2020.12.15Vol.475 将来の夢
灘でも開成でもいいのだが中学受験に合格した子供がテレビのインタビューで将来の夢を尋ねられ、「困っている人を助けたいから医者になりたいです」と答える。それに対して出演者が「この歳で、立派な夢があってすごいですね。私が同じぐらいの頃は・・・」とコメントする。この手あかのついた一連のやり取り。少年野球でも少年サッカーでもいいのだが、そこで同じ質問をすると、かなりの確率で「プロ野球選手」、「Jリーガー」などと返ってくる。確か、私も小学校の卒業アルバムに「プロ野球選手」と書いた。そこに深い考えなどない。同じように語る子供100人のうち2人か3人はその目標に向かって日々努力を重ねているのだろうが、その他大勢はそうではない。
今回は中1の女の子が、新聞に投書する文章を書くという課題を学校で出され、教室で取り組んだのでそれを紹介する。なお、テーマは自由であった。文章を掲載することは本人の、それにまつわる情報について触れることはお母様の許可をいただいている。ちなみに本人は、「載せるのはいいけど、松蔭先生を楽させることにつながるのが嫌や~」と意味不明なことをつぶやいていた。
2020年9月アメリカ最高裁判所裁判官のルース・ベイダー・ギンズバーグ氏が他界した。
私が彼女のことを知ったのは、彼女が亡くなってから、とあるテレビ番組で取り上げられているのを見てからだ。彼女は女性差別だけでなく男性差別や人種差別についても関心を向け、誰もが不利にならない平等を目指し、アメリカ社会に大きな影響を与えた。
彼女の考えは私にとってとても新鮮だった。何改なら、今まで「女性は男性に比べ悪い待遇を受けている」と、まるで女性だけが酷い扱いであるような事しか聞いたことが無かったからだ。私は彼女に尊敬の念を抱くと共に、こうも思った。「彼女のような人が再び現れるのだろうか。また、日本にはこのような人がいるのだろうか」と。多分、答えはどちらもNOだ。居たとしても周囲に潰されて終わるだろう。
社会には、平等は実現できないから諦めようという空気が流れているように感じる。確かに、平等な社会には絶対にならない。しかし、それで放っておくのは違うのではないか。
無理だから何もしないのではなく、少しでもやってみたほうが良いのではないか。従来の偽善的な平等ではなくギンズバーグ氏のように真の平等へ力を尽くすような人になりたい。
亡くなった年月やギンズバーグ氏のフルネームが正確ではなかったので、それに関しては今回掲載するにあたって手を加えた。「社会には、平等は実現できないから諦めようという空気が流れているように感じる」の部分は、初めに書き上げたときには「繰り返し同じことを言い続けていれば、そのうちに社会は変わると思っている人が多い」と現実社会で起こっていることとは真逆のことを述べていたので「それは反対や。言っても変わらないからあきらめてしまってる」と指摘し、それを踏まえて彼女自身が修正を加えた。それ以外にも、どこか一か所指摘したが忘れてしまった。授業時間をオーバーしていたこと、また、私と一緒に細かく修正を加えて掲載されても嬉しさもないだろうと考え、書き直したものにはまったく手を付けなかった。
月間報告のやり取りを通して「娘に将来の目標ができました」ということをお母様から教えていただいた。その中で「本人自ら、そのために東大の文Ⅰに行って海外に留学するという道筋まで考えた」ということにも触れられていた。「この先、目標は変わるでしょうが」とも書かれていたので、それに対して「もちろん、この先変わるかもしれません。でも、その新たな目標は、今のものよりも素晴らしいものになっているはずです」というように返した気がする。
ご両親は共に医者なのだが、子供を医者にさせる気はないと以前からおっしゃられていた。当たり前の話なのだが、医者になることを禁止しているわけではない。それを前提にしていないだけの話である。彼女にとって最も身近な職業であることは紛れもない事実である。もし、いろいろ考えた結果、やはり親と同じ仕事がしたい、となれば、そのときはとても良い医者になる気がしている。そんなことを考えていると、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』が思い浮かんだ。
「ワークマン式『しない経営』」の中で紹介されていた『両利きの経営』を読み始めた。余談だが、「この本の装丁、これまで見てきた中で一番かっこいいやん」となった。まだ10ページぐらい読んだだけなので中身に関しては詳しいことは何も分かっていないのだが、両利きというのは「知の探索」と「知の深化」の両方という意味である。要は、経営者は未知の領域を探索し、ただ探しているばかりでもダメなので、これだというものを掘り下げなければならず、それをバランス良く行う必要がある、ということなのだ、きっと。
自らの足で探索をしようとしても、そこらへんをウロチョロしているだけで終わりそうである。志高塾を巣立った生徒たちが私にいろいろな景色を見せてくれることを願うばかりである。臨場感たっぷりのVRといったところであろうか。もう、生徒たちの夢を獏って食べながら成長して行くしかないな。お後がよろしいようで。