
2018.06.12Vol.353 〇だ×だと言う前にX
先週は西宮北口校の面談ウィークであった。今回は時間が合えば豊中校の方にも顔を出す予定であるため、少なくとも50人以上の親御様とお話しさせていただくことになる。お子様を預かっている身であるため、授業中の様子、現状、今後の展望などをこちらからしっかりと報告しなければならないのだが、私の方が教えていただくことも多い。また、親御様が抱えているお子様の悩みなどに関して、少しでも参考にしていただけるように、と自分なりの見解を述べようと頭を回転させることも自分にとってプラスに作用する。瞬時に返答しようとすると、時間をかけてああでもないこうでもない、とじっくりと思考を巡らせるのとは別のアイデアが引き出されたりするからだ。直感というやつである。後から振り返って、的外れだったな、となることはほとんどなく、新たな気づきがあったりするので不思議だ。
三姉妹通わせてくださっているお母様に対して「お母様としては、二女が一番心配なのでしょうが、将来のことを考えると彼女が一番安心です。逆に気になるのは三女です」というお話をした。確かに二女に一番手を焼いているとのこと。マイペースなので親からするとやきもきさせられるのだが、私に言わせれば、1つずつ確実に自分のものにできている。一方、三女は効率がよく何でもそつなくこなせてしまうため、常に7, 8割の力でそれなりの結果を残しているように見えるのだ。悪くないだけに、本人に「実力出し切ってないやん」という事実を受け入れさせるのは容易ではない。
「そういう風に言っていただけるのはここだけです。少し気が楽になりました」というコメントを親御様からいただくことは少なくない。他のところでは「あそこがだめ、ここがだめ」と指摘を受けているのだ。親御様の気持ちを楽にしたくて慰めているわけではない。私なりに適切に子供を評価した結果をお伝えしているだけのこと。我々は批評家ではないので、少しでもその子の未来が明るくなるように手を打ち続けていくことこそが果たすべき役割である。そのためには、まず的確に現状を分析する必要がある。
話は変わるが、美術館の絵画や教会の壁画などの修復はX線を用いて解析が行われる。随分と前に読んだので、何の絵であったかは忘れてしまったが、それが何百年も前のものであり、これまでの修復によって、原画とは別の色になっていたということが判明した。勝手に上から塗られた部分を削り、元の色を再現したとのこと。大きな筆に墨汁をつけて、紙の上に乗って、大きな字を書く書道のパフォーマンスがある。それと同じように、大きな絵筆に色をたっぷり含ませて、たった一色で塗り上げようとする。色むらができれば、思い通りに染まらないことを非難する。書道の場合は、大きな1枚の均質な白い紙である。でも、色を塗ろうとしているのは、それぞれの子供が持っている特質を反映したパッチワークなのだ。水彩に向いている紙もあれば、油彩用のカンヴァスかもしれない。もしくは、ゴッホが経済的に苦しくて代わりに用いたジュート布かもしれない。しかも、それぞれは白ではなく、既に子供たちの色がついているのだ。その色に良いも悪いもない。もし、同じ色に染めたいのであれば、せめてそれぞれの画材、既にそこにある色をしっかりと見るべきではないだろうか。それをすれば、同化させることが無意味だと気づくはずだ。
誰かがぐちゃぐちゃに塗ったのであれば、それをひとまずきれいにしなければならない。もちろん、そこで終わりではなく、元の色が引き立つようなものを何か付け加えてあげたい。修復作業のようにとても地味で、丁寧に取り組んだ分だけ喜びが得られる。教えるというのはそういうものなのかもしれない。