2023.10.24Vol.612 分からんもんも結構分かる
文章が長くなりすぎる傾向にあるので2,000字前後に収めようとしているのだが、結局いつも2,500字ぐらいになってしまっている。
なんで今年に限って阪神が優勝するんや、と嘆いている受験生の母親は少なくないのではないだろうか。先日、6年生の男の子がいつもより集中して勉強をしていたので、「珍しいやん」と声を掛けると、「ちゃんとせな、お母さんに、阪神の試合見せてもらわれへんから」と返って来た。我が子だけ見ていると焦るかもしれないが、阪神のことで浮き足立っている受験生は少なくないので、それが理由で落ちることはない。関西の学校であれば間違いなくそうである。志高塾生に限れば、彼らは最低限やるべきことをやった上で、阪神のことも楽しんでいる。これが受験まで1か月を切っていれば話は変わるが、日本シリーズが終わってからまだ2か月以上も残っている。今、チャージしている精神的エネルギーを、追い込みの期間で思う存分開放すれば良いのだ。「あの受験の年は最高やった。阪神は優勝したし、第一志望に合格できたし」と彼らが振り返れるように、我々も生徒のためにできることをやるだけである。
「Vol.609 今がそのとき」は、「5年生の三男に向かって、『ほんと馬鹿だなぁ』という言葉を投げつけることが最近めっきり増えた。」の一文で始まっている。以下は、その次のVol.610の冒頭に持って来ていたものなのだが、字数が多くなり過ぎたために削ったものである。
今回も残念ながら三男にまつわる「ほんと馬鹿だなぁ」の新作から。一昨日の日曜日、安土城の営業開始の8時半に間に合うように7時10分に家を出ることになっていた。元々は先週の日曜に行く予定だったのだが、その前日の天気が悪かったから延期にして、代わりに大阪城を訪れた。これだけいろいろな城を巡っているのですべてをはっきりと覚えているわけではないのだが、安土城に関しては明確に記憶に残っている。卒園したての長男と2人、3月下旬の春の陽光の中を、天主閣跡を目指し、心地良い汗をかきながら長い坂を登ったことを。春と秋という季節の違いはあれど、それなりに似通った天候の中で歩きたかったのだ。一昨日は、昼ぐらいから雨予報だったので、少しでも早く行く必要があった。そのことを理由も含め前の晩から伝えており、当日の朝に起きてから念押ししたにも関わらず、「行くぞ」と声を掛けてから、バタバタと最後の準備を始めたのだ。まだ終えられていなかったことを玄関のドアを開けながら叱責し、怒りに震えながらエンジンをかけたものの、すぐ切って家に戻り、「もう、今日は無し」と伝えた。そこからダラダラと説教を始めるわけではなく、「ほんと馬鹿だなぁ」を投げつけて終わりである。その後、気分転換も兼ねてゴルフの打ちっ放しをしているときに、ふと「馬鹿に付ける薬はない」という慣用句を思い出した。辞書には「ばかをなおす方法はない。ばかな者は救いようのないことをいう。」とあったが、私は別の解釈をした。薬で対処療法的に治すことはできないからこそ、時間を掛けて根本的に改善を図る必要がある、と。これに関しては、もう1つおまけの話がある。週1回木曜に配達される『読売KODOMO新聞』の先週の一面が偶然にも安土城に関するものだったのだ。妻が、あえて何も言わずに、食卓の見えやすいところに置いていたにも関わらず三男はまったく気付いていなかった。親として、来週はこのシリーズをお休みできることを願うばかりである。
一昨日、二週間遅れでようやく安土城を訪れることができた。2人ではなく、クラブの試合があった長男を除いた家族4人であった。訳あって、前回より20分早い6時50分に出発予定であったのだが、三男は少なくともその5分前には出られる状態になっていた。子供たちと城巡りを始めてしばらくすると、いつの間にか100名城のスタンプ帳にスタンプを押すことが目的になり、急ぎ足で1日に3つの城を回ることもあった。それに気づいてからは「一日二城」を胸に刻んだ。もちろん、そんな四字熟語は存在しない。たとえば、今回、安土城の後に、「信長の館」を訪れた。長男のときは、その後に他の城に行く予定があったため、その存在すら知らなかった。そこには、1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された原寸大の安土城天主(5・6階)が展示されていた。今回で言えば、「一日一城」であった。
算数において、1問に対して2問解けば、2倍のことをやったように感じるが、その2問は考えるのを早々にあきらめて解答を見て、何となく分かったような気になっただけかもしれない。直後の復習テストでは点を取れても3か月後にどうなっているかは分からない。それよりも1問をじっくり考え、どうにかして自分で答えにたどり着かせた方が長期的には効果があるはずである。「そんなことしてたら塾の宿題が終わらない」という声が聞こえてきそうだが、それは、そもそもその分量がその子には合っていないのだ。もちろん、ただ時間を掛ければ良いというわけではない。その考えている姿を見て、「じっくり」か「だらだら」かの判別はきちんとしておかなければならない。
安土城と「信長の館」において、そこにあった説明などを一緒に読みながら二男と三男に読みや言葉の意味を質問した。その一部を挙げる。極彩異形、恭順、行幸、南蛮、斬新、佐和山城、石山本願寺、石仏、歓待、武勲、饗宴、雲雀、仕度、遺恨、嘆息。復元された正八角形で朱色や金色に塗られている安土城天主を見れば「極彩異形」の意味が、一度だけでなく二度、三度と「行幸」という言葉が「天皇」という言葉とセットになって使われていればその意味が分かる。「恭順」に関しては、「恭しい(うやうやしい)」という訓読みも合わせて教えた。ほとんど頭には入っていないだろうから、言葉を覚えるということにおいては非効率的だが、言葉の感覚を磨くということにおいては効果的だと私は信じている。「分からん」、「知らん」で終わらせるのではなく、どこかに手がかりを見つけて、分かろうとすること、知ろうとすることはとても重要である。分かったときの喜び、知ったときの楽しさを体験させてあげたい。改めて言うまでもないが、もちろん生徒たちに対しても、である。やはり2,500を少し超えてしまった。