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2024.02.27Vol.629 旅をすること本を読むこと

 次の文章で扱おうと思いながら保存したネット記事と同様に陽の目を見ないままに終わることがほとんどなのが、本の中の気になった箇所である。前者はラインのKeepメモの機能を使うのでそのまま放ったらかしなのだが、後者はスマホで撮っているので何か月かに一度、画像を整理するために削除するというアクションが必要になる。それゆえ、「やっぱ使わへんかった」と実感する機会がある。その時にはもう自分の中での鮮度が落ちているので、どれだけ書く材料に困っていても「この中で使えそうなものないかな」とはならない。そう言えば、ヤフーの記事に関するコメントの評価は、いつの頃からか「共感した」、「なるほど」、「うーん」になった。その3つのそれぞれの表現と組み合わせを気に入っているため、英語ではどのよう単語が当てられているのかが気になり調べてみたところ、欧州では2022年4月にサービス提供が中止になっていることを知った。今なお継続しているアメリカ版では、親指を上向きと下向きにしているアイコン、つまり”good”, “no good”に加えて”share”の3つで、実に味気が無くがっかりした。日本のサイトの話に戻す。私の基準では、おおよそ受け入れられているコメントは、「共感した」が「うーん」の10倍以上のものである。世の中で「賛否両論あるが」と言われるものは、賛成と反対のバランスがそれぐらいのときに用いられている気がする。「賛成が圧倒的に多いですが、反対している人がいないわけではありません」ということを伝えるために「賛否両論」という言葉はわざわざ引っ張り出してくるのだ。しかし、阪神タイガースに関するポジティブな記事に前向きなコメントをすると、「共感した」が50を超えているのに「うーん」が0、というおかしなことが起こる。それはさすがに偏り過ぎである。以下の記事がその一例である。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4c1c8bf3b5e773aaaea2a6bbb22d26942f4a570
 今回は、新鮮なうちに高野秀行著『語学の天才まで一億光年』の中から2箇所ピックアップする。この本のことには数週間前にも触れた気がするのだが、3, 4冊を並行して読んでいるので、それぞれの本は中々進まない。

①私たち日本人はコンゴ人に比べて体格が劣っており(彼らはおそろしく筋肉質でガタイがよかった)、普通に見てもこっちが子供に見えるぐらいだから、ニコニコしながら近寄ってきてはたどたどしいリンガラ語で「僕、君、好き」なんてしゃべっていたら幼児扱いされても不思議ではない。最初から親しまれると同時に舐められっぱなしであった。

②コンゴでは民族によって政治や経済が左右される。民族は大きく南北に分けられ、南はコンゴ族中心で、彼らは首都に近く、昔からヨーロッパ人と接してきたため教育水準が高くビジネスでも成功している人が多いが、政治は軍部に有力者が多い北部の民族に牛耳られていると聞く。特に当時のコンゴ人は人権も言論の自由もない独裁国家である。
 であるから、自分が一緒にいる人がどんな民族なのか知っておきたい。例えば、現大統領が北部のムワシ族出身とすると、もし目の前の人がムワシ族なら現体制を好意的に話す可能性が高く、南部のコンゴ族なら批判的になる傾向にあると予測される。

 2回生になる前の春休み、大学の友人と2人で2週間程度スペインを旅行した後、バルセロナで別れを告げ、私は一人パリに向かった。初めての寝台列車だったため、自分の部屋の番号を入念に確認した上で期待と不安と共に扉を開けると、あろうことか4人部屋に既に4人の黒人が座っていたのだ。もちろん、すべて男である。旅行を始めてからそれなりの日数を重ねていたので、英語で最低限のコミュニケーションは取れるようになっていたのだが、一気に振り出しに戻ってしまい、確か、自分のチケットを彼らに見せながら「ココワタクシノヘヤノハズナンデスケド」ぐらいのことしか伝えられなかった気がする。そのうちの1人は別の部屋だったのだが遊びに来ていたのだ。一件落着したものの、2等車なので部屋も狭く、座席の間隔にも余裕はなかった。2人ずつ向かい合って座っていたのだが、私の向かいの彼はマイク・タイソン(生徒には通じないので、これまでにこのエピソードを何度か話したときには、どのように例えるかで随分と困った記憶がある)のような体格だったため、彼が大きく広げた股の間を借りるがごとく、私はこれ以上ないぐらいに膝をきちんと揃えていた。就職活動の面接の時よりも行儀良く座っていたはずである。極力気を付けていたものの、電車の揺れに耐えきれず、膝と膝がコツンと当たったときには「パンチ喰らわされるんちゃうか」という恐ろしさがあった。何がきっかけだったが忘れたが、いつの間にかマイク・タイソンと話し始めていた。彼らはフランス語でやり取りをしていたのだが、私とはお互い片言の英語だったこともありいろいろな話をした。これはよく言われることだが、語学力が違い過ぎると、流暢な方はコミュニケーションを取る気が失せてしまうのだが、どちらも拙いとお互いを理解しようという空気が生まれやすくなるのだ。大学受験のときには社会は地理選択だったのが、「コンゴから来た」と言われても、アフリカのどこかにあるかが分からず、「元のザイールだ」と説明されて、ようやく理解した。私が大学に合格したのが1997年で、同年に国名がザイール共和国からコンゴ民主共和国に変わっていたのでその事実を知らなかった。私が旅行していたのが1998年なので、彼らが自由を得て間もない頃だったのだ。そのときは、日本の政治についていろいろと聞かれて答えたのだが、それには上の②のような背景があったことをこのほど初めて知った。彼らは政治に不満を持っていたし、時計などの身に付けているものからそれなりにお金は持っていそうだったので(それゆえ、盗難にあう心配はせずに済んだ)、おそらく南部出身のコンゴ族であったのだろう。
 その日、彼らはバルセロナで友達の畑仕事を手伝ってから来ていた。23時消灯にも関わらず、疲れていたため22時ぐらいには勝手に部屋の電気を消され、まだ眠たくない上に、体の大きさに見合ったすごいいびきの合唱と何とも言えない体臭の中で私は中々寝付けない夜を過ごした。翌朝も、6時点灯を無視して5時ぐらいには電気を付けられ、彼らは身支度を始めたので早々に起こされる羽目になった。寝不足のせいか、パリについて2, 3日は風邪で体調が悪かった。
 実家には、彼らが私のカメラを使い、「これ良いやん。売ってくれ」などと言いながら代わるがわる撮りまくった思い出の写真が残っている。今度帰ったときには久しぶりに探してみようかな。

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