
2020.11.10Vol.470 United
2007年の開校以来、2008年を皮切りに都合4回のアメリカ大統領選挙を迎えたことになる。生徒たちが「今どうなってる?」と、その行方を尋ねてきたのは今回が初めてである。勝者が確定するまでに時間が掛かっていることも影響しているのだろうが、単純に注目度が高いのだ。メディアで十分すぎるぐらい取り上げられているので、専門家でもない私がここで何かを述べることはないが、州政府の力が強いことを実感した。日本において県政府などとは言わないので、ネーミングにもそれが現れている気がする。なるほど、そういう州の集まりだから“United States of America”なのだと妙に納得した。でも、「合州国」ではなく「合衆国」なのはなぜなのだろうか。今回争点になった郵便投票に関しては、州によって消印有効の日付が違うことに少々驚いた。私の感覚を持ってして日本人の感覚と呼ぶのはどうかとも思うが、国全体に関わること、しかも大統領を決める選挙なので日本人であれば統一されてしかるべきだと考えるのではないだろう。仮に県政府が存在していたとしたら、きっとそのようになるはずなのだ。
これまでに「全米50州」というのを何度も耳にしているが、今回初めて「あれ、待てよ」となった。47都道府県と数字が近似していたからだ。そして、このことに自ら気づいた日本人は意外と少ないのではないだろうか、と決めつけて、自分が何だかすごい発見をしたような気分になった。そして、「もしや」となったのだが、運転中だったので赤信号で止まったときに慌てて調べた。中国についてである。残念ながら期待通りの数字ではなかった。省の数は23なのだが、新疆ウイグルやチベットなどの自治区を含めると34の一級行政区が存在するとのこと。一級行政区は都道府県と同じようなものだと考えて問題はないはずだ。40から50の間であれば、私はかなり喜んだことだろう。人口、国土面積に関わらずそのぐらいが管理をしやすい数字なのだ、となったからだ。
上のようなことを考えているうちに、以前から議論されている道州制に及んだ。アメリカの人口、国土面積は、それぞれ日本の約2.5倍、約25倍である。それらを踏まえると、理論上、日本において管轄の範囲を広げることは可能なのだ。なぜそのようなことを考えるのかと言えば、生徒の意見作文の課題として災害対策を扱うことが少なくないからだ。支援物資の問題は毎回のように起こる。都道府県単位ではなく地方単位で備蓄する倉庫などをいくつか確保しておけば、輸送などもスムーズに行われるのではないだろうか。仮に、兵庫県が災害に見舞われた場合、当該自治体である兵庫県は現場の対応に追われる。隣接する大阪府や京都府に支援する体制が整っていれば、災害の度にどのような対応をするかを一々話し合わなくても済む。私は子供時代社宅に住んでいたのだが、マヨネーズや醤油などの調味料が無くなれば、同じ階段の人に借りに行っていたことを思い出した。しかし、今の時代のように近所付き合いが希薄になれば、各家庭で十分なストックをしていなければならない。今は、コンビニがその役割を果たしているのかもしれないが。点ではなく面で対処できるシステムを構築した方が効率的だということを言いたのだ。
数字に敏感に反応したのは、志高塾の講師が最近30人を超えたことと無関係ではない。過去に読んだ経営に関する本に、1人の人間が管理できるのはせいぜい30人まで、というようなことが書かれていた。以前は採用してからじっくり時間を掛けて育てるという方針であったが、今は、初めからある程度優秀な人を雇うというように変わっている。採用にそれなりのお金をかけるようになったこともあり、応募人数は格段に増え、そのようなことが可能になったのだ。部分最適の総和が全体最適にならないように、個の能力の集合体が志高塾の教育の質を表すわけではない。個が有機的に結びつくような仕組みがあって相乗効果は生まれる。それを “United ~ of Shikojuku”という形で表現するのであれば、「~」に何を入れるべきだろうか。一番分かりやすいのは”Teachers“。だが、採用する際に「良い先生」を採ろうと思ったことなど一度もなく、常に「良い人」を、である。上手に教えられる先生より、魅力的な人に働いて欲しいからだ。”Persons”だと、単なる「人」になってしまう。”Individuals”とすることで「個」という意味は出せるが、まだ不十分。そしてたどり着いた。“Individualities”。辞書に「個性」とある。