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2021.01.12Vol.478 真面目というかっこよさ

 公立中学に通う中一の男の子のお母様への新年早々のメールの中で私は次のように述べ、本人にも読んでもらうようにお願いした。
「入学前はトップ校を狙うと豪語していたことを考えると3が2つもあるのはいくらなんでも情けなさ過ぎます。有言実行になるように、どうにか頑張っているのであればまだ分かるのですが、現実を知って『これぐらいでいいか』となっているように見えるのが残念です。」
英数国の3教科はそれなり(これも私に言わせれば、彼の実力からすると満足の行くものではない)であることを考えると、ちゃんとやりさえすれば高得点が取れる暗記中心の理科と社会で、通知表で3が付くはずがないのだ。これは本人にも伝えていることなのだが、その2教科の勉強を通して細かい部分まできちんと押さえられるようになればそれなりで留まっている3教科も間違いなくもっと伸びる。
 生徒たちに偉そうに言いながら、同じ時期の自分はどうだったのだろうか、と自問自答することは少なくない。私は、高校1年生の秋にサッカー部に入部した。それまでの経験はゼロである。手を使う球技は何でもできたので、足を使うサッカーは少しぐらい苦戦するだろうと踏んで、「でも、まあ3か月もあれば(一学年上のチームに入って)レギュラーは取れる」と宣言していた。結果的には、点を取るのが主な役割であるFW(フォワード)というポジションで、自分の代になっても3,4番手止まりであった。そのポジションでは基本的に2人が出られたので、私は誰かが怪我をしていたら先発で出られたし、途中から交代で入ることも少なくはなかった。「『3か月もあれば』とよく言ったもんやなぁ」と後から振り返り、幾度となく自分の浅はかさが身に染みたが、前言を撤回しようとはならなかった。望んだ結果が得られなかったので胸を張ってはいけないのだが、誰よりも練習したことは紛れもない事実である。それはこのブログでも何度か書いた気がするが、サッカー部はもちろんのこと、他のクラブの生徒が誰もいない時間から1人グラウンドに出て朝練をしていた。上手でもさらに上を目指してやるべきなので、下手くそがやらなくてどうするという話である。誰か他の人のためではなく、自分のためにやっていただけでなので、当たり前のことを当たり前にやっていただけに過ぎない。それゆえ、一生懸命や努力という言葉を充てることはできない。ただ、別の味方をすれば、当たり前のことを当たり前にするというのは決して当たり前のことではないのかもしれない。私が高校生の頃にしていたことを中学生の彼に求めるのが妥当かどうかは分からない。そういうときはどうするか。期待して何も悪いことはないよな、と結論付けて一丁上がりである。
 芦屋国際を受験する生徒を除けば、今週の土曜日に中学受験本番を迎える。例年になく良い雰囲気なので、彼らが実力通りの結果を出してくることは間違いない。不思議なことに、人数が多い方が一体感が出やすい。志高塾は中学受験のための塾ではないので、今の5年生以下は一学年の人数を現行の15人から12人に絞っている。個人的に中学受験の対応をするのが大変というのもそのようにした理由の1つなのだが、今年の生徒達を見ていると若干の迷いが出てくる。良い雰囲気というのは、ぴりぴりとしたものではなく、柔らかさであったり温かさであったりを含んだものである。ただ、ぴりっとしていないのは、私は大嫌いだ。「ぴりぴり」と「ぴりっ」の違いは何か。それは前者が常に緊張状態であるのに対しては、後者はオンとオフの切り替えがきちんとなされていることである。私が帰った後にある生徒がふざけていたというのを、その翌朝に他の生徒から伝え聞いた。先週の話である。彼は、私がいるときといないときで態度が変わるので、「俺の前でできないことをいないときにするな」とこれまでにも再三再四注意してきた。朝、お母様に送ってもらってきたその生徒を、車を降りたところで問いただし、前日のことが事実であることを確認してそのまま帰した。そして、次同じことをやったら受験直前であろうが退塾させると伝えた。もちろん、すべてお母様も聞いているところでの話である。その日は8時半から17時ぐらいまで授業も含めて教室で勉強する予定であった。良い雰囲気というのは、自然に醸成されるわけではない。何が正しくて、何が正しくないのかをきちんと分かるように伝えてあげなければいけないのだ。これに関してもやはり考える。私が子供の立場だったら、今の私の言うことを素直に聞くだろうか、と。その問いに対する答えのイエス、ノーではなく、子供の頃の私が聞きたくなるような伝え方は果たしてどのようなものか、を考えることこそが重要なのだ。小学生の頃、先生に怒られないように行動するような奴を「真面目」と呼んでいた。そのような私の考えに異議を唱える人はそれほど多くないであろう。でも、本来真面目というのは何も悪くないのだ。そのためには定義をし直す必要がある。「真面目とは、自分のやるべきことをきちんと理解して、行動できることである」。自分のやるべきことが理解できていれば、それが終われば私の前でもオフになるだろうし、逆に終わっていなければ私がいなくてもオンの状態は維持されるのだ。
 真面目であることは、かっこ悪いどころか本来すごくかっこいいことなのだ。自分のやるべきことをきちんと理解できていることの証なのだから。真面目な生徒が増えるほど良い空気が生み出されて行く。三つ子の魂百まで、とはよく言ったものである。子供の頃、訳の分からないことを言っているにも関わらず、それでも従え、という大人がいたせいで、「真面目」なんてダサい、というのが自分の中にしみついて消し去ることができなくなってしまった。「真面目」だと思われたくないばかりに、本当はずっと生徒に寄り添っていたいのに「不真面目」なふりをするために私は早く帰るようにしている。ふりをし続けることの苦しさ、もどかしさよ。生徒たちが将来私と同じような経験しないで済むように、「真面目」ではなく真面目になれるよう適切なタイミングで心が共振するメッセージを伝えてあげたい、ただし、お届けできるのは平日は18時まで、土曜日は15時までとなっているためくれぐれもお気を付けください。

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