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2023.03.07Vol.582 厳格の置き場所

 子育てにおいて厳格に守って来たことがある。それは、にんじんをぶらさげないこと。そして、前言を撤回しないこと。それらに関しては、これまでも何度か書いてきた。
 まず、前者に関して。親はやらせたいが子供がその気にならないとき、伝家の宝刀として抜かれる。たとえば、「塾の次のクラス替えで、元のクラスに戻れたらゲームの時間を増やしてあげる」など。「伝家の宝刀」を辞書で引くと、「いざという大事な時以外めったに用いないもの、事柄、手段などをいう。奥の手。切り札。」とあった。もし、「第一志望の学校に合格出来たら、最新のiPhoneを買ってあげる」であれば、まだ良いのであろう。入試は、「いざという大事な時」に該当するからだ。それであっても私であれば、そういう釣り方はしない。そのようなことを全くしてこなかったか、と言えばそうでもない。ただ、「ご褒美」を言葉にすることはない。それを口にすることで、そのうちに「〇〇したら(できたら)、何してくれる?」と子供から要求するようになってしまうからだ。一例を挙げると、真夏に一緒に洗車をしたときは、その後スーパー銭湯に行って汗を流し、アイスも食べ、併設されたゲームセンターでいつもより少し多めにクレーンゲームをやらせてあげる、というぐらいの話である。そういうことを繰り返し経験して行くと、「お手伝いしたら、ちょっとだけ良いことあるな」となる。それぐらいがちょうど良い。
 話を戻す。クラスが落ちたぐらいで、ゲームをぶら下げるとろくなことはない。ゲームの時間が増えて、勉強時間が減れば元の木阿弥となる。私であれば、すぐに上がることを目標にせず、まずはきちんと立て直すことに焦点を当てる。一番良くないのは、エレベーターのように行ったり来たりすることである。よって、二度と落ちないような下地を作ることを優先しなければいけない。根本的な部分で問題を抱えていなければ、地に足を付けた対策をとっても自ずとすぐにクラスは上がる。
 中学生の頃、個人塾の先生が、主要5教科の平均点が93点以上であれば3千円分の音楽ギフトカードをくれた。確か、そこから平均点が1点上がるにしたがって千円ずつ上げてくれた。だから、当時、同級生よりたくさんのCDを持っていたはずである。当時の私は、そんなものが無くても同じようにやったはずだが、おまけとしてもらえる分には嬉しかった。このように見て行くと、にんじんが目的になるかおまけになるかでその良し悪しは決まるが、そもそもぶら下げる側が目的にしてしまっていることがほとんどであるような気がする。
 次に、後者に関して。これの代表例は、聞き分けの悪い子に向かって親が発する「言うこと聞かないなら、置いて行くからね!」だ。私はただの一度もその脅しを使わなかった。置いて行くことはできないからだ。初めの頃は、泣いて謝っていた子も、そのうちに「どうせ連れて帰ってもらえる」となる。許してもらうために、ウソ泣きぐらいはするのだろうが。そして、元々大した効力を発揮しなかったその決まり文句だけではなく、親の言葉自体に対する信頼性が損なわれてしまう。前回、「私の言葉を受け取った相手が、『これは社交辞令』、『これはちゃんとした約束』といった感じで区別できていれば問題ないのだが、ごちゃまぜにしているうちに当の私自身がよく分からなくなる気がする。そんな状態で共有認識は持てない。」と述べた。「私」を「親」に、「相手」を「子供」に、「社交辞令」を「脅し」にそれぞれ置き換えれば、そのまま意味が通じるものになる。
 その2つは我が子だけではなく、生徒たちに対しても同様に守り続けて来たことである。そんな私にも少しずつ変化が生まれている。完全なる撤回はしないが、緩和するようにはなったのだ。一か月ほど前、妻に暴言を吐いた二男に、「お母さんにそれだけ偉そうに言うのであれば、それぐらいしなさい」と1か月間の家族全員分の皿洗いを課した。朝、昼、夜のすべてにおいてである。「今は無理」、「後で」などは許さない。結果、2週間ぐらいに短縮した。一週間前にも似たようなことがあった。新6年生で甲陽を目指している子がいる。教えている私自身が油断することはないが、合格するのは間違いない。現時点で余裕の成績を取っているわけではないが、それと私が得ている手応えが一致しないことは往々にしてある。彼は、週に国語2コマ(作文と読解)、算数1コマを取っている。昔からとにかく、うつらうつらする。「寝たんだから、それ以上にやって行け」と伝えると、以前は泣いていたのだが、自分の責任だと受け止められるようになった。それは成長なのだが、決まった時間でやることをやって、さっさと帰るに越したことはない。そこで先週、「今週の作文と算数の授業で一度も寝なかったら、その後にある読解の授業では甲陽の過去問を初めてやらせてあげる」と条件を付けた。本人が早くやりたがっていたからだ。「過去問に慣れることが大事」と言われるが、それはあくまでも実力が一定以上あっての話である。そこに全然到達していない子がやったところで何の意味も無い。彼が解くことを私が許可したということは、そういうことなのだ。にんじんをぶら下げたにも関わらず、彼は目を閉じてしまった。それを受けて、「あーあ、今週は、甲陽はお預けやな」と伝えたのだが、その2日後に「やっぱ、1回だけやらしてあげる」と方針転換をした。1回甘い蜜を吸わせた方が「やりたい」という気持ちが強くなると判断したからだ。実際に解かせたらそれなりにできたので、甲陽の過去問を継続することにした。後は、彼のまぶたに心がどのような指令を下すかである。今週は、実力で権利を勝ち取れるのだろうか。それに関しては、ここで次回報告することにする。
 緩和するようになったのは、それをしたところで、息子や生徒たちの中で、「この人、どうせ緩めてくれるんでしょ」という風にならないことが分かったからだ。それは、私が先に厳格にしてきたからだ。さんざん甘やかしておいて、言うことを聞かなくなってから厳しくしても時すでに遅しである。もちろん、厳格と理不尽は違う。罰を与えることが目的では無いので、なぜそうするのかを大人は説明をしなければならない。いわゆる説明責任である。一方で、そんなものを省いて「理由なんてどうでも良い。つべこべ言わずにやれ」というのも時には必要である。無説明責任と呼んでも良いかもしれない。できる限り適切な判断を下し、修正が必要であれば手を加える。その心構えと実行力が大人の側にあれば、言葉は子供たちの心の中でちゃんと響く。

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