
2020.10.13Vol.466 原点回帰するとき
父塾。平日週4日開校予定が、2週目から5日になった。早起きの問題が無さそうなことと起きる時間は一定の方が生活のリズムは良くなるということから早々の変更になった。長男は勉強、二男は途中から本人の意思で週2日外に走りに行くようになり、三男はほとんどの時間を読書に費やしている。こう見えても私は決めたことはやらないと嫌な方である。5日にして子供が起きられなくて4日しかできないということがないように1日分余裕を持たせていた。金曜日を予備日にしていたのだ。5日と決めての4日であれば3日で3日の方が良い。そして4日、5日と増やしていく。「決めたことはやらないと嫌な方である」には「全然ちゃんとやらないじゃないか」という反論が予想されるが、それは私がやると決めていないことなのだ。私は毎日のように「えっ、先生、もう帰んの」という生徒達の大声援を背に教室を去って行く。「遅くまで仕事します」とは一度も誰とも約束していない。さて、件の父塾。誰一人欠けることなく毎日続けてきたものの、先週の月曜日から目下休校中である。
きっかけは長男が外部テストで例のごとくたくさん計算間違いをしてきたこと。そして、そのことに対して本人が前から何とも思っていないこと。日頃からミスをしているので驚きはない。その一事は引き金というよりかは、その一滴によって満杯になっていた容器から水があふれたといったイメージである。速さと正確性の2つを同時に求められると難しいかもしれない。家では時間を計るわけではなく、テストでも応用問題は解けないので他の生徒より計算問題に充てる時間はあるのだ。確実に点数を取れるところで落としたことを責めたかったのではなく、「計算ぐらいどうにかしよう」と思えないことに私は腹を立てた。もし、計算以外の何かでそういう向き合い方が私に見えれば、計算のことには目をつむったはずである。その何かは勉強以外の何かでももちろんいい。私は親御様からお願いをされたとき、能力的に、もしくは時間的に明らかに難しいということ以外は基本的に引き受ける。その際に経験の有無は判断材料にならない。そもそも親御様自体が、私に経験が無いことを承知の上で相談されることも少なくない。そういうとき、できるかできないかではなく「こんなレベルの期待に応えられない人でありたくはない」という気持ちが働く。ここぐらいまで書いて文章を寝かせておいたら、偶然、読解問題の文章で次のようなものを見つけた。「よくいわれることですが、ユーモアとは自分に対して距離を置くことができるような態度と関係しています。深刻な問題であっても、少し距離を置いてみれば、たかだかこの程度の問題だということで、気持ちが少し軽くなる。それがユーモアでしょう。」これは私の考えていたことと似ているのだが、「ユーモア」という一語が入っていることで各段に力の抜けたものになっている。こういうものを吸収していくことで、私の思考は少しずつではあるが柔軟になっていく。
休校にするかどうか迷っているときに、二男と三男だけは続けようかな、というのがあった。そちらは休む理由がなかったからだ。そして、長男が教えて欲しいと自らお願いして来たら、そのときにまたみんなでやればいいかな、と。結局そうしなかったのは、そうせざるを得ない状況に追い込んで言わせたところでその言葉に意味はないよな、となったから。弟2人が早起きしていて、受験生の自分が遅くまで寝ているのはまずいとなるに決まっているのだ。「好きな方を選びなさい、と言ったら、あの子自身がそっちを選んだんですよ」というような親御様の言葉には「子供は親が何を望んでいるか分かった上で答えるので、それが本心とは限りません」と伝える。「嫌だったら、受験しなくてもいいのよ」というのが典型的な例だ。「分かった。やめる」という話は聞いたことがない。
順調なときに「原点回帰」の出番はない。ちょっとではなく、ものすごくうまく行かなくなったときに初めてその言葉は役割を与えられる。おそらく10年ぐらい前にこのブログ(もしかすると、内部生向けの『志高く』であったかもしれない)で、「起き上がりこぼし」を例に取って同じようなことを述べた。ぐらぐらすることはあっても、最後に元の位置でピタッと立つのであれば問題はない、と。元々中学受験をさせる気はなかった。自分が歩んできたのと同じ方向で、かつ私より少しでも先に進めるようにするためにはどうしたらいいのか、という考えで子育てをしてきたわけではない。私という小さな枠なんかにはめずに面白い人になって欲しい、と願っていたのだ。
私は中学受験をしなくてもいいと考えているのだが、なぜだか私に代わって妻が勉強を教え始めた。教えるというよりかは管理するといった感じか。中学受験を経験したわけではなく、勉強自体をそれほどしてきた方ではないので、どこが大事なポイントかは分かっていない。私がレールを敷いてその上を効率良く走らせるよりかは、妻と二人三脚でやった方が、長男自身が気づけるようなことが多いような気がしている。
テストの件で怒った後、長男が司馬遼太郎の本を集中して読んでいるのを眺めながら、そこまで心配して先手先手を打つ必要はないんじゃないか、となった。私は、いつの間にかテストの点数を通してでしか長男を見られなくなっていたのだ。元いたところに背筋を伸ばしてまっすぐ立って、これまでより少し高い視座から今しばらく長男を見守っていこうと考えている。