2023.08.15Vol.603 国語塾を経営するということ
「松蔭さん、儲かっているから余計なことはしなくて良いんです」
Vol.598「企業秘密なんて何もない」の最後の一文を、「節目のVol.600は少し前から意識しているのだが、今回のことでちょうど過去を振り返るきっかけにもなったので、志高塾のたった16年の歴史をテーマにする予定である。」と締めた。一つのきっかけ、一つの理由、一つの目的。Vol.600から振り返っているのにはその3つが関係している。一つ目のきっかけに関しては、そのVol.598で述べた。そして、今回はその次にある理由がメインテーマとなる。正確には、このタイミングで「書きたくなった理由」ではなく、「書いてもそれほど問題にならなくなった理由」である。それは、私が幸運にも巡り会えた国語専門塾が、数年前に閉鎖したからである。だからと言って、何でも書いても良いわけではないので、そこには最低限の気を配りながら筆を進めて行く予定にしている。
私の中では、「国語力=人間力」という図式がある。別の言い方をすれば、国語という教科はできるのに、人間ができていなければ、その国語力は一体何のためなのか、ぐらいに考えている。もちろん、「私の中では」と断ったぐらいなので、世間一般でそんな式が成り立たないことは百も承知である。俺が、志高塾が、生徒たちを立派な人間に育ててやるんだ、などというおこがましいことは考えてはいないが、志高塾での作文や読解問題を通して生徒たちの内面が磨かれていないのであれば、私の中ではそれは何もしていないに等しい。私の個人的な感情が優先されるわけでは無いので、親御様が国語の成績アップだけを求められ、我々がそれに少なからず貢献して、それもあって第一志望の学校に合格でき喜んでいただけたのであれば、それは最低限の役割を果たしたことにはなるので、そのこと自体を否定する気は無い。
話が逸れて行きそうなので引き戻す。Vol.600の最後の段落で「こんな良い教育をしているので組織自体も優れているに違いない、という確信めいたものがあった」と述べた。こんな分かりやすい前振りも珍しいが、実際に入社してみるとイメージしていたものとはまったく違った。「新しく入った先生が研修もせずにいきなり生徒に指導し始める」、「先生は、生徒が作文をしている間、その近くで椅子に座りながら自分の本を読んだり時には居眠りをしたりする」というのがそこでの日常の風景であった。また、授業を受ける部屋に本棚やソファーが置かれていて、しかも、入れ替えの時間が無かったため、授業を受けている最中に次のコマの生徒がやって来て、周りでうろうろし始めていたのだ。さすがにそれは問題だと考え、私は週に1回、確か1~2時間ほど主宰者と2人で話し合う機会があったので、「今のやり方は、ホテルに例えれば、自分たちがチェックアウトする前に、次の客がチェックインして部屋に入ってくるようなものなので、せめて授業と授業の間に休憩の時間を設けたらいかがでしょうか」という提案を行った。それに対する返答が冒頭の一文である。どのタイミングで失望し、いつ絶望に変わったのかは分からないが、その言葉を聞いたとき「こりゃ、どうしようもないな」となった。算数や数学のテクニックに熟知していて、それらを駆使した問題の解法を論理的に教えられるトップが、売上至上主義の経営をしていても「そういうこともあるか」とどこか受け入れられる部分はあるが、国語の場合はそうはならない。経営する自分と教える自分を完全に切り離すことができれば話は別なのだが、そうでなければ、そんな人がいろいろな言葉を使って柔軟な思考を持てるように子供たちを導けるとは到底思えないからだ。ちなみに、志高塾では20コマ(1コマ90分)の研修を行い、最初の8コマは授業内では生徒との接触を禁止している。たとえば、「先生、この漢字教えて」と助けを求められたとき、それに対してどう対応するかは生徒ごとに異なる。8コマでそういうことのすべてが分かるわけではないが、一生懸命観察をして、そのことに関して言えば、まず「生徒ごとに異なる」ということを掴んでもらわなければいけない。そして、当然のことながら先生のための椅子は無い。ただ立っていれば良いのではなく、歩き回ってそれぞれの生徒の進捗を確認することに加えて、生徒の表情をよく見なければいけない、ということを伝えている。それによって、生徒が集中しているか、楽しめているかなどが把握できるからだ。
また、その塾には生徒ごとに連絡ノートというのがあった。先生は親のコメントに対して返事をするといったやり方であったため、たくさん書く親であればいろいろとやり取りがなされるが、そうでなければ「来週休みます」などの事務的な連絡がなされるだけであった。「同じ授業料を払っているのに随分と不公平だな」というのがそれに対する私の感想であった。すごく熱心に子供が書いて来た作文を読んだり、どんな本を読んでいるかに興味を持っていたりするのに、意見を伝えることに二の足を踏む遠慮がちな親も中にはいたはずなのだ。だから、志高塾では開校当初からすべての親御様に「月間報告」というのをお渡ししている。自分でも理由はよく分からないのだが、省略形を使うのが好きではない。それも「月間報告」のことを「月報」とは呼ばない一つの理由なのだが、「月報」だと会社で義務付けられている月々の形式的な報告のような感じがするので嫌なのだ。
ここまでいくつかの具体例を挙げて来たが、要は、その塾で私だったらこうするのに、と考えたことを志高塾で実践しているだけなのだ。「最低限の気を配りながら」と述べたが、自分でもどこにどう気を配ったのか疑問に思うところである。
誤解を与えないように最後に少し補足を。自らに人間力があると勘違いしているわけではない。ただ、自分に不足しているものがそれなりにあって、それをトップの立場にいる私自身がどうにかしようともがいていれば、志高塾という組織は少しずつでも良い方に向かって行くはずだと信じている。このブログ自体が、私のもがき、あがき、苦しみの象徴であることは読んでくださっているみなさんが一番理解してくれているはずである。