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2020.11.17Vol.471 そのようにしたのは一体誰なんだっ!

 半年に1回の面談を終えた。前回はコロナの影響で希望者が少なかったため、1年ぶりに多くの親御様とお会いできた。あるお母様との面談に際して、同席する社員が「週2回授業をしていても成果があまり見られないので1回に減らしたいのですが、そのような提案をしてもいいですか?」と尋ねて来たので、理由を聞いた上で「いいよ」と返した。親御様に受け入れていただきそのような運びになった。背景はこうである。中学受験が直前に迫っているため、秋になってコマ数を増やしたものの本人にやる気が見られず、授業時間が増えただけの状況に陥っていた。ひとまず1回に戻して、質が上がったのを確認できた時点で改めて増やすことを前提とした一時的な変更であった。余談だが、「指示語の指す内容は前にある」と断定的に教える人がいるが、上のような場合もあるので「95%ぐらいは前を指すけど例外もある」と伝えてあげなければいけない。この指示語のこと自体は些細なことであり、わざわざ説明しなくても子供たちは経験的に理解している場合がほとんどなのだが、だから厳密でなくても良いということにはならない。1つ1つの事柄をどのように伝えてあげれば子供たちの中に浸透して行くのか、ということに神経を使う必要があるということを言いたいのだ。小さなことをゆるがせにしないことで、より重要なことにおいて適切なメッセージを発することができるのだ。閑話休題。社員が上のような判断をできたこと、そしてそれを私に伝えてきたことが嬉しかった。そして、それ以上に私を喜ばせたことがあったのだが、それに関しては後述する。
 開校当初、正確には自分でやると決めた時点からどのような塾にしていくかということに頭を悩ませていた。何をどのように教えるかについて考えるのは当然のことなので、直接勉強に関わること以外の部分、どのような組織にしていくか、などの方に意識を向けていた気がする、たとえば、「アルバイト」という名称に関して。マクドナルドがクルーと呼ぶように、何か良いものはないかとアイデアをひねり出そうとしたものの途中で断念。どのような経緯で諦めるに至ったのかは忘れてしまったが、呼び名をそれっぽくしたところで、というところに落ち着いた気がする。「人材部門」を「人財部門」と看板の書き換えを行えば、人を大切にするようになるわけではないのと同様である。『志高塾』も、この『志高く』も気に入っている。名は体を表すと言う。私の場合、体が少しでも名に近づくようにしなければ、という思いが働いていることに少なからず価値を感じている。名付けただけで何かが変わることがないことだけは紛れもない事実である。
 当時流行っていたこともあり『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』というのを読んだ。「サービスを超える瞬間」とあるが、私はこの「サービス」という言葉が好きではない。何気なく使っていることはゼロではないだろうが、少なくとも「家族サービス」は一度もないはずだ。男の人が何かをした場合だけ、その言葉が使われるのは明らかにおかしい。何もお母様たちのポイント稼ぎをしたくて、このようなことを述べているのではない。ただ、結果的にそうなったのであれば、それはありがたく受け取らせていただく。”service”というのは、「仕える」という意味の動詞”serve“の名詞形である。一見、下手に出ているようで、「家族サービスしてる俺」というのは明らかに上から目線なのだ。このちぐはぐなところが、私がこの言葉を好まない理由である。そういうわけで、勝手に私がお父さんを代表して、お母さん達へ感謝の意を述べたいと思います。いつもありがとうございます。現時点で、どれぐらいポイントが増えたのか誰か集計してくれないかな。本日2度目の閑話休題。その本の中でも紹介されていたが、各スタッフが上司の承認なく自由に使える予算がある。それが5万だったのか10万だったのかは忘れてしまった。各人の裁量でお客様のために使うことができるのだ。お客様同士の会話に耳を傾けていると実は記念日だということが分かり、サプライズで花束を急遽用意してプレゼントする、などというのがそれに当たる。当時まったくお金が無かったにも関わらず、物は試しと言うことで泊まりに行ってみたが、特段の快適さを感じることはなかった。私の期待度が高すぎたからなのか、それともスタッフが「良いサービスをしよう」としているのが前面に出ていたからなのか。その後、割安のバナメイエビを芝エビと偽って供していたことが発覚して、そんな程度か、となった。それで言うと、今も通い続けている小さな焼鳥屋の方が私は感動した。初めて行ったときに領収書をいただいたのだが、2度目に訪れたときに、会計時に私が何も伝えることもなく、私の名前の入ったものをスッと渡されたのだ。私は人見知りの性格ゆえ、その時点ではまったく会話などしていなかった。これの何がすごいかと言えば、私が再訪するとは限らないにも関わらず、そのような準備をしていたことである。もし、私が一度きりの客であれば、それは誰知ることもなく捨てられるものだったのだ。こういうものに「サービス」という言葉はそぐわない。「気遣い」、「心配り」などの方が断然しっくりくる。
 我々が果たすべきは、子供達を成長させることで彼らの未来を明るくすることであり、親御様に通わせて良かった、と心から思っていただくことである。それゆえ、売上を増やすことなど目的にしていない。冒頭の社員の話は、大事なことが何かを考えたからこそ出てきた意見であった。それに喜びながらも、待てよ、となった。一体誰がそのような環境を作り出しているのか、という問いが私の中で湧き起ったからだ。そして、すぐさま「それ俺やん」となった。と言う、とてもとても良いお話でしたとさ。

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