2023.06.06Vol.593 自伝的小説(未来編)を構想するにあたって
文章を書くのは難しい。タイトル1つ取ってもそうである。どのタイミングで付けるかはその時々なのだが、最初に決まっているときは、それにいざなわれるようにゴールをほぼ真っすぐに目指せるときもあれば、他の方向に加速し始めたのに、「タイトルとずれてしまう」と方向転換をしようとすることで減速することもある。
今回、タイトルは「これだ!」となり、一文字も書く前から文章の構成も頭の中でほぼできあがっており、「今回は行ける」という自信がある。そういうことは10回に1回もない。そういうときに限って、「あれ、おかしいな」と袋小路に入ってしまいそうな匂いがぷんぷんしているのもまた事実である。「調子に乗って、予定になかった余談に花を咲かせるな。同じ失敗を繰り返すなよ、俺」。
『毎月新聞』という教材がある。筆者の佐藤雅彦が書いた文章を読んで、与えられたテーマについて意見を述べることが求められる。なお、志高塾のツイッターで6月2日に掲載したものはその『毎月新聞』に関わるものなので、お目通しいただければ幸いです。その1つに「日常のクラクラ構造」と題した文章を読んでのものがある。本文の中で、「ゴミ袋を入れていた袋が最後の1枚を出した瞬間ゴミになること」、「財布を買うために現金で支払うとそこに入れるお金がその分減ること」などが具体例として挙げられている。それに対するテーマが「あなたの周りの『クラクラ構造』を一つ見つけて、四百字程度で説明しなさい」である。このテーマに限らず、本文の具体例に引っ張られないようにするためには抽象化する必要がある。この場合、「立場が逆転する事柄」などとできる。ただ、それをしてもこのテーマに適切なものを身近なところから持ってくるのは難しい。「新入社員時代の自分の教育係が、何年後かに自分の部下になった」などはそれに当たるが、実際にそのようなことは中々ない。
この週末、1泊2日で博多に行っていた。家族で行くときは子供たちに窓際を譲り、一人のときもすぐに出られるように通路側を選ぶことが多いのだが、今回は珍しく窓側で、ちょうど翼が真横に見えるところであった。何とは無しに外に目をやると変な感覚に襲われた。そして、「あっ、これや」となった。そのとき読んでいたのが『ライド兄弟 ~イノベーション・マインドの力~』で、本の中では2人はまだグライダーのような無動力飛行で100メートルすら越えられずに悪戦苦闘しているときだったのに、私は空を飛んでいたからだ。「よしっ、ここまでは順調。油断するなよ、俺」。
半年に1回の面談も西北は残すところ3人だけである。その中で、進学塾の個人面談の話が出てくることは少なくない。その内容を聞く度に「成績表だけ見て話をされても」となる。「漢字や語句で点を落としているから、毎日1ページずつやりましょう」、「計算問題で点を落としているから、毎朝10問ずつやりましょう」。たとえば、漢字を含めた語句で言えば、やっているのにできていないのか、そもそも興味が無いのか。本を読んで言葉はよく知っているのにできていないのか、まったく読書をしないのかでも違ってくる。また、他の教科ができる、できないによっても打ち手は変わる。ただ、これに関して親御様に伝えるのは、「進学塾にそんなこと期待しても無駄です。それを前提としてどう活用するかを考えなければいけません」ということ。親としてはそうなのだが、子供に関わる仕事をしている一人の大人としては「そういうもんだよな」で済ませられない。人というのは何がきっかけで変わるか分からないので、その時点のポジションだけを指標にして、「この子はダメ」という烙印を押してはならない。その逆もまたしかりである。今、良い位置に付けているからといって、「この子は大丈夫」とはならない。その考えは、志高塾を始めたときから自分の中にあり、そしてそれはこれからも間違いなく変わらない。ある日の面談終了後、ふと「あっ、そういうことなのか」と腑に落ちた。「俺は、その子の自伝に関わっているんだ」と。そんなことはこれまで考えたことは無かった。そして、今、こうやって書きながら、「自伝というより、自伝的小説の方が近いか」となった。自伝では、起こった出来事をできる限り忠実に再現することが求められる。一方、自伝的小説であれば、そこに創作の要素が加味される。自伝であろうが、自伝的小説であろうが、過去が対象となる。私の場合はそうではない。現在どのような状況であろうと、生徒の未来がよりハッピーになるように、自分に、志高塾にできることはないか、と今から先のことを考える。もちろん、結果が出るように手を打つところまでが我々の役割である。「この先も勉強で大して困ることはないだろうな」となる生徒であれば、できるからこそより深く、より柔軟に考えられることを目標にして、かつ人間性も高めてあげなければいけない。一方、今、勉強で苦労している生徒がいれば、まずは考えることの楽しさを経験させてあげなければいけない。頭を使わずに良い仕事などできないのだから、勉強嫌いでも考えることは好きであって欲しい。
その自伝的小説なるものに何章から関われるのか、何章まで関われるのか。その後も間接的に関われるのだろうか。それは分からない。我々が書き手でないことはもちろんのこと、別にそこに登場する必要もない。「子供の頃に、ああでもないこうでもない、と作文をたくさん書いて、いろいろな本を読んだことが今に役立っている気がする」というような文言がどこかにあれば、それで十分である。
志高塾の強みは、生徒のダイバーシティにある。「ダイバーシティ」という言葉は、マイノリティを排除しません、というきれいごととして用いられることも少なくない。そもそも、生徒は一人一人違うのだから、皆、マイノリティなのだ。それぞれの生徒に同じ強さの透明の光を当てる。輝く色は違う。生徒自身が元々持っている色が違うのだから当たり前のことである。それこそがダイバーシティである。
7月26日に第1回『beforeとafterの間』を行う。トップバッターは、これまで道のど真ん中を歩いて来た元生徒である。一方で、今回、博多で2日間、一緒に晩御飯を食べたこの春大学1回生になったばかりの男の子は、ずっと超低空飛行というか、そもそも飛ぼうとすらしていなかったのが、ようやくやる気になっている。その彼が第2回、3回では無理でも、どこかで後輩たちに自分の経験を胸張って話せるような人になることを期待している。もちろん、それは彼だけに限らない。「やればそれなりにできるじゃないか。次も気を引き締めて頑張れよ、俺」。
なお、オリジナルのタイトルは「自伝を書き進めるにあたって」であった。