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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.10.20vol.37 共有スペース(物理的、心理的)(竹内)

 9月くらいからベランダの柵のガラス部分に白くて小さな虫がへばりついていた。午前中、洗濯物を干す時に見つけ、でも物干し竿の位置からして服には当たらないからいいか、などと考えて放っていた。夕方に取り込むとまだ同じところに止まったままだ。直接は触りたくないのでガラスを叩いて揺らしてみても微動だにしない。なんなんだこれは、と気になりながらも部屋に戻って服を畳んでいる間にそのことは頭の片隅に追いやられていく。洗濯のたびに思い出しては忘れを繰り返していたのだが、初めは1匹だったのがよく見れば3匹、4匹、今はもっと増えているのでさすがにちょっと気持ち悪くなってきた。そろそろ疑問を解消せねばということで、「ベランダ 白い虫」で検索をかけてみた。Googleがまず持ってきたのは「チャタテムシ」だったが、これは画像と見比べても違うのが明らかだった。また一般家庭ではベランダのような屋外よりも屋内で見られることが多いそうなので、やはりこれではない。そこでワードに「ガラス」と付け足してみたところ、Yahoo!知恵袋のページがヒットした。「ベランダのサッシ回りや窓ガラスについている」「細くて白くて体長1センチ程度」「死んでいるのか生きているのかさえ分からない」といった特徴は、まさに私が見ていたものと同じである。これらから導き出された回答はというと、カゲロウの「抜け殻」であった。どうりでいつ見ても同じところにいるわけだ。
 大人になってすっかり虫は苦手になってしまったが、きっとたくさんいるはずの同じような方々に、せっかくなので簡単に説明する。チョウやハチのように蛹の状態を経て成虫になるのは完全変態、そうではなく脱皮によって成虫になるのは不完全変態と分けられる。例えばセミは後者に分類される。言われてみれば確かに「サナギの抜け殻」ではなくて「セミの抜け殻」と呼んでいる。私の部屋のベランダに現れたカゲロウという生き物は少し特殊で、水辺で卵が孵化したのち、幼虫と成虫との間に「亜成虫」という期間がある。その時点で成虫に近い形状になっており、羽が生えているため短い距離であれば飛行することができる。今の家から300メートルほどのところに猪名川が流れているので、どうやら彼らはそこからやってきたようだ。近いとはいえ、部屋は7階にあるので、決して力強くはない羽根で、結構な高さのところまで飛んできていることになる。カゲロウの成虫は、短いものの例えとしてその名が使われるほどに儚い命で、数日、種類によっては2時間くらいで死んでしまう。子孫を残すことに適応した体になっているため、口や消化器官が発達していないといわれている。川に長居すると魚や鳥に狙われてしまうので、亜成虫となってひとまずその場を離れ、準備を整えてまたどこかの水辺へと戻っていくのだろうか。うちのベランダまでやってくることができた時点で、生存競争の分岐点を勝ち抜いてきた証だと言える。そう思うと、もう中身がいないことは分かっているので手で払い落とす心理的負担は小さいものの、ちょっとだけ忍びない。よく分からないものに対しては恐怖を抱いてしまいがちだが、解像度が上がると心の壁は少し薄くなる。
 ここからきれいに文章をまとめていくなら、子どもの成長と亜成虫とを絡めていくことになるのだろう。しかし、虫が好きではないためにそれらを結び付けることに何となくの抵抗感がある。でも、「一皮剥ける」は脱皮することから来ているし、蛹からかえって劇的な変身を遂げるチョウの姿は人間の成長のたとえにも使われる。そういえば、卵の殻を割って雛が顔を出すことも、新しい自分の誕生と重ねられる。虫が嫌なら、洗濯中ではなく料理中の出来事から考えを広げた方が良かっただろうか。
先日第2回の『beforeとafterの間』を終えたが、その名称を分解してみると「after」はこれからの展望を指している。これは分かりやすいし、実際に1回目と2回目で共通している。一方で、「before」と「間」が意味するものにはやや違いがある。初回にスピーカーになってくれた彼の場合は、「before」には志高塾に通っていた頃、「間」にはまさに「今」を当てはめるのが適切である。「卒業するまでの期間」とくくることができるくらいに、常に主体性のある取り組みができているのを見ていた。それが毎回の密度の濃さにもつながっていた。対して、今回の彼女の場合は「before」とは意識の変化が起こる前、「間」とはそれ以降から今に至るまで、ということになるだろう。内面的な部分が変わったからこそ今の学生生活が充実しているのであり、そのような変化は大学に進学したから、というだけで生まれるものではない。単に時間的な区切りでそうなるのではなくて、精神的な成長によって初めて「before」と「間」の境界線ができたのだ。志高塾の大きな強みは色々な子がいることである。自分ですっと線を引けてしまう子もいれば、それができるように我々が導いてあげることが必要な子もいる。ぐいぐい引っ張ってあげるべき子がいれば、そっと背中を押してあげるべき子もいる。すぐでなくとも、子どもたちが振り返ることのできるbeforeを作ってあげたいし、子どもたち自身が「ここで変われた」と感じられる場所でありたい。ちょうど、カゲロウたちの羽化を支えた我が家のガラス板のように。

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