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2023.12.19Vol.620 引用、引用、やや引用

 神戸女学院中の2019年の過去問より。本文は、茨木のり子著『言の葉さやげ』。

 私のいやな言葉、聞きぐるしいと思っている日本語は無数にある。出せといわれたら、ずいぶんたくさん出してみせられるだろう。
 日本語について多くの人が語る場合も、たいていは、その否定的な面を指摘することで尽きている場合が多い。いやな日本語を叩きつぶせば、美しい日本語が蘇るというものでもないだろう。否定的な側面を指摘するのと同じくらいのエネルギーで、美しい言葉に対する考えをかきたててゆきたいし、多くの人の、いろんな形による発言を聴きたいものだという願いが、私にはある。
(中略)
 それとも美しい言葉とはどんなものか?というイメージが、私たちにきわめて貧しいためなのだろうか。
 そしてまた、いやな日本語で一致点を見出すよりも、美しい言葉で一致点を見つけ出すことの方が、今日、はるかに困難なのを暗黙裡に悟っているためなのだろうか。

 多くの方が、冒頭の文章を私が引用している目的を察しておられることだろう。予告通り、前回の学生講師の研修課題と絡めている。彼の文章は途中まで、日本の教育を否定していた。そのときの私の心境は、最終話はまだ随分と先なのに、シリーズもののサスペンスドラマの主人公が危機に瀕しているときの視聴者のそれと似ていたのかもしれない。その後も続くことを考えると、死なないことは分かっているのだがちゃんとハラハラするのだ。掲載を推薦された文章であったため、単なる否定で終わることは無いだろうというのはあったのだが着地点が見えなかった。そして、あのように締めくくられていた。否定した後に、どう肯定するかを考え始めるのではなく、自分の中にどうあるべきかという理想があり、それを適切に伝えるための否定だったのだ。「否定をするなら代替案を出せ」というようなことが言われるが、「代替案も無いのに否定をするな」という話である。前回、「次回、この文章への講評をする予定にしています。」と述べた手前、考察らしきことをしてみたが、「面白かった。勉強になった」だけで十分な気がしている。そのような学生が志高塾を選んだくれたことを嬉しく思うと同時に、言葉を使って考えることの面白さを生徒たちに伝えて欲しい、というのが私の願いである。

 さて、続いての引用である。灘高の2013年の過去問より。本文は、田中弥生著『受け身の読書』。

 核家族や独居世帯が多くなっていると言われて久しいが、それは読書のあり方にも影響する。たとえば家族が十人いる家では、人は自分が選んだ以外の本を読むことが多くなるが、一人暮らしでは、家で読むのは原則的に自分の本だけになる。前者の場合、読書は受け身の行為としての性格が強くなる。読みたいものを買って読むのではなく、あるものを偶然読む行為になるからだ。
(中略)
 数年前から評論家という肩書きで働くようになった。気がついたのだが、仕事のために人の作品を読むことは、大家族の中で他人の本を読むことに似ている。仕事をすることは能動的だが、対象になる本とは巡り合わせの部分が多く、本の選択についてはかなり受動的だからである。仕事用の本を読む時、私は、年上のいとこや祖父の本棚の前に座っていた時と似たものを感じる。どうしても必要で買ったわけではないが縁があって私の前にある。そこにあるから読んでいる。そういう状況で面白い本こそが本当に面白い。そう思って仕事をしている。

 上の文章になぞらえるのであれば、「16年前から教育者という肩書きで働くようになった。気がついたのだが、仕事のために読解問題の文章を読むことは、大家族の中で他人の本を読むことに似ている。」となる。今年度も京大の工学部を受験する生徒がいるのだが、彼らが2次試験の現代文対策をしているのを見ると、「俺のときにもあったらなぁ(京大の理系では工学部のみ、私のときには2次試験で国語はなかった)」となる。あったらどうだったのか。言葉を使って柔軟に考えることができていないことに、もっと早く気付けたような気がしている。もちろん、同じ工学部でもそういう部分が鍛えられている連中はいたので、自分が未熟なだけだったのだが。
 そして、最後に東大寺学園高の2016年の英語の長文読解より。解答の和訳には次のようにあった。

 豊富な品揃えは混乱をもたらす。これを実験するために、あるスーパーマーケットで、客が24種類のゼリーが味見できるコーナーを作った。客は好きなだけ味見をし、それらを割引価格で買うことができた。その翌日、店主は6種類の味だけで同じ実験を行った。その結果は?2日目には10倍多くのゼリーを売り上げたのだ。なぜだろう?そのように種類の幅が多いと、客は決めることができず、何も買わなかったのだ。

 上の文章に関して、「オバマ大統領がネクタイの色を予め決めていたこと、スティーブ・ジョブズが毎日同じ黒のタートルネックのセーターを、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグが同じパーカーを着ていたことの理由を知ってるか?」と尋ねた。その問題を解いていた中3の生徒が答えられなかったので、「仕事で決断することが多いから、それ以外のことで選択するエネルギーを浪費せえへんようにするためや」と教えた。この文章で取り扱うにあたり、念のために調べたら下のサイトがヒットした。
https://kotono-ha.com/74080/2019/11/25/
挙げている3人はまったく同じで、内容に若干の違いはあるがおおよそ間違えていなかった。余談ではあるが、これも偶然、冒頭の文章と同様に「ことのは」とあった。
 数学に「必要条件・十分条件」という分野がある。問題を正しく解説するだけで役目を果たしたと勘違いしているようでは教える者として失格である。それぞれの生徒に合わせて、彼らがきちんと消化できるレベルで説明できて初めて必要条件を満たす。一方、上のオバマ大統領の例のように、それにまつわる話などをして、好奇心を刺激することが十分条件をクリアすることにつながる。私個人としては、特に国語に関しては必要条件の方はボーダーライン上にいるので、それを補って余りあるぐらいに十分条件の方のレベルをもっと高めて行かなければいけない。

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