2022.11.08Vol.566 こういう風にしたいんですけど
「Vol.563種」で紹介した「学びラウンジTUMUGU」の宇宙に関して学ぶオンラインイベント。6年の二男と4年の三男、先週の土曜で全4回の講座を終えた。隣で見ていたわけではなく、内容について2人から詳しく教えてもらったわけでもないが良い機会になったはずだ。まず、宇宙の専門家の話を聞けることが珍しい。正確には、聞くことはできたり本で読んだりすることはできる。ただ、それはある程度の人数に向けてのものなので、自分のレベルに合ったものである可能性が高くない。しかし、参加者が15人前後、対象の範囲が狭く(今回であれば主に高学年)かつそこに自分が含まれていること、それに加えてインタラクティブなやり取り、この3つの条件が揃うことは中々ない。だからと言って、いろいろな分野において同じような経験をたくさん積めば良いかと言えば、それもまた違う。非日常のことであれば外的な刺激を得やすいが、あくまでも柱になるのは日常だ。大事なのは、勉強、スポーツ、音楽を問わず、自らがそれなりのエネルギーを注いでいることにおける日々の似たようなことの繰り返しの中に、少しでもやりがいや達成感を得られるように自ら働きかけて行くことである。志高塾で言えば、意見作文の教材をアップデートして行くことはその一例だ。現行のものをそのまま使い続けたとしても悪くはないが、社員が中心になって問題を作成し、古いものと少しずつでも良いので入れ替えて行く。どこかの小論文試験で出題されたものを取ってくるのではなくゼロから作る。既存のものであれば、過去の生徒の取り組みからどのように導けば良いかは大体分かるが、新しいものだと「こういうことを考えさせたい」という思いを込めて問題を準備していても、想定していた通りには行かない。予想していたものと違うアイデアが生徒から出てくるから、そこで教えている我々としてもいつも以上に頭を働かせる必要が出てくる。志高塾では、このテーマに対してはこういう風に書きなさい、という模範解答のようなものを教え込むことはしない。生徒が書いたものをスタート地点にして、それをより良くするためのやり取りを行うので、使い古したものでもある程度の新鮮さは担保される。しかし、新しいものだと鮮度が少し高まるのだ。その+αが、上で述べた「繰り返しの中に少しでもやりがいや達成感を得られるように」の「少しでも」に当たる。
ここからは、先週、授業中に私が講師に注意したことについて述べる。『コボちゃん』に取り組んでいる生徒がタイトルを付けるのに10分以上使っていた。その生徒の課題は作文の方にあったにも関わらず。また、『コボちゃん』や『ロダンのココロ』の作文前の口頭での内容確認を1コマずつ細かく行い、15分ぐらい費やしていたこともあった。その一方で、「今日こそは(90分で)2本やろうね」という声掛けをしていた。確認でそれだけの時間を取ってしまえば、それはほぼ不可能である。我々の役割は、生徒に目標を伝えることではなく、生徒と目標を共有した上で達成できるように導いてあげることだ。
そこで思い出したことがある。浪人時代も同じ予備校に通い、共に一浪で京大に行った高校時代のサッカー部の友人がいる。彼はそのまま博士課程まで終えて助手になり、30歳前後で地方の国立大学(A大学とする)の准教授になった。めでたいことに最近その大学でようやく教授になれたのだが、以前その彼に「京大とA大の生徒の一番の差って何?」と尋ねると、「京大の生徒は『これこれこういう実験をしたいんですけど良いですか?』とやりたいことがあって、それに対する許可を求めてくるが、A大の生徒は『何をしたら良いですか?』と指示を仰いでくること」と教えてくれた。
生徒自らタイトルを付けること、講師がマンガの内容を1コマずつ確認することは志高塾において基本的な教え方である。しかし、決められたことをやっているだけではうまく行かないこともある。だからと言って、それぞれの講師がその場の思い付きだけで勝手なことをしていては、生徒が混乱してしまう。そこで、指導にあたる講師が、経験のある社員なり社会人講師なりに「こういう風にしたいんですけど」と自分なりのアイデアをぶつけてみれば良いのだ。時にはタイトルを飛ばしたり、5分ぐらいに収めるために内容確認をオチだけに留めたりしても良いのだ。実際、それを私はその場で伝えた。具体策を提示したのは、それぐらい自由に考えても良い、ということを伝えたかったからだ。講師が生徒の成長に責任を持って出した案がマイナスに働くことはほぼない。そもそも、「考えなさい」と生徒たちに伝えている我々が思考停止に陥っているようであれば説得力が無さすぎるではないか。