基礎を提供すること。つまり,社会に生きる市民として,職業生活,市民生活,文化生活などを充実して過ごせるような力を育むことと言える。これは,「生きる力」として文部科学省が教育改革の中で提唱してきたことと軌を一にする』と、文部科学省は定めている。この教育目標は、とても曖昧に見える。しかし、目標が曖昧なのは、全国の高等学校ごとにこの目標の範囲で校風に即した試験を実施できるように配慮した結果である。曖昧だからと言って決められた範囲を逸脱してよいわけではない。
 目標にある「生きる力」とは、一体何なのだろうか。私は、これは「自分で考える力」すなわち「思考力」であると捉えている。人間は生きている限り、常に考え続ける。問題に直面した時、自分の持てる知識や道具、技量を総動員して最適な答えを出す。これが、考えるということである。むやみに自分の持ち物を増やし続けたり、藪から棒に自分の考えを伝えたりしていても問題は解決しない。思考とは、収集と発信の二つが組み合わさったものである。
 思考がかくなるものならば、高等学校は思考力を審査するためにどうして「暗記問題」などを出題するのであろうか。知識のみを問うような問題は、義務教育の教育目標から逸脱していると言っても過言ではないのではないか。先に述べたように、思考力とは知識を自分なりに運用する力である。だから、思考力を問うような問題を出題することは、知識を問うことを包括しているといえる。だというのに、試験では暗記問題が多く出題されるのだ。この傾向は特に理科や社会のテストによくみられる。例えば、世界史では「エジプトの神聖文字(ヒエラティック)は西暦何年に解読されたか?」(平成23年、上智大)という問題がある。正解は1822年なのだが、正直こんなことはどうでもよい。いったい何のためにこんな問題を出題したのか。思考力を判断するためなら、知識に頼らず生徒自身で考えなければ答えることができない問題を出題するべきである。同じエジプトの神聖文字であっても、「エジプトの神聖文字はどこの国の人物によって解読されたか、またその歴史的背景を述べよ」などとすれば、生徒は自力で考えざるを得なくなる。教科書にもはっきりとは示されておらず、知識を覚えるだけでは対処不能だからである。「神聖文字を解読したのはフランス人のシャンポリオン」「18世紀末にナポレオンはエジプトへ出兵した」「ナポレオンは出兵の際にロゼッタ=ストーンを発見した」「ナポレオンはフランス革命を終結させ帝政を敷いた」などの知識を掘り起こすことから始め、うまく題意に沿って文章にする。このような営みが歴史的思考である。ある事件の元号など、思考力の断片にも過ぎない。
 加えて、このような暗記問題によって、生徒たちの思考力の成長が阻害されているという事実もある。これは大変な事態である。例に出したような細かい暗記事項まで出題するから、生徒たちも本当に些細なことまで覚えておかねばならなくなる。そうすると、暗記ばかりに時間を奪われ、肝心な思考の部分にまで達しない。これでは、「生きる力」が教育されない。そして人間は、時間がたてば記憶を失う。せっかく、というかいたずらに、頭に詰め込んだ知識は、試験が終わればすべて忘れてしまう。そして次のステージに進んだ生徒の中には、何も残らない。思考力ではなく知識の豊富さを問われたばかりに、何も身に着けることなく終わってしまうのである。
 出題者たちよ、もう一度「生きる力」とは何か、考え直してほしい。やみくもに知識問題の難易度を上げて、うちは難関校だ!と威張っているのはとても空虚である。虚勢である。思考力を問われないままに入学してしまった生徒たちの実情を見よ。彼らは知識を失い、思考力もなくただ学校の中に浮浪しているだけではないか。「生きる力」を持った生徒を見抜くには、そのような暗記問題を出題する必要は全くないのではないか。
 私はこのように暗記問題を徹底的に批判してきたが、私だけではなく、やはり日本の教育界も暗記問題の無意味さに気づき始めているようである。改めて、生徒の思考力を問う潮流が生まれ始めている。最たるものが、いわゆるセンター試験から共通テストへの変化である。従来のセンター試験では、国語や数学はまだしも、社会系・理科系の科目は暗記問題ばかりであった。しかもそれはマーク式であるから、問題を解くことは単調な作業でしかなかった。しかし、共通テストでは、文章だけでなく図版や生徒同士の会話文など、問題の読み取りから思考力を問われ、さらに解答内容も知識だけによらず必ず生徒自身で考えなければいけないものになっている。また、共通テストだけではなく各学校にもそのような傾向がみられる。当の上智大だって、方針を大幅に変えて百文字単位の論述問題を出題するようになった。生徒の「生きる力」を審査する、という試験の本旨を考えれば、至極当たり前な変化である。新しい思考系問題に対処するために努力した生徒たちは、必ずや素晴らしい思考力を身に着け、次の学習段階でも大きな飛躍を見せることになるだろう。教育者たちは、これからも決して「生きる力」の正体を見失ってはならない。

