志高塾

志高塾について
志高塾とは
代表挨拶
通塾基本情報
アクセス
お問い合わせ
志高塾の教え方
指導方法
志高塾の作文
志高塾の添削
読解問題の教え方
使用教材と進め方
志高塾の教え方
志高く
志同く
採用情報
お知らせ
志高く

2023.12.05Vol.618 (本)円陣の後編 ~転ぶだろうから先の杖~

 「先生、まずは現実を受け止めないと」。ラウンドの後半、これ以上ないぐらいにニヤリとしながらお父様が私に掛けた言葉である。その日はお父様、お母様と生徒である小3の女の子と回っていた。ゴルフは、前後半9ホールずつに分かれていて、大抵はその間に休憩が入り昼ご飯を食べる。そのご飯の最中に、子供の教育において現実を受け止めることが大事、ということを私が我が物顔で語っていたからである。ゴルフがそうであるように、教育だけに限った話ではない。新入社員の頃、英語で学ぶマーケティングの学校に通わせてもらっていた。教わったことで一番覚えているのが、2つの離れた点の横に、それぞれ”Where we are now?”, “Where we want to go in the future?“とあり、その2点を真っ直ぐな矢印で結んで”how”とホワイトボードにかかれていたことである。この2点を明確に認識することは難しく、どちらも不明瞭であることが多い。そして、その状態で”how”について考えるから打ち手を間違える。
 「将来、どこに行きたいか?」「将来、どうなりたいか?」と「近い将来、どこを経由したいか?」は似て非なるものである。受験は後者に当てはまる。予定通りのタイミングでそこを通り過ぎるために、今どこにいるのか、という客観的な現状認識はやはり必要である。テストの結果はその指標にはなるが絶対的なものではない。進学塾の先生は、それだけを見て判断するが、今は成績が良くても落ちてきそうな子もいれば、その逆もある。それを見極めた上で、適切なアドバイスをするのが相談された者が本来果たすべき役割である。繰り返しになるが、現状を的確に把握するのは難しい。私のゴルフの場合、自分の理想とのずれが現実を受け止め難くしていた。一方で、「もっと自信を持ったら良いのに」と言われる人は、等身大の自分よりも低く見積もってしまっている。
 ようやく三男のテストの話に戻る。同じ時期に受けた上の二人もいたって平凡な点数だったのだが、恐ろしいことにその半分ぐらいしか無かった。今年の春に志高塾を3カ月休ませた時点で、させるかどうかを決めかねていた中学受験は私の中で無くなった。しかし、三男自身が「パパは、ああ言っているけど受験したい」と妻に訴えかけていたということを後で知って、「どうしてもしたくて頑張るのであれば、考え直しても良い」ということを本人に伝えていた。夏頃の話である。そして、テストの結果を見て完全に消え失せた。今度ばかりは、三男も抵抗することは無かった。息子たちが中学受験をするかどうかはどちらでも良く、する場合でも必ずしも難関校を目指さずに悪くない程度のところに行けば良い、というのが私のスタンスである。いろいろな考えをお持ちの親御様がおられるので、私の立場上それぐらいがちょうど良いのだ。もし、中学受験に賛成、反対のどちらかに寄り過ぎていれば、それとは逆の意見を受け入れづらくなってしまう。もちろん、親としては我が子のできが良ければ嬉しいが、その場合だと自分の子供のことを例に取ったときに「先生の子供はよくできるから」と参考にはしてもらえないし、逆にあまりにもできないと「自分の子供の教育すらできていないのに、この人は大丈夫か?」となりかねない。我が子のできについて考えたときに思い浮かぶのが、お笑い芸人である山崎ケイの「ちょうどいいブス」という言葉である。この前、最近は何かと「イズム」、「ハラスメント」を語尾に付けて批判をする風潮にあるということを生徒たちと話していた。「ちょうどいいブス」もルッキズムの観点から批判の対象になっている。話を戻す。実際長男は中学受験をして中堅校に行き、二男は失敗して地元の公立中学に通っている。「難関校を目指さずに」と述べた。めちゃくちゃできれば自然と難関校も視野に入ったのだろうが、親の私が見て、勉強において長男も二男も特別の輝きが無かったので、小学生のときに無理をさせようとはならなった。不合格になった時点から、中1の二男には「北野以外は無いからな」と伝えていて本人もその気なのだが、三男の場合はそのような目標設定をすべきではない。まだ5年生なので高校受験には4年以上もある。トップ校を目指して、特に中学入学前のこの1年間を活用すれば合格できないことも無いのだろうが、それではだめなのだ。身の丈に合わない志望校を設定して、どうにか高校受験に成功した連中は、その後に伸びなくなるからだ。もちろん、本人に自覚が芽生えて自ら勉強をするようになり、成績が予想外に伸びれば話は別である。外科的手術を施すのではなく、自然治癒力を高めることに重きを置くということが言いたいのだ。親として、あまり人工的に手を加えたくないのだが、長男と二男が中1から通い始めた英語塾には、予定を1年前倒しして6年生になったタイミングで入れることにした。もちろん、テストの結果を受けてのことである。その塾は、中1から入った生徒は、週2回、1回2時間半の授業を行い、中3になったタイミングで小学生の頃からじっくり学んできた生徒たちと合流する仕組みになっている。それぐらいのことは鼻歌交じりでやって欲しいのだが、三男にそのガッツは今の時点では期待できない。大怪我だけはしないように気を付けてあげないといけないが、ほどよく転んで自ら気づける機会はコンスタントに与えておいてあげなければいけない。三男に渡した杖は転ばないようにするためではなく、大怪我を防ぐためのものなのだ。
 そろそろ締める頃合いなのだが、まだ書き足りないので次回以降で補足をするかもしれないし、別の話題に移るかもしれない。おそらく5年以上前のことになるが、「受け止める」と「受け入れる」の違いについて述べた。たとえば、誰かにアドバイスを受けたとき、「この人は、こういう理由でこういうことを言っているのか」と自分なりに消化することが「受け止める」である。その上で、それをどう活用するかは本人次第である。一方、「受け入れる」は言われたことを鵜呑みにすることである。三男に関して、今できていないことを親として受け止めはしたが、この子はできないということを受け入れたわけではない。

PAGE TOP