2024.08.20Vol.651 柳の下に
先週に引き続き、生徒の作文を紹介する。前回の生徒はこれまで何度か登場しているものの、今回の高一の男の子は初めてである。ちなみに、2匹目のどじょうではなく1匹目である。まずはイタリア旅行記をお楽しみいただき、その後に私がコメントするという形を取る。
先日、母親と二人でイタリアに10日間旅行に行ってきた。いつもとは違い、普段些細なことで喧嘩ばかりする父親を、防犯上の理由から日本に残してきたのもあって静かな旅となった。また、母親は英語が得意で、観光地で吹っかけられた法外な額のチップを値切ろうと交渉したり、道順を尋ねたりすることができるので、国外にいる時だけは頼りになる。
海外旅行自体は、去年の同じ時期に行った3日間のオーストラリア滞在が初めてだ。しかし、動物園のような定番の観光地には訪れたものの、南半球で秋だったので涼しかった、という印象しか残らなかった。海外に慣れる目的で半ば強引に連れていかれたのも影響していたはずだ。それとは打って変わって、今回は胸を躍らせながら、事前にガイドブックなどで観光地の歴史や注意点を自ら調べておいた。なぜなら、自分がもともと興味を持っていた遺跡が多く残っている場所が行き先だったからだ。情報をある程度頭に入れておくと、歴史などを踏まえた視点でものを見ることができる。実際、それが無ければ、遺跡を前にしても外観に対して「凄いなぁ」としか感じなかっただろう。
到着後はローマとポンペイを中心に回った。まずはローマのヴィットリオ・エマヌエーレ・二世記念堂、フォロ・ロマーノについて書く。
ヴィットリオ・エマヌエーレ・二世記念堂は一見すると昔の建物の様に見えたが、実際は景観に配慮した上で1911年に完成したローマのなかでは比較的新しいものだ。屋上からは都市全体が一望できてコロッセオやフォロ・ロマーノ、バチカンまで見渡すことができる。ここでは壁に施された彫刻や銅像を間近で見ることが出来た。そして、フォロ・ロマーノは、かつては地中に埋まっていたとはいえ、紀元前の凱旋門や、神殿跡の文字、彫刻、建物が21世紀まで完全に崩れずに残っていることに驚き、復元されたイメージの画像を見ると当時の繁栄が伺えた。
ローマは、現代の建物の周りにある古代の建築物を完全に復元をしないで補修だけを施して遺跡を不完全な状態に残すことで、現代と古代の調和を取っている素晴らしい都市だと思った。
次に向かったポンペイは全く異なる様相を示していた。ローマは遺跡の周囲の道が整備されていた関係で地下鉄が多く、石畳が広がっていた。他方のポンペイでは、電車が地上を走行していた。街と遺跡がそれぞれ別区画として分けられており、人々の居住地域と観光地が明確に線引きされていることが背景にあるのだろう。また、ローマは歩いていると都市全体が観光地として成立しているが、ポンペイは遺跡のみが外国人旅行者に注目されているので、観光客は遺跡だけを見て満足しているので都市としては全然注目されていないのも事実である。
そんなポンペイで心に残った場所をいくつか紹介する。まずは遺跡への出入口の近くにある港跡。今は内陸部にある現地が古代は海沿いにあったことが分かった。日本の弥生時代の時にはすでに船を完成させていたポンペイの人々の技術に驚かされながらも、船の大きさやどのくらいの距離を航行していたかなど使い道に疑問を持った。他にも、マーケットは現代と同じように市場として使われていた。今では真ん中に柱の跡があって端の方には区分けされた倉庫と、当時の噴火で人が亡くなって体が朽ちることで出来た空洞に石膏を流し込んで出来た石膏像が3点置かれている。近くには運送業を表している荷物を運ぶ人が彫られた石板があった。当時から物々交換ではなく貨幣経済や運送業などがあって驚かされた。
そして、事前の下調べをしておいたからこそ、そこには載っていない遺跡内の魅力への気づきもあった。道路が歩道と車道に分けられていたり、道路の所々に道を渡るための飛び石があったりと、様々な工夫に驚かされ、ポンペイが噴火によって埋まる前の様子に興味を持った。それについて理解を深めていくことが帰国後の「宿題」とも言える。
今回は旅に主体性や目的があったからか、前回のオーストラリア旅行より日本との比較に目がいくようになっていたため、人々の生活における違いもとても印象に残った。最大の違いは人の生き方にあると思う。日本人は時間を細かく気にして生きているので、それがバスや電車で時刻表通りに動くことに表れている。逆にイタリア人は時間をあまり気にせずに生きているので、電車の遅延が当たり前になっていた。公共交通機関がバスと電車しかなく、日本とは違い電車が少ないかわりに、道路が広くてバスの本数が多く、地下鉄やバスに時刻表が無いことに驚かされながらも、外国人に日本の公共交通機関が凄いと言われている理由がわかった。ただ、現地では一般的な食事の時刻も遅く、家族との時間を大切にしている様子だった。彼らは自分の行動を自ら決めている分、時間を有意義に使えており、スケジュールに管理されているような人生よりも楽しくマイペースに生きている姿にうらやましさを感じた。
この作文を書くうちに、今回の旅の思い出が二十日ほど過ぎた今でもよく印象に残っていることに気付けた。それは自分の興味がある所を訪れたので写真を積極的に撮ったおかげでもある。前回は十枚程しか撮っていなかった。だから、密度が濃い時間を過ごすためにも、英語を勉強して大学生になったら自分で旅程を決めて外国に行く。
どじょうの話から。実は、彼の作文を掲載することが先に決まっていたのだ。ただ、まだ自分のことを書く作文に慣れていないこともあり、時間が掛かることを想定して、帰国後初回の授業を行った8月2日の時点で、「8月20日版に載せるから、きちんと書き上げてくれよ。もし、できてへんかったら、651号にして初めて期日を守れへんかったことになるからな」と発破を掛けておいた。
次に内容について。冒頭の段落の「国外にいる時だけは頼りになる」について。お母様の名誉のためにも、これまでお母様と直接いろいろとやり取りをした私の実感からも「『だけ』というのはないやろ?」と二度三度と本人に修正を促したのが、「いや、『だけ』でしょ」と頑なだったので、結局そのままになった。生徒の作文を載せるとき、最初に書き上げたものから、どのようなやり取りをして完成にいたったかを本当は披露したいのだが、とんでもない字数になってしまうので最終版を読んでいただくことしかできないのは非常に残念である。それをすれば作文をすることの楽しさとか意義をもっと理解していただけるはずだからだ。
今回の作文は彼自身も、我々も相応のエネルギーを注いだ。彼が今回の旅行をいろいろな角度から振り返り、それが今後に活かされるのであれば、我々も時間を掛けたかいがあるというものである。このような作文は、書いた本人、教えた我々、読んだ人たちのためになってこそ意味がある。近江商人の言葉を用いれば、「三方よし」になってこそ、となる。