2023.12.05Vol.618 (本)円陣の後編 ~転ぶだろうから先の杖~

 「先生、まずは現実を受け止めないと」。ラウンドの後半、これ以上ないぐらいにニヤリとしながらお父様が私に掛けた言葉である。その日はお父様、お母様と生徒である小3の女の子と回っていた。ゴルフは、前後半9ホールずつに分かれていて、大抵はその間に休憩が入り昼ご飯を食べる。そのご飯の最中に、子供の教育において現実を受け止めることが大事、ということを私が我が物顔で語っていたからである。ゴルフがそうであるように、教育だけに限った話ではない。新入社員の頃、英語で学ぶマーケティングの学校に通わせてもらっていた。教わったことで一番覚えているのが、2つの離れた点の横に、それぞれ”Where we are now?”, “Where we want to go in the future?“とあり、その2点を真っ直ぐな矢印で結んで”how”とホワイトボードにかかれていたことである。この2点を明確に認識することは難しく、どちらも不明瞭であることが多い。そして、その状態で”how”について考えるから打ち手を間違える。
 「将来、どこに行きたいか?」「将来、どうなりたいか?」と「近い将来、どこを経由したいか?」は似て非なるものである。受験は後者に当てはまる。予定通りのタイミングでそこを通り過ぎるために、今どこにいるのか、という客観的な現状認識はやはり必要である。テストの結果はその指標にはなるが絶対的なものではない。進学塾の先生は、それだけを見て判断するが、今は成績が良くても落ちてきそうな子もいれば、その逆もある。それを見極めた上で、適切なアドバイスをするのが相談された者が本来果たすべき役割である。繰り返しになるが、現状を的確に把握するのは難しい。私のゴルフの場合、自分の理想とのずれが現実を受け止め難くしていた。一方で、「もっと自信を持ったら良いのに」と言われる人は、等身大の自分よりも低く見積もってしまっている。
 ようやく三男のテストの話に戻る。同じ時期に受けた上の二人もいたって平凡な点数だったのだが、恐ろしいことにその半分ぐらいしか無かった。今年の春に志高塾を3カ月休ませた時点で、させるかどうかを決めかねていた中学受験は私の中で無くなった。しかし、三男自身が「パパは、ああ言っているけど受験したい」と妻に訴えかけていたということを後で知って、「どうしてもしたくて頑張るのであれば、考え直しても良い」ということを本人に伝えていた。夏頃の話である。そして、テストの結果を見て完全に消え失せた。今度ばかりは、三男も抵抗することは無かった。息子たちが中学受験をするかどうかはどちらでも良く、する場合でも必ずしも難関校を目指さずに悪くない程度のところに行けば良い、というのが私のスタンスである。いろいろな考えをお持ちの親御様がおられるので、私の立場上それぐらいがちょうど良いのだ。もし、中学受験に賛成、反対のどちらかに寄り過ぎていれば、それとは逆の意見を受け入れづらくなってしまう。もちろん、親としては我が子のできが良ければ嬉しいが、その場合だと自分の子供のことを例に取ったときに「先生の子供はよくできるから」と参考にはしてもらえないし、逆にあまりにもできないと「自分の子供の教育すらできていないのに、この人は大丈夫か?」となりかねない。我が子のできについて考えたときに思い浮かぶのが、お笑い芸人である山崎ケイの「ちょうどいいブス」という言葉である。この前、最近は何かと「イズム」、「ハラスメント」を語尾に付けて批判をする風潮にあるということを生徒たちと話していた。「ちょうどいいブス」もルッキズムの観点から批判の対象になっている。話を戻す。実際長男は中学受験をして中堅校に行き、二男は失敗して地元の公立中学に通っている。「難関校を目指さずに」と述べた。めちゃくちゃできれば自然と難関校も視野に入ったのだろうが、親の私が見て、勉強において長男も二男も特別の輝きが無かったので、小学生のときに無理をさせようとはならなった。不合格になった時点から、中1の二男には「北野以外は無いからな」と伝えていて本人もその気なのだが、三男の場合はそのような目標設定をすべきではない。まだ5年生なので高校受験には4年以上もある。トップ校を目指して、特に中学入学前のこの1年間を活用すれば合格できないことも無いのだろうが、それではだめなのだ。身の丈に合わない志望校を設定して、どうにか高校受験に成功した連中は、その後に伸びなくなるからだ。もちろん、本人に自覚が芽生えて自ら勉強をするようになり、成績が予想外に伸びれば話は別である。外科的手術を施すのではなく、自然治癒力を高めることに重きを置くということが言いたいのだ。親として、あまり人工的に手を加えたくないのだが、長男と二男が中1から通い始めた英語塾には、予定を1年前倒しして6年生になったタイミングで入れることにした。もちろん、テストの結果を受けてのことである。その塾は、中1から入った生徒は、週2回、1回2時間半の授業を行い、中3になったタイミングで小学生の頃からじっくり学んできた生徒たちと合流する仕組みになっている。それぐらいのことは鼻歌交じりでやって欲しいのだが、三男にそのガッツは今の時点では期待できない。大怪我だけはしないように気を付けてあげないといけないが、ほどよく転んで自ら気づける機会はコンスタントに与えておいてあげなければいけない。三男に渡した杖は転ばないようにするためではなく、大怪我を防ぐためのものなのだ。
 そろそろ締める頃合いなのだが、まだ書き足りないので次回以降で補足をするかもしれないし、別の話題に移るかもしれない。おそらく5年以上前のことになるが、「受け止める」と「受け入れる」の違いについて述べた。たとえば、誰かにアドバイスを受けたとき、「この人は、こういう理由でこういうことを言っているのか」と自分なりに消化することが「受け止める」である。その上で、それをどう活用するかは本人次第である。一方、「受け入れる」は言われたことを鵜呑みにすることである。三男に関して、今できていないことを親として受け止めはしたが、この子はできないということを受け入れたわけではない。

